2014/4/30-「half cork」
自宅の壁及びwebにて

TAPを抜けて、
seoul photoも終えて、
東京では展示をしないと言ったとき、
自分が出来る活動は何があるのかと、
ふと思った。
と言うよりは、
壁にかけると言うこと、
及びその創意工夫をしていないと、
どうにも落ち着かなかった。

よく、
離れた場所でやっても、
意味がない様に知り合いは言う。
人が来ないと。
それだったら、
それがどの位意味がないことか、
を、
とりあえず試せたらと。
まず誰も来やしない、
自宅にて写真を並べてみようと。
来ない人に向けては、
Webで見せれば良いかと。

それは多分これまでの展示の、
開催中の期間の来場者を除いた行為で、
個人からの視点で言えば、
TAP での最期の展示と同じで、
自分が自分の作品を観ると言うことに限定した展示。

これより、
3ヶ月間位、
撮りながら作品を入れ換えながら、
やってみようかと。
自宅に来る知り合いには、
直接観て貰えたらと思います。
まぁ、来る人がいるのかは知りませんが。

西脇に完全に移った後の、
東京での知り合いとの距離の、
仮想にもなるのかと。
そう言ったことも考えながら。

展示風景

展示を振り返ってのエッセイ

明るい部屋とTAP とで、
自主ギャラリーに焦点をあてた冊子を作ったときに、
ただ写真を撮影し、
並べたいのであれば、
家に飾ればいいと、
言ったか、
そう考えたにとどまったかは、
記憶が曖昧だけど、
その様な感想を持ったことは確かで。
元々自分の展示の時、
在廊する必要性を、
あまり感じていなかったのもあり、
自分で観ることに重きをおいていたので、
それの極端な例として、
一回、
しっかりとやってみようと。
また、
展示における、
会場以外の部分も、
意識しやすいのかなぁとも。
始めた段階で、
何人かに自宅で展示していること、
およびそれに伴う考えを話したところ、
観る人を意識した展示と、
自宅に並べるとでは全然違うよ、
と、
至極正論を言われた。
ただ、
まぁ、
やってみないことには分からないので。
実際やらないよりは、
やることによって自分の中では、
新しい発見などは多数あったのだから、
まぁ、
やってる意味はあるのかと思うけど。
あと実際の写真の内容として、
ハーフサイズを使ったのは、
一つは金銭的な問題と、
あとは35ミリに比べても、
ましてデジタルよりもシャープさが劣るにも拘らず、
フィルムのとしての良さを感じたからで、
寧ろデジタルとアナログとの比較のなかで、
鮮明に写ることを良しとした、
意見なり考えをうけ、
何故自分達がフィルムを使い続けるかを、
分かりやすく表せるかと思ったからと言うのがある。
最初のうちは、
ピントが合わず、
殆んどが使えないけれど、
それぞれの時点での、
最良と思える10枚を毎回選んでいった。
流石にこれはないなぁと思うのも、
出さざる終えなかったのは辛かったし、
結局Webでの展示に対しての反応は知り合いも含め、
全くなかったので、
とりあえずWebであげてるだけでは、
意見と言うのは貰えないのだなぁと。
自分としては、
その時々の変遷が記録され、
振り返り見れて面白かったのだけど。
あとは、
展示してると言う風に見てもらえないようだなぁと。
知り合いからも、
今何やってるの? 写真撮ってるの? と未だにきかれるし、
発表してるんだけどなぁと思いつつ、
まぁ、仕方ないかと。
連絡先を殆どなくした代わりに、
近況はwebにて全部あげてるつもりなのだけど、
焦らないで時間をかけて認知させれたら良いなぁ。
とりあえず次はDMは作ってみようかと。
あれは何なんだと言う、
文句位でも良いからそう言うところから、
地道に積み重ねれたらと思いつつ、
一旦終了。
次は8月頃新しい作品をのせれたらと思います。

halfcork-1

halfcork-2

halfcork-3

halfcork-4

halfcork-5

2014/9/16-「point 2014 nishiwaki/akasaka etc」
自宅(西脇)の壁及びwebにて

写真を撮るにあたり、
何がしらの期待なり、
表情を求めることはなく、
そこに在する、
そのことが、
ただただ有り難く、
また、
稀少に思える。

展示風景

展示を振り返ってのエッセイ

西脇と姫路の写真を飾り、
空間が余ったので、
ソウルフォトに展示した作品を。
結果的に関西と関東の、
それぞれ一部ながら、
展示出来たのは良かったと。
また、
これからやる方向の、
これが第一歩となるのかと。
改めて見比べてみると、
特に西脇の方が、
まだまだ踏み込めてないなぁと、
まだ地元と言うには程遠い甘さは感じて。
現在、
展示を直接見たのは一人だけで、
これをどうやって拡げていくかが課題だろうし、
真摯に向き合っていかないと、
と、
自分に言い聞かせた、
そんな展示。

2014/9/16- 「静物」
西脇市 卸売市場すぐ、横の壁面

東京を振り返るには、
立場も生活も程遠く、
は、
あれ、
カットによっては、
10年弱の月日だけは経ち。
この写真がなくなるまでは、
この写真は西脇に。
西脇に在ると、
言うことなり、
その表明として、
昔の写真を。

展示風景

展示を振り返ってのエッセイ

西脇の地元の人に、
飾れる壁があるからと言われ、
屋外と言う条件と、
サイズとして見あっていたのが、
最初の展示のプリントだけで、
どう設営するか試行錯誤したものの、
最終的には地元の方の協力で、
なんとか設営が出来た。
とても一人では出来なかったし、
こう言った機会をくれたのも含め、
本当にお礼を言いきれない位、
西脇の方々には感謝しているし、
頭が上がらない。
写真の知り合いには、
オリジナルのプリントを、
屋外に展示するに辺り、
色々言われそうな気もするけど、
元より2013年までのプリントは全て、
西脇に飾れたらと思っていたので、
その最初、
踏ん切りがつくにはよかったのかなぁと。
多くの人が見るとの配慮から、
ホームレス等の写真は削り、
子供の写真を設置しながら、
考えてみれば10年弱昔の東京かと。
この子たちも大きくなってるだろうなぁと。
地元の人に言われた感想の中で、
東京と言う感じがあまりしないなぁ、
と言われたのは嬉しく、
また、
他の人はどう言った反応をするのかも聞いてみたい。
あとは東京では、
東京を無関心さが目立ち、
冷たい印象があるともよく聞き、
そういった部分に対しての反応も気になるところ、
と、
同時に、
まだ移住しきれてない状況を、
何とも歯がゆく思った。

2014/11/24-「from the east,to the side of west2014」
西脇市 卸売市場すぐ、横の壁面

まだ、
道半ばと言う、
半端さを振り返り。
改築前の母校、
名古屋、
大阪、
そして西脇。
過ぎ去れば遠く、
歩を進めば近く。

展示風景

展示を振り返ってのエッセイ

前回の静物において、
プリントが剥がれることと
なったにも関わらず、
補修が自分では出来ず、
人に頼ることとなってしまったので、
補修の必要のないように、
あとは西脇でやるのだから、
西脇の写真を入れたいと言うのが、
前提としてあった。
そう言った中で、
東京から西脇への道すがらを記録した
from~の作品を拡大コピー及び、
ラミネートをして展示した。
東京の写真にあたる雪の母校の写真は、
最近通っていた母校が改築され、
昔の見る影もなくなるような、
近代的な巨大建造物となった今、
改めて自分の好きだった頃の母校を
見て貰いたいと言う我儘の意味合いもあり。
前回分の搬出のとき、
地元の方々に手伝っていただき、
搬入も大家さんに手伝って貰った。
感謝の意を述べると共に、
展示させて貰ってるこの恵まれた環境を、
還元させなくてはいけないと言う、
責任は言わずもがなあるはずで、
自己の満足の上でのと言う前提はあるものの、
その先を考えなくてはと、
改めて思った。

2014/11/25-「point 2014 akasaka etc」
自宅(西脇)の壁及びwebにて

結果的に一年強、
赤坂の店舗に勤務したので、
この一年はほぼ毎日赤坂を撮っていた。
勿論働く前から、
来たことはあったけれど、
これだけ繰返し繰返し、
撮影することはなかったし、
店舗から離れるこれからを考えても、
今みたいに繰返し撮影することは、
ないのかと思う。
東京にいながらも、
更にわりに距離のない場所でも、
そう言った事象が起こるわけで、
何気ない偶発性
(今回で言えば赤坂でバイトをしていたこと)は、
写真にも経験にも大きく影響があるし、
そう言った偶発性の折り重なりにて、
個人は形成されていくのだから、
個々人の奥行きと言うものは、
それぞれに代えがたいものなのかと、
最近よく思う。
話が少しずれるけれど、
ある著名人が言っていた
311の震災に対するコメントの、
"何千人(wikiによると約2万五千人が
死亡または行方不明)
が亡くなったと言う一つの事象ではなく、
一人が地震により亡くなったことが、
何千件もあったんだ
(そう考えるべきだ・意訳)" と言う捉え方に似ている様に思う。
作品として提示したものの良し悪しは別としても、
自分が写真制作をし、
赤坂を撮ったと言うことは、
そう言った偶発性を帯びているのだと思うし、
他の人の写真もまた、
そう言った希少さのもと成り立っているのかと思う。

展示風景

展示を振り返ってのエッセイ

相変わらず直接観た人は、
一人となりそうなのだけれど、
その人のコメントが、
写真をやっているわけでもないのに、
写真をやっている人にされそうな指摘をされて、
そのことが何とも新鮮だった。
具体的には、
電線などなめの部分を、
敢えて積極的に入れるのだねと言うことで、
自分でもそうしていると言う意識はあって、
こう言った意見を貰えるのであれば、
と言う、
東京で写真を展示することからの未練を、
キレイに消してくれたような気がした。
(元々そんな未練が強くはないのだけど、
再認識させてくれた意味で) 内容自体は、
枠の中での代謝は成されているのかなぁ
と言うところで、
不満と満足と両方あって、
欲を言えば異物が欲しかったなぁと。

2014/11/25-「point 2014 akasaka etc」
自宅(東京)の壁及びwebにて

モノクロを色と認知するなら、
郷愁の一要素と、
捉えられなくもないのだろうが、
色ではないのなら、
飾り気のない具象だろうと。
郷愁や叙情は、
経年変化を錯覚する、
現実との色の差異より生まれるのかと、
写真の場合。
記録として在する写真と、
現実との間に挟み込まれるのは、
印画としての、
写真への愛着の様に思え、
イメージに対してではなく、
質感を伴った経験に重ね、
人は懐かしむのだろうと。

展示風景

展示を振り返ってのエッセイ

バイト先のプリント現像機で、
どうにか手焼きと同じだけの余白をつけれないものかと、
中判のネガキャリアに、
ハーフサイズのネガをはめてプリントした所、
ネガのベース面を含め、
一つの色と認識してしまうらしく、
色が大きくシアンよりに転んだ。
更にはネガの端より光漏れを起こすらしく、
変に黄ばんだ感じとなった。
何回も試行錯誤を繰り返せば、
現実の色に近付きはするのだろうけれど、
プリントは現実の再現を目的にはしてないと思うので、
余りに極端な色の偏りだけ直し、
プリントをした。
モノクロと混在すると、
モノクロの素直さと言うものがでて、
カラーもモノクロも、
同じ様に現実を媒介とした、
現実と異なるもの、
印画紙としての存在感みたいなものを、
自分としては感じた。

追記
webにあげるまで時間差があったのだけど、
あげるに当たり、
画面の位置がずれるからと、
一旦は裁ち落としにし、
しかしながらそうすると、
カラーの色の偏り具合が、
意味不明になり、
結局もとに戻すこととにして、
改めてwebの写真を見直すと、
webにおいての写真が、
裁ち落としに近いと言うか、
額で言うマットの余白の認識なり概念が、
存在しないことに気付いた。
もとい、
そうではなく、
展示において、
壁、額、マット(余白)、イメージ(写真)という階層を、
普段は意識せず、
イメージよりその中へ、
入り込んで見ていたその行為の、
再認識のようにも思えた。
今回のwebの写真は、
写真をさらに撮影した (実際はスキャンした)、
写真を展示している状態を、
さらにもう一歩引いたような客観性が、
悪く言えば入り込めない感じがして、
それが自分としては新鮮だった。
言えばBABEL FAMILIAの時にやった行為の、
より分かりやすいアプローチだったのかと。
展示では違和感のない分、
webは異様な感じがした。

2015/1/20- 「久絽店番展」※point 2014 akasaka etc番外編
自宅(東京)の壁及びwebにて

展示風景

展示を振り返ってのエッセイ

店番をやるのであったら、
バイト代の代わりに、
写真を貼らして貰って良いですか? と、
自宅に飾ってあった最近の写真を、
壁に貼ったのだけど、
考えてみると元々森山さんの写真が飾ってある訳で、
並べて同じ場所に飾ること自体、
普通ではあり得ないことだったのかなぁと。
良いのかなぁ、
と、
あとになって思ったけど、
まぁ、
今更仕方ないかと。
実際並んだ写真郡を見てみると、
空間としては良くまとまってるのかなぁ、
と、
言うのと、
そうではあっても、
別々の人が撮ってるなぁと言うのは、
恐ろしく分かりやすく出るわけで。、
まぁ、
そもそも比べるのも失礼な話で、
立場や諸々は、
あちらが全然上な訳で。
まぁ、
至極当然、
それはそうなのだけど。、
まぁ、
とりあえずは、
途中でやっばりやめとこうとしない、
自分の鈍感力だけを誇らしく思っておこうかと。

2015/3/3-「march comes like in a lion」
自宅(東京)の壁及びwebにて

旅立ちの日に

展示風景

展示を振り返ってのエッセイ

西脇に立つ日に母親から、
階段の壁に何か飾ってよと突然言われ、
急遽東京にまだ残しているプリントを選んで並べたもの。

実家にいたのもあり、
母親には常に写真は見せていたし、
実際ずっと応援して貰っていたのもあるしと、
母親が気に入ったものを中心にして並べた。
あとは身内ながら、
人を想定して選ぶことがなんだか新鮮だったし、
実際並んだのを見ると、
自分だけではこういう構成にはしなかっただろうなぁというのも、
それもなんだか不思議な感じがした。

あとはこれが自宅に並んでいるわけだけど、
メディアで活躍する人ならば、
雑誌での発表として人が目にするのだろうし、
それは個展なり写真集ではない、
良い意味での遊びとして魅力的なのだろうと。
自主ギャラリーをやる人であれば、
急遽埋めなければいけないときにも出来るのに対し、
ギャラリーを借りて個展をしている人や、
公募展では、
こう言った無理矢理やるような、
そういった無茶をする機会が乏しいだろうなぁと。

まぁ自分の場合は、
今回は特にこれといった派生もなかろうけど、
自分が気づかされるといった機会としては、
母親に貰ったという部分があったのかなぁと思う。
ちなみにタイトルは好きな映画と漫画からの引用。

2015/3/8-「夢の温度」
西脇 卸売市場横の壁

西脇へ完全に移ったわけなので、
ある部分夢を達してる所はあるのだけれど、
水が流れないと澱むように、
夢は達したと思う時点で、
その活動性を失ってしまうような。
熱というものが、
分子レベルの運動により発せられてると考えるなら、
達せたと思う時点で、
その熱量は失われてしまうわけで、
そうであったら悲しいけど、
でもそう言った危ういものが夢と言う概念なのかなぁとも思う。
勿論これからなのだろうし、
ただ今が、
ある種の到達点ではあるのだから、
その熱量を失わないように、
また、
あれをやりたいやら、
これをやりたいと言うのを見つけないとなぁという、
切迫感がある。
まぁ、
やりたいことは色々あるのと、
一番怖いのは仕事をみつけれず、
出戻りすることなので、
まずは仕事を見つけないとなぁと。

展示風景

展示を振り返ってのエッセイ

前回がモノクロでやたらと濃く、
見にくかったと思ったので、
カラーではあるけど、
コピーする濃度を薄くしたら、
予想以上に薄かったのは、
単純に失敗だったなぁと。
カラーだと濃くていいんだと。
ただカラーの場合は、
色の褪色が激しいだろうということで、
もともと色褪せた感じがした、
point 2014 akasaka etcを四枚張った。
タイトルはあいも変わらず、
好きな漫画のタイトルを引用したのだけれど、
搬入の際中までぜんぜん決まっていなく、
point~では赤坂一枚しかないしなぁ、
望郷、故郷、郷愁などというのも、
そうするには重みがまるで足りないよなぁと、
結局夢の温度となった。
嬉しかったのは、
前は西脇の写真だったよなぁとか、
写真が変わりましたねぇと地元の人に言ってもらえたことで、
ギャラリーで展示をしている時でも、
前回の写真との比較を言ってくれる人など、
本当にごく一部の知り合いだけなので、
それは単純にありがたいことだなぁと思った。
あとは前のと今回のだったらどっちが好きだとか、
作品の良し悪しも聞けるようになるのが理想ではあるのだけど、
まぁそこらへんはあせらず精進していこうかと。
とりあえず壁面の展示は展示で、
どうにかクオリティをあげていかないとなぁとか、
そんなことを思った。

2015/5/5-「華の散る頃」
西脇 卸売市場横の壁

西脇に越して、
初めての桜は、
満開となってから写真に収めようとするその前に、
雨で散ってしまいました。
ただ、
満開ではないからと桜が桜の魅力を失うわけではなく、
また春という季節も蔭りを見せることなく、
新しい生活に色を射してくれていた様に思います。
そんな華の散った頃、
撮影した写真です。

展示風景

展示を振り返ってのエッセイ

西脇を撮るならノコギリ屋根も欲しいねぇ、
と言うのを知り合いに言われ、
いった当人は何気ないであろうその一言が、
なんとも考えさせられたものでもあった。
今回は実際に西脇での生活をはじめてからの、
西脇の写真だけで構成したのだけれど、
西脇に来るに辺り、
東京で知り合いに言っていたことの中で、
プロカメラマンではない、
写真家と言うものがその街にいると言う豊かさを示せたらと、
と言うのがあった。
要するに、
観光的なアイコンではなく、
生活に根差した、
何気ない見過ごしがちになる部分を、
残る形(写真として魅力的で目を引くもの)とすることが、
出来たらなぁと。
実際撮影する中で、
無意識的なのかどうかは曖昧だけど、
アイコン的な部分を確かに外していて、
これを続けていくなかで、
後々地元の人が振り返りみたとき、
アイコンがないのは、
それはそれで不自然なのかなぁとも。
東京で撮影していたとき、
東京タワーやスカイツリー、
浅草浅草寺の雷門など、
まず撮らなかったし、
これからもまず撮る気にもならないと思う。
ただ、
上村さんの展示を手伝ったときに写っていた109やパンテオンは魅力的だったし、
例えば東京の渋谷を記録した人の写真集として出たときに、
そう言ったアイコンがないのは、
やはり寂しい気もするなぁと。
壁の展示を設置したあと、
ノコギリ屋根を意識的にみたものの、
中々混ぜるのが難しいと思うのは、
ノコギリ屋根に魅力がないのではなく、
自分の見方なり撮り方の偏りと、
許容の低さの様に思われた。
まぁ、
長々とやっていくので焦る必要はないかとは思うのだけど、
いつか自分も納得する形で、
ノコギリ屋根やそう言った諸々のアイコンも、
写真におさめられたらなぁ、
なぞ思った。

2015/6/1-「2011/2013/2015」
自宅(西脇)及びwebにて

被写体に対して、
その身の置き方により、
写真のその先に見えるものはまた違うのだろうと。
西脇に越してから3ヶ月過ごす中で、
見えてきたのはまだ見えないと言うこと。
恐らくはまだ西脇に東京を重ね、
なぞるに過ぎないと言うこと。
地元の人に写真を見せては、
何が見えるかを教えて貰う日々かと。

※今回は静物(2011年)、子午線(2013年)、
point 2015 nishiwaki etc(2015年・新作)と、
壁ごとにそれぞれを並べています。

展示風景

展示を振り返ってのエッセイ

ギャラリーでの展示をしなくなってから、
ギャラリーの時と変わってしまったりはしてるのだろうか?
と言う疑問は、
幾ら自分が変わらないと思ったとしても、
なくなると言うことはないのだと思う。
確証するには素材も余りに乏しい訳だし。
(要は観てくれる人の意見とか、
今まで聞けていたものが聞けなくなったりしているので)
いずれにせよ、
客観には程遠いにせよ、
並べて比べたときどう見えるのかと言うのは気になったし、
気になることはもれなくやろうと、
言うことでその年毎の作品と、
新作を。

単純な印象としてあったのは、
東京の時は人を見ているなぁと。
その上で街が写っていて、
それを撮ってくれたのは写真で、
と、
何やら変な言い方だけど、
写真と言うものの構成として、
作者が惹かれたものへと方向を定め、
そして作者の気付かぬ部分、
自分で言えば街を、
写真と言う機械が残してくれていると言う感じがして、
言えば、
前者は意識的に、
後者は無意識的に形成されているのかなぁと。
その意味で自分は人しか見ていなかったなぁ、
と、
言うのが東京での写真であって、
逆に西脇のは、
つたなさはあれど、
街を見ているかなぁと言う気がした。

そしてまた東京と西脇とを見比べたとき、
東京はその写真を介し、
その先、
写っている場に対しての思い出やら、
その場所においての、
他の時に撮った別のカットなどをどこかで見ていて、
それに対し西脇ではその先、
と言うよりかは、
まだ3ヶ月しかいないし、
撮影以外そこでまだ何もしてないので、
写真のその先と言うものがまだ見えて来ないなぁと。
地元の人には写真のその先が見えるのだろうなぁと言う気がしたし、
色々な意味で作り手側の自分が、
まだまだ未熟だなと、
西脇を撮るにあたって。

実際よく行くお店の人に、
展示には使わなかった写真を見てもらうと、
自分の予想だにしない写真を面白がってくれて、
そう言った反応は面白かったし、
自宅に観に来てもらわなくても、
そう言ったアプローチと言うのもあるのかなぁと。
特に地元の人に対しては。

あとはwebの詳細ページの方には、
自宅の壁に展示しなかったカットを、
50枚前後とわりと多目に載せようと出しては見たのものの、
写っているものの奥に、
敢えて落としたカットが見えて来ないと言うか、
まぁ、
単純に言えば数が足りないのかなぁと。
(撮りはしてるけど予算の関係で未現像のフィルムが今の倍くらいある)
実際ギャラリーとかで展示していた時は、
ここを叩き台に、
極力半端な、
物足りなさの残るものは落とそうと努めていたので、
そう言った落とす作業が半端と言うか、
出来てないのかなぁと。

屋外の壁が大体2ヶ月が限界(褪色具合が)なので、
2ヶ月毎に自宅のも代えようかと思っていたけど、
もう少し粘れる様、
期間を開けた方が良いのかなぁと。
そこら辺のやり方の模索も含め、
色々考えることとなった展示だった。

追記
今回、
webに載せた写真のブックを、
地元の知り合いなり、
知り合いの知り合いに見せて話を聞いたりしていたのだけれど、
その中で、
西脇でこう言った感じで写真を撮る人はいないと言った意見を貰って、
それは西脇において、
素直にあらたしい(新しいの元々の言葉、数の少ないの意)
価値観なのではないかと言う気も。
良し悪しはとりあえずここでは問題とせず、
また、
馴染みのない人には分かりづらいと考えがちな、
自分達の写真を馴染んで貰う、
その一歩めにはなっているのではないかなぁと言う気にも。
実際自分の写真は、
同じ様に写真をやる人の中で、
特に斬新な視点がある訳でもなく、
ごくありふれた視点であり、
それでもやはり、
写真をやらない人には"馴染みがない故に"
良いも悪いも分からないと思われる写真なのかと思うので、
重ねて見て貰うことによって、
良く見られるにしろつまらなく思われるにしろ、
価値観と言うものは形成されていくのだろうし、
そう言った写真に対する価値観・基準を持って貰えたら、
自分以外の知り合いの写真を見て貰った時にも、
改めて楽しめやすくなって貰えるのではないかなぁと。
"この作品はメディア等で取り上げられて、
価値のあるものだ"と言う前提のもと見て貰うのではなく、
素直に写真(ここでは自分達特有の写真の意)と言うものに
触れて貰えるのではないかなぁと、
要は観る人の価値観のもと、
作品の好き嫌いを判断して貰えるよう、
時間はかかるだろうけど、
見せていくことを西脇で続けて行けたらなぁと、
そんなことを改めて思った。

2015/7/13-「三月(みつき)」
自宅(西脇)及びwebにて

西脇に来て3ヶ月を過ぎた頃より、
大分街並みを見慣れて来たなぁと言う思いはあったのだけれど、
田植えをする為に出来た水の一面は、
見慣れたと思いはじめていた風景を、
大きく違ってみせて、
そう言った、
地元の人には当たり前かも知れない変化を目の当たりにして、
3ヶ月と言う時間が、
まだ短いものであると言うことを、
どこかで実感した様な。
花火を見たり、
運動会を見に行ったり、
少しずつ西脇と言う街に触れては、
その度に感銘を受けたりするのです。

展示風景

展示を振り返ってのエッセイ

壁に関しては、
見て貰う人(地元西脇の人)に分かり良い写真を
(媚びると言うことではなく歩み寄ろうと、
自分の引き出しの中を探すという意味で)、
それで自宅の方を、
より自分の素直な所に、
と、
一応は自分の中で一つの方向性として、
今回からやってみたつもりなのだけど、
上手くいってるのかどうなのかが、
いまだに全く分からず。
(あとは壁にはまだ展示してなかったと言うのもあり、
前回自宅とwebで使った写真も2枚ほど出しました)
と言うのは、
写真をやる人が考える、
やってない人が好みそうな写真と言うものは、
大体外れていると言う印象があるからで。
(猫、空、笑顔といった感じでしょうか)
実際知り合いにちょこちょこ聞いてみると、
川の写真とかは割に反応は良いのかなぁと。
DMにも使ったけど、
何やら一番変な感じのする写真かと。
作り込みすぎてない半端さも含めて。
しかし、
改めて振り返り見てみると、
構成として変化に乏しかったかなぁと。
その分運動会の写真が浮いてしまった様な気も。
日々勉強ですな、
と、
やっていることの難しさを実感する感じがした、
そんな展示

2015/8/21- 夏休みの自由研究「On the desktop」
webにて

夏休みというか、
お盆の休みに、
デジカメだけでの撮影をやってみました。
いつもならやらない形と言うことを心がけ、
紙にプリントもせず、
セレクトから並べまで、
全てPCのデータ上で済ませた感じです。

展示を振り返ってのエッセイ

盆の休みを長々ともらったのだけど、
その間中撮影出来るほどのフィルムを買う余裕はない、
となった時に、
それだったら記録用に買っていたデジカメだけで撮影してみようと、
こういう機会でもないかぎり、
フィルムを選択してしまうしとはじめたこの企画は、
デジカメのファインダーは、
変なコントラストついてるし、
ピントはあいずらいし、
カメラを立ち上げた時の最初の広角は広すぎるしと、
最初はやりにくいところばかりが目についたけど、
段々やっていく中で、
がしがし無駄うちをする中で出てくる良いリズムと言うか、
そんな部分より肯定的にやるようになっていった。
実際撮影してからPC上にコピーするまで、
確認もあまりせず、
露出のおかしいのも後々みると、
何かひかれたり、
フィルムカメラでは使うことのまずない、
超広角や超望遠など、
思いの外楽しんでやれたなぁと。

タイトルは、
並べとセレクトをデスクトップ上でやったところからつけていて、
これも通常ではまずやらないやり方で、
粗い印刷ででも必ず物質として紙焼にしてやるのが常だったけど、
あえていつもはやらないやり方をとやってみた。

全体として作品制作の部分でかなり新鮮なことが多く、
また冬にでもやってみたいなと思う位の出来にはなったかなぁと。

あと、
一枚目はフィルムでとったものと比較する為に構図等も似せたもので、
web(特にスマートフォン)上で見る限りでは、
そこまで変わらないかなぁと。
紙に焼くとまた違うとは思うけど。
まぁ、
デジタルへ移行しようとは思わなかったけれど、
中々良い刺激にはなったかと、
そんな展示。

2015/9/13-「point 2015 nishiwaki etc」
西脇市地方卸売市場横の壁

自分の作品は、
日々惹かれるものにレンズを向け、
撮影を繰り返しているだけなので、
何かを表現したいとか、
テーマと言えるほど明確なものは元々ありません。
あるとするならば寧ろ先にあるのは作品で、
あまりに取り留めのない自分の視線をつないでくれる意味で、
後からテーマなりタイトルと言うものが出来るのかと思います。
ですから、
自分が西脇と言う街を表現するのではなく、
西脇と言う街が作品をつむいでくれていると言う、
そう言うニュアンスが近いのかと思いますし、
そう言った積み重ねが結果として、
街の記録になったらばいいなと思い写真を撮っています。

展示風景

展示を振り返ってのエッセイ

壁の写真の飾り方にも、
もう少しバリエーションがあっても良いのかなと、
今回は段組にしてみたのだけれど、
そうすると縦の長さが壁をはみ出してしまい、
縦横比を大分横長にすることとなった。
結果的に、
それが今回は上手くいったかと思っていて、
ここまで横長のものはやったことがなかったので、
それが新鮮だったのと、
意外と大きさとしても、
そこまで小さくはないのかなと言うのも一つの発見だったかと。
(ただ、逆に真ん中の2枚のサイズがもう少し違った方が良かったかなぁとも)
上下がぴったりだったので、
壁の端から張り始め、
そうすると今まで気にはなっていた剥がし痕がより目立つ感じになったので、
白紙をラミネートして、
目隠しにした。
あとは東京で知り合った方の感想の中で、
キャプションに対して強く共感して貰えた様で、
西脇の人に自分達の傾向を伝える時の言葉として、
適切なものと言えるのでは、
ないかなぁなぞも思ったり。
まぁ、
相変わらず自分の都合良く捉えてるにすぎないかもしれないけれど、
まぁ、前向きに。

2015/9/13-「2010/2012/2014」
自宅の展示 及びwebにて

遇数年の展示を振り返り再編集したものです。
half cork(2014年)
from the east,to the side of west(2012年)
静物(2010年)

展示風景

展示を振り返ってのエッセイ

今回は東京での知り合いの方が来てくれて、
まずまずの反応を貰えたのかなと。
あとは制作途中のpoint 2015 nishiwaki etcも見て貰って、
是非東京でも見たいなぁと言って貰えたのは単純に嬉しくて、
また、
一人西脇でやっている中で、
余りに頓珍漢な方向には進んでないのかなと言う風に安心も出来た様な
(まぁ、一人だけの反応ながら、
もう自分の都合の良い様に、
それを全面的に信用することとしようかと)
あとは西脇の町を歩く中で、
自分が反応した色の部分にもある程度共感してくれた様で、
そこら辺は同じ様に西脇と別の場所で育った故の反応でもあるのかなぁと
(自分は東京、その人は神奈川…だと思う)
地元の人には、
恐らくは余りに当たり前に馴染み過ぎてて、
分かりにくい部分なのかと思うので。
前回と同じ様に今回も、
東京でやっていた展示と、
準新作を出していたのだけど、
実際、
見逃していた展示を、
一つ機会を作ったことで見せれたことは、
中々意義のあることではないかなぁと思っていて、
逆を言えば、
レンタルでギャラリーで展示している人って、
一回見せそびれると、
展示と言う形では見せる機会って中々作れないだろうなぁと言うのも思って、
(何せお金を払って展示空間を借りる訳なので、
同じものを繰り返すと言うことは、
まずしにくかろうと)
それは何やらえらく勿体ないことだと、
東京に居たときも思っていたし、
自分のギャラリーを持っている人の、
一つの特権でもあったのではと、
改めて思ったり。
(有名な人で、回顧展示みたいに出来る人はまた別だろうけど)
いずれにしても、
元々関わっていた写真関係者に見てもらうのはもらうので、
色々勉強にもなるなぁと、
地元の人の意見を聞くのと同様に。
まぁ、
2019年までは東京では展示しないことは決めているので、
この調子で西脇で発表を続けていこうと言うのと、
あとは、
西脇まで来てでもみたいと思わせられる様な内容を提示できたらと。
そうするには来て貰ったら満足して帰せるだけの、
質も持てる様に、
日々精進しないとなぁと。
日々変わらず淡々と努力してこうと、
変わらず思えた、
そんな展示。

追記
今回は壁を見たことや、
DMを渡したことによる派生がちょこちょこあって、
元々の知り合い以外の、
西脇の人の意見も聞くことが出来た。
自宅で展示していると言うこともあり、
来場者数自体は、
相も変わらず東京でやっていたら、
やってても意味ないんじゃないと捉えられそうな位僅かなのだけど、
こう言った拡がりがあるのであれば、
やはりやりがいと言うものや、
意義と言うものはあるのだと感じる。
東京でやっていた時も、
お客さんが来てそれだけで終わりと言うパターンも多分にあった訳で。
0を1にすると言うことが、
最も時間も労力もかかるわけで、
考えてみるとDMを置いて貰うこと自体、
こちらでは一から始めなくてはいけないわけで、
(同じ様にやっているギャラリーがあるわけでなく、
設置用のDMを送りあったりと言うこともないので)
僅かながらの前進も、
しっかり喜びとして噛み締めながら続けていこうと、
そんなことを思った。

2015/11/21-「point 2015 nishiwaki etc」
西脇市地方卸売市場横の壁

後悔を避ける様に、撮影を繰り返す訳では決してないのですが、
何かがもう撮れはしないと分かった時、
それまでに撮影していた写真に、
どこか救われた様な気持ちになることがあります。
撮っていて良かったと。
そう言ったものは逆算的に撮れはしないし、
撮れなくなるからと価値が有するものでもなく、
純粋に惹かれたから写真に収めた訳で、
結果に過ぎなくはあるのですが。
何を撮るべきか、という考えもまた視野を狭めるので、
自分の場合、日々に身を委ね、ただただ撮影を続けます。
半ば選択を投げ出してしまっているかの様ですが、
結果的にこの方法が一番悔いを残さず写真を続けれるのかと。
途切れることなく、続けることが大切なのかと。
もし、考えるとすれば、日々過ごす西脇での生活と、
自分が何を見たいかと言う意味での衝動で、
結果を求めようとすれば、逆に結果はついてこないように思われます。
そんなことを、
これまで撮影した写真を振り返り見たときに、
ふと思いました。

展示風景

展示を振り返ってのエッセイ

後悔、
と言う内容を敢えて書いたのは、
9月の帰省の際を含め、
思うことがあったからで、
具体的には、
撮影しようと思っていた人が、
大分やつれてしまい、
撮影することをはばかられてしまったと言うことだったりする。
その内の一人は清澄でギャラリーをやっていた時の、
前に住んでいるおばあちゃんで、
白内障の手術をした直後だったそう。
さすがに撮れはしないなぁと思うと同時に、
元気な時にデジカメではあったけど撮影したものがあったわけで、
撮影した時はさして何も思うことはなかったけれど、
つくづく撮っていて良かったと思った。
また元気になったら撮影させてもらえたらと思う。

西脇の町並みにおいても、
短い間ながらもう撮れなくなってしまったものが、
少しずつではあるもちらほら出てきて、
特にそこを通る度に撮影をしていたものだから、
なんとも残念だった。
特になんでもない風景だったのだけれど、
自分は好きだったので。

多分そうやって、
撮れなくなってしまってから、
往々に気付くものなのだろう。
また、
塗装の仕事をしていて思ったのが、
塗っている時一番見えづらいのって、
暗い所と言うよりかは、
何か強い光が当たって、
その脇に出来た影の部分であって、
そこにまた光を当てると、
また別の部分が見えづらくなってしまい、
そのことが何とも象徴的な感じがした。

何か強く惹き付けるものの影で、
いつも何かがこぼれ落ちてしまう。
考えすぎては堂々巡りで逆に撮れなくなってしまうので、
出来るだけ肩肘張らず、
そして、
途切れない様にだけは努めようと。

あとは今回は、
知り合いのお子さんの写真を、
母親の了解を得て使わせて貰った。
知り合いを撮りなれてない中で、
作品に混ざったのは何とも嬉しい限りで。
何やらそういう所も含め、
西脇で色々勉強させてもらっている、
そんな気持ちになった。

2015/12/5-「point 2015 nishiwaki etc」
自宅の展示 及びwebにて

少しずつ、
自分にも写真よりその先が見えて、
ただ、
まだ、一年にも満たない、
過程の経過として。
西脇市の写真。

展示風景

展示を振り返ってのエッセイ

3月より移住したので、
まだ一年までには満たないけれど、
一年目の写真のある種集大成として、
今回100カットほど選んで展示した。

前回壁にではないけれど、
webに載せたものに比べれば、
段々西脇と言う土地に足が地に着いているのではと思うも、
あくまでまだ一年目。
見逃している部分も強いだろうなぁとも、
そんな負い目がまだまだある。

自分は旅の写真と言うものが撮れない。
撮れないと言うと、
ただ押せば写りはするので嘘になってしまうけれど、
一回の撮影で済ますことにどこか、
足りないと言う強いという方が正確なのかと。
”撮る”と言うよりかは、
自分の場合は”見る”と言うことだろう。
何回も何回も見て、
繰り返し惹かれると言う所より、
自分がここに惹かれているのかということに、
ぼんやり気付いていくと言う過程が、
自分の中には必要なのだろうなぁとか思う。

今回は出してないけれど、
三宮から神戸まで歩いた時に、
フィルムがなくなってしまい、
学生時代フィルムを消費することをけちってはいけない、
フィルムは幾ら撮っても余ってしまう位、
持って行けと言われた事があったけど、
自分の場合はそれは違うかなぁと思った。
どうしてもまだ撮りたいのであれば、
再びそこを訪れれば良い話で、
その情熱がないのであれば、
そこまで惹かれたものではないと言うことなのではと。

西脇においても、
撮影するカット数自体は、
昔に比べると極端に減ったのかと思う。
ただその代わりに、
何回も足を運ぶし、
しつこい位に同じ様なものを撮っている。
飽きてからが本番、
と言うのを、
後輩や友人などによく言うけれど、
いまだにそう思う。
飽きようが何しようが、
やはり惹かれるものにはカメラを向けてしまうし、
その繰り返しなのだろうと思う。
その意味で自分には旅と言う時間では短すぎると言うのも、
西脇に移った理由のように思う。

あとは展示をするにあたり、
100カットと言うものが、
思いのほか多くて、
けれど飽くまで一つの流れとして見せたいと、
段組にはしているのだけれど、
列を食い込ませるような形にして、
妙な形の展示となった。
ただ、
自分としては、
思いのほか上手くいったと思っていて、
展示の終わった後、
何度も見返す様な満足の行く物となったかと。
ただ、
これは実際見ないと分からないなぁと言う思いも強く、
活動を続けていく中で、
どうやったら足を運んでもらえるかと、
満足している分歯がゆいものともなった。

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