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グダグダエッセイです
更新履歴

展示の感想

自分は批評家でも研究者でもないので、
この内容は個人的な視点からの感想です。
展示内容を良い悪いを言うよりかは、
展示をみたのをきっかけに考えたことを書いています。
また以下の情報を蛇足のようですが明記します。

a 展示者との関係 b 作家の展示を見た回数 c

自分のいう事に重みを持たせるというよりはその逆で、
ある一定の疑いと、自分で判断する様促す為のものとお考えいただければ。
基本的には実際見たとき、
他の人はどう考えたているか気になったときの参考として利用していただければ。
かなりの偏りがあることははじめに断っておきます。

星玄人

2015.1.13 - 1.25「St.photo exhibition 19」

カラーに見慣れていたからか、
改めて見たモノクロは、
画面の均衡が、
綺麗に整っていて、
かといって窮屈にはならず、
今まであった不均衡さによる遊びなり余剰は抑えられ、
縦方向に広がりを持たらしてる感じがして、
なんとも良かった。

a 知り合い b 25回

星玄人

2014.10.28 - 11.5
「Photo Album 2003・2006~2013 Non-Selection 展」

量感で見せる感じの中で、
見づらさはなく、
また、
撮影してる中での、
作家の人柄が隠れることがなく、
見えた感じがする。
視線が優しい、
とは、
荒木さんの再び写真へでも思ったことなのだけれど、
星氏が撮るアクの強い被写体の中より、
返される視線は、
撮り手自身の優しい視線のうつし身だろう。
作者にはそう言った意図はないにしろ、
暖かい人柄を、
照れ隠そうとする、
そんな為の、
量としてこの展示は見えた。

a 知人 b 24回位

星玄人

2014.4.11-4.20「St.photo exhibition 18」
サードディストリクトギャラリー

距離感がどことなく揃ってる感じがして、
意図的にしてるのか聞いてみると、
落とし所として、
その距離に落ち着いてきたのではとのこと。
子供とかのいる風景は、
いつもだったらと言う距離より一回り寄っていて、
逆に被写体の強い写真は、
一回り引くようで、
結果的に中間距離が多かった。
ただ、そう感じるのは、
自分がそう言ったとこに目が行きがちな部分も強かろうし、
もっと他の変化もあったのかなぁと。
そう思ったとき、
ギリギリにいくと、
もう一度見れなくてよくないなぁと。

a 知り合い b 23回位

星玄人

2014.2.28 - 3.9「St.photo exhibition 17 横浜」
サードディストリクトギャラリー >

久しぶりの横浜、
モノクロで、
特に引きの画が変わったというか、
魅力を感じた。
前は広い(シンプルな)空間の中で、
被写体が端に引っ掛かるように鎮座していた印象だったのに対し、
今回の写真では、
下地となる画が良い意味でゴチャゴチャしてるような。
流れとしては、
今までにもある要素と、
前述した引きの絵と、
なだらかに絡む感じ。
それでも全体的に、
被写体よりも街の空気感みたいな部分が、
前に出てきてるのかなぁと、
そんな感じがした。

a 知り合い b 22回位

星玄人

2013.7.17 - 7.25「St.photo exhibition 16」

今回はでこぼことした感じはなく、 どこか中間距離の印象が多かった。 いつもより、より淡々と。 丁寧に向き合っているような印象。

a 知人 b 21回位

星玄人

2013.3.26 - 4.7 「St. photo exhibition 15」
サードディストリクトギャラリー

街の中で人を撮る時、
その距離感というものにもどかしさを覚えたりはするもので、
それは多分物理的に近づけないと言うことよりも、
被写体との丁度いい距離を保つ、
距離を探求する困難さなのかと思う。
近づきすぎては被写体の個性に依存してしまうだろうし、
かといって突き放し街の一部に埋もれてもよくない。
それならばそもそも人を撮らなくて良いのではとなってしまう。
その距離のとり方が、
おそらくは自分との違いでもあり、
この作家ならではの個性なのかと。
全体としてのまとまりもよい中で、
どこか小さく収まった感じがしないのは、
多分そういった試行錯誤した姿勢が見えるからで、
また、水銀灯の緑カブリがまた
アナログ特有の物質感を喚起させ、
作家も含めた人と人との交流の温度を感じる展示だった。

a 知人 b 20回位

北島敬三

2013.4.2 - 4.28“USSR 1991/A.D. 1991”
PHOTOGRPHARSGALLERY

圧倒的というのが、
まずある感想で、
内容としてはソ連崩壊前後のロシアの
スナップやポートレートが中心なのだけれど、
どこか被写体の生気が抜けたような印象が残る。
それは多分無表情というものではなく、
むしろ表情豊かなものもある中でそういった印象を持つのは、
被写体も作者もどこか無意識下に予感する時代の変革が、
現実との温度差として浸透しているからのように思える。
痛々しいくらいの静けさの中での
時代の大きなうねりがありありと出ているようで、
また、長い年月発表されなかったのもあってか、
記録性におけるこれから先に対する強度と言うものも強く感じた。

a 共通の知人はいれども直接の面識はない b 7回前後

山方伸

2013/11/18-11/24『topography』
placeM2

印象なのかアイコンなのかはよく分からないけれど、
木を切った時の直線(平面性)を基盤とした幾何学なのかなと。
要は人工的な線の構成と言う面もありはするものの、
そこに自然の木々や山並といった、
偶発的な要素が組み込まれている様。
対比として適当ではないけれど、
自分の場合は9割方人為的な線(要は人工物や人)山方伸 による幾何学で画面を構成するのにしっくり来るのに対し、
作者の山方氏が地方を選ぶのは多分そういったもののバランスなのだろうと思う。
直線でありつつ、どこかある丸味が、
確かにあるのだと思う。

a 知人b 5回位

2013.03.26 - 2013.04.07 "リフレクション DIVISION1" PLACE M

アップフィールドの流れからのグループ展。
人の視覚を気にした、と言うのは確かにそうで、
それは写真の内容もそうだし、展示の方法においても。
パネルと木パネ張りの大小さまざまな作品が、
壁にランダムに並ぶ。
作品の厚さの違いが平面ではない立体としての物質感を意識させ、
一つのカットを見るその視界の端にも他のカットがうつり、
それが人の視野角の広さを認識させる展示。
それでいて見るのにさして邪魔になる訳でもなく
そのバランスと言うものが新鮮だった。
写真自体の内容として、
元々構図を意識すると言う作者の言うとおりに、
いつも水平に保つ視線が今回は上下に振られ、
また一枚というよりかは複数枚に広がりを持つような、
いい意味で一枚に完結しないあそびの部分を含んだいた気がする。
また作家が話の中で言っていた、
惹かれた被写体に枠を置くだけではいけないという意見は、
僕とは逆の考えなので新鮮で、
こだわりゆえないがしろにされたくないポイントとして
山方さんの中に技法があるのだろうと。

他の展示者のも少し書くならば、
山方さんと一緒に展示していた池田さんの展示は、
展示としては二人でよくまとまっていたような気がするけれど、
一枚一枚がまとまりすぎてしまっているような気がした。
( トークショーで聞いたことによると、 元々絵画が好きだったこともあるらしく、
そこら辺の影響もあるのかと。)
大谷くんのはよく纏まっていて、
ビル影の写真なんかはすきなんだけれど、
逆に纏まりよくやっているところでプリントが大きく、
その大きさの必然といったものがないと、
ちょっとごまかしに見えてしまいそうなところが危ういかと。
大谷君に限らずインクジェット等の環境の改善からか、
大きい作品を度々見ることが多くなったけれど、
スタンダードな展示方法ではない必然性が欲しくなってしまう。
相馬さんのは6×6のフォーマットなのだけれど、
どうしても固まりに見えてしまう中での、
それを崩すリズムが欲しいかと。
箱山さんのはもう少し小さくしてもいいのではないかなと。
カラープリントにおける平面性を出すためのボードへの圧着展示が、
僕にはやはりなじめない部分が強い。
断ち落としになりがちではあるし、
そこら辺のマッチングをどれくらい考えてのことなのかが
僕にはちょっと分からない。
単に自分が展示方法として好きじゃないだけかもしれないけれど。

a 知人 (山方、大谷、相馬)b 4,2,3回位

阿部真士

2015.1.27 - 2.8「新宿2014‐2015冬」

どこか波のなさみたいなもの、
要は毎回いいのだけれど、
突き抜けた感じというのが、
出て来づらい感じがあるように思って、
その旨をギャラリーの人に言ったところ、
ある人は波は激しくあるという一方で、
他の人はある一定の納得はしていて、
なんとも難しいところ。
一見するとゴリゴリのスナップなので、
分かりづらい所もあるのかとは思うのだけれど、
とりあえず今の自分の印象としてはそんな感じがした。

a 知り合い b 17回

阿部真士

2014.9.23-10.1 [2013.2014」

フラッシュを強く被写体に浴びせつつも、
どこか冷めた視線がある様な気がして、
人間臭さよりは都会的で、
アプローチと逆の印象が、
作者の個性として感じるような。

a 知人 b 16回

阿部真士

2014.7.15-7.23 「2011,2012」

発表したものを改めて再編集、
再プリントしたものの第二段。
どれも魅力があり力強くはあるのを認めつつ、
どこか調和を良い意味で崩す、
突飛な写真と言うのが、
不在になる気がして、
再編集することによって、
良くも悪くも粗さがなくなってしまい、
やや淋しい感じも。
何もこの作者に限らず、
他の人でも、
勿論自分でも、
同じことをしたら、
アクセントに成り得る粗さが、
無意識下に削られるのかと。
それ故、
そう言うときは、
意図的に異質なのは、
いれた方が良いのかなと。
展示を中心として考えると。
まぁ、
こう振り返り見ることも大切だと思うし、
そこで気づく部分も多いので、
何とも言えないところではあるのだけど、
個人的な希望として。

a 知人 b 15回

阿部真士

2014.5.20 - 6.1「2009,2010」

距離感が傾向として離れていると共に、
これまでを突き放し、
作者が見ている行為なのかと。
そういう印象が強かった。
内容的には、
いつも自分が感じている作者の印象とは違って、
ただ、
これからの方向性を示しているような、
そう言った直球さは感じないかなと。
前述した様に、
ただただ冷静に見つめ直している感じがして、
これからこの印象の部分が強まるのかと言うと、
そうは思えず。
その次の差し出し方次第で、
その印象は裏返るのかとは思うのだけど、
とりあえず、
今の印象として。

a 知人 b 14回

阿部真士

2013.11.19 - 11.27 「Apophysis」

被写体の顔によりきった写真で構成した作品。
何点かは別にして、その距離で統一されると、
よったことによる迫力と言うものは麻痺してしまい、
寄って撮影しました、と言うだけの空虚があるようで勿体ない。
もっと撮り貯めてからやったほうが良かったのかと。

a 知人)b 13回位

阿部真士

2013.7.16 - 7.24「no control」
サードディストリクトギャラリー

ストーリーとスナップ等ジャンルの中で、
個性はどこに出るのだろうと考える中で、
強い被写体にカメラを向けると同時に、
どこか冷めた感じがあるのかなと。
特に後半部分に今回はそんな感じがした。

a 知人 b 12回位

阿部真士

2013.5.21 - 6.2「observation」
サードディストリクトギャラリー

ギャラリーにいたお客さんに、
人を撮る人は最終的には、自分を撮る、と言われ、
そうかなぁ、と、疑問に思いつつも、考えながらみていた。
縦位置でまとめられた今回の作品は、
他の人に共通する部分と、作家本人を意識させる部分と、
どこかまだ不安定な所も感じはするものの、
全体を通じては作家の持つ印象で。
前にも縦位置だけでやっていたこともあり、
展示を単位とした流れで考えた時、
一旦基本的な部分の再認識をする為の行為の様に思えた。

a 知人)b 11回位

那須悠介

2014.8.26-9.7「植物の名前」
サードディストリクトギャラリー

いつもは縦(前後)方向に伸びる要素と、
そこに折り重なる平面によって、
画面は構成される様な気がしていて、
逆に今回は、
縦方向の要素は少なく、
折り重なる平面と言うのが、
主とした感じがした。
当人に聞いてみると、
いつもと変えようと意識したところは確かにあり、
縦方向の要素はそこまで意識はなかったけど、
高低差におけるうねりみたいなものを求め、
横須賀などに足を運んだそう。
あとはプリントが、
グレーにおけるエッジが、
いつもより柔らかい感じの様な。
あとは植物は意図的に入れ込んでいるのだそう。
雑多な象徴として、
あるのかと思ってたので、
何だか意外だった。

a 知人 b 17回位

那須悠介

2014.3.11 - 3.19「植物の名前」
サードディストリクトギャラリー

今までとは違うカットが、
幾つもあったのだけれど、
一枚目のこれまでに準ずる写真の印象が強くて、
一回目見たときには、
その事が分かりずらかった。
本人にその事を指摘すると、
最初は同じに見えて、
だんだんとその違いに気付けば、
という、意図のこと。
ここら辺はもう持っていきかたの違いかと。
作者の写真は中央に奥行きのある要素があり、
そこに何層にも重なる平面が重なり、
それを縫うように、
植物なり視線が絡んでいる印象だったのだけれど、
今回はもっとシンプルな印象で、
また、プリントの調子や、
いつもより小さく焼かれたプリントサイズとも合間って、
スッキリとした感じがした。

a 知り合い b 回

那須悠介

2013.9.27 - 10.6「森林図鑑」
サード ディストリクト ギャラリー

どこか硬質なエッジというものが、
この作者の基調のような気がして、
その個性をいかす被写体が、植物なのかと。
建造物も良いのだけれど、表情の豊かさだろうか。
また、今回の展示において、
不均衡さみたいなものが作品に広がりを持たしてなんとも良かった。

a 知人 b 15回位

那須悠介

2013.4.9 - 4.14 「2011 - 2013 part 1」
サードディストリクトギャラリー

今回は未発表の人物のスナップ。
今までが軒下や植物が中心なのに対し、
被写体に違いはあるのだけれど、
基本的なスタンスに違いはなく作者らしい写真。
強い光の中で、いくつもの被写体が折り重なり、
そのエッジを見せている。
ただ、相違を感じるところがない訳ではなく、
被写体が人物ゆえ、丸みを帯びているなと。
ようは植物や建造物に比べ、
エッジが立たず曲線によって画面が構成されている点が、
大きく違ってみえる。
構成に仕方は自分と同じような感じも強いのだけれど、
圧倒的に違うのはその距離感で、
自分ではここまで接近した中での撮影は出来ない。
よったからといって拡がりが失われることがなく、
その点が自分がうらやましく思う点かと。
ただ今回の展示に関しては、
通常の展示の良さを改めて感じるに留まる感じかと。

a 知人 b 14回位

那須悠介

2013.4.16 - 4.21 「2011 - 2013 part 2」
サードディストリクトギャラリー

前回が人物が写ったものに対し、
今回は人物以外の写真。
印象として一定の距離感を保った印象があって、
本人に聞いた所、そう意図をしているとのこと。
印画紙の黒の締まりに悩んでいる様で、
確かにエッジが強い印象に残る中で、
プリントに左右される部分も強いのだろうと。
同じ紙を使ってはいるものの、
自分はベットリ黒をのせるのでさして気になりはしないけれど。
前々回と同じカットもあるものの、
サイズ(前々回は左右断ち落としに対し、今回は余白が四辺にあった)の違いにより
印象がだいぶ変わる。
前々回のがすこぶる良かったので、
今回は若干大人しめに感じる。
まぁ、変革期と、言う感じなのかと。
スケジュールも異常にタイトだし。

a 知人 b 15回位

和田真由子

2013.3.2-4/6 「火のための枠」 児玉ギャラリー

半透明のシートに書かれた絵が、
木の枠にぶら下がっていて、
一見すると立体なのかと思うのだけれど、
そうではないだろうなぁと思うのは、
前にその旨を受付の人に聞いていたから。
そんな前提を踏まえているのとかもあるのかもしれないけれど、
どこか立体と言う印象よりも、
描かれた絵と言うものに目が行く。
ふと思い出したのがテレビで見た、
立体感を出そうと裏地からも白く塗る伊藤若冲の技法だった。

大なり小なり求めるものを表現しようと
技巧的な部分はそれぞれに持っていて、
写真で言えば断ち落しや余白の入れ方、
プリントにおけるコントラストや焼き込みなど。

和田さんの作品はそういった作者のイメージと一致させる技巧の過程で
立体と平面とを揺らぐあの形態に結果的になったのだろうと。
また、方向性の違いからか、
自分たちが見えないように隠す部分を、
あえて解体し可視化されたような気がした。

a ギャラリー受付の人が顔見知り b 2回

山口総一郎

2014.9.15-9.28「草の実」
蒼穹舎

田舎の風景、
と、
乱暴に言ってしまえば、
そうとも言えなくはないのだけれど、
そんな田舎の風景を、
誰もがとれる訳では、
誰が撮れる訳ではないだろう。
それは環境としての条件ではなく、
思考としての視点ではなく、
個としての視点が、
稀少なものだからこそで、
田舎の風景自体は誰しもが撮れるだろう、
その先、
が、
作家としての個性だろうし、
わかられず口惜しく思うことなのかと。
田舎の風景ですねと言えば、
田舎の風景ですと作者は返すだろうし、
そういえるか言えないかが、
写真としての純度だろうと。
変な装飾を外せることが、
写真を写真として捉える強さだろうし。
最適な例ではないかもしれないけど、
美術畑の人が、
踏み込めないところなのかなぁと。
媚もなくストレートな写真。
他の作家にも同様には言えるのだけど、
そう言ったことを、
自分達はしてるのかと思う。

a 知人 b 6回

山口総一郎

2013.3.27-4.9 "FRONT WINDOW" ニコンサロン銀座

作者の生活の移動手段である、
車の前に広がる光景を写真におさめた作品。
最初喚起されたのは、
トヨタかなんかのどこまでも行こうがバックに流れるCFで、
そのCFと同様に、
作者が運転している視点にすっと入り込んで行く様な印象をうけた。
ただ、断りを入れるならば、手法が同じであるだけで、
あくまでも作家の視点と言うものが大切なのであって、
同じことをやったとしても、同じ印象は作り得ない様な。
写真がよく選択の表現と言われるけれど、
写真の展示にあまり馴染みのない人にも
そのことがよく分かる様な気がする。
マットっぽい紙に定着されたしっとりした発色の抑えられた印象は、
どこか外界とを硝子で区切られた車の中を想像させ、
車をとめ、足を外に一歩踏み出させたくなる様な、
実際の光景に立ち会いたい様になる、
そんな展示だった。

a 知人 b 4回

石部奈々美

2015.2.7-2.15
LINEスタンプ 「フレッシュせんごくん」原画展

ラインで使える、
せんごくんスタンプの原画点。
スタンプでの文字と画との組合せが何とも面白く、
この感じは何なんだろうなぁと、
ついつい考える。
形態摸写なり人のモノマネが、
そっくりだと何故か可笑しくなってしまうけど、
そんな感じなのか、
はてさて。
実際スタンプを使ってたり、
自分がしたならより楽しめたのかなぁと。

a b 回

2BLKS

2014.9.12-14,19-21「BEYOND 2BLKS」

マスキングをもとに構成された作品。
同じ手法を使った前回、
前々回が、
それぞれの基調が黄色やピンクおよび青だったのにたいし、
今回は緑とオレンジ、
が強いような。
色に対するこだわりと言うのは、
自分とはスタンスが全然違うなぁと。
まぁ、
自分は色がついてたらあとはどうでも良いやと、
カラー写真ははじめてるので、
比べることも失礼なのだけど。
あと、
心地良いからといったときは、
2時か3時から終わる8時位までいたのだけれど、
その間お客さんとの会話などを聞いていて、
これ、
この素材使うと良いよ、
と言うのを度々聞いたり。
写真の場合は使う印画紙や薬液とか、
現像の仕方で似たようなことは聞くけど、
その比ではないくらいに、
様々な情報が出てくる。
また、
職種としても、
かたまらない部分も強いのが、
そう言った多様さを出しているのだろうと。
今回なぞハードカバーの、
製本の仕方なぞ出てきたし。
いや、
面白かった。
あとは、
他のジャンルに関わることへの、
抵抗がないんだよなぁと。
写真は良くも悪くも写真関係者で構成され、
深く掘り下げる分、
多様な展開はしない。
要は専門が写真の人で構成されるので。
現代美術とかは、
空間演出的な要素も強いからか、
施工における工夫も良く聞くし、
ホームセンターを良く利用する。
逆に難をつけるのであれば、
評価における共通部分がやや乱暴で、
自分達が感じる写真の良さには、
中々辿りつかない感じもある。
それぞれのジャンルに一長一短はある中で、
望ましいのは、
また足を運ぶ気をおこさせるとかで、
そういう意味で、
変なしがらみもなく、
ここのギャラリーは、
良いなぁ、
と、
いつもながら思った、
そんな展示。

a 知人 b 12回

オバタタカシ

2014.10.3-10.5、10.10-10.12 「PASSENGERー旅日記 」
「sngk gallery」

キャプションに書いてある場所と、
実際撮っている場所とは異なり、
そこら辺の遊び心は、
遊び心にしか自分には写らないのだけど、
元々新宿に関わりがあった人が、
また別の場所で展示していると言うことが、
最近の自分の興味と重なり、
また、
写真単体は見易い感じがした。

a ギャラリーの人と知り合い b 初見回

2BLKS(sngk gallery)

2014.5.31-6.1,6.6-6.8「There are ZINES sngk 2014」

前回が装丁や、
仕掛けに眼がいったのに対し、
今回のは内容をよくよく見ていた。
あとは、
zine と銘打つのに、
この豪華さはなんなんだろうと言う前回の感想に対し、
良い意味でチープな感じのも、
複数点あった。
葉っぱに絵を描いていたのまであった。
(お金があればあれも欲しかった)
巷ではフォトブックなるものを流行らせようと、
各メーカー色々試行錯誤していて、
その参考とするのは、
外国での成功例らしい。
写真を切り張りした、
スケッチブックのようなものを作る習慣をベースに、
外国ではフォトブックも成功しているらしいけれど、
日本は、
真面目なのかなんなのか、
貼るとしたら丁寧に、
資料として張り付ける、
ので、
自動で配置して、
時間も短くお手軽と言っても、
きっちり自分で選び直すから、
結局は時間がかかるので、
そこまで大きな成功しないと言うのが、
個人的印象で、
急に話を戻せば、
そう言った外国っぽい、
良い意味での雑さが、
展示していたzine で、
ちょこちょこ見受けられたような。
日本の人でこんな荒々しいスケッチブックを作るかな?
と言うところで、
→あんまないよな
→習慣としてないよな
→フォトブックは広まらないよな
→なぞと思う、
良い意味での
荒らさ、雑さが、
あった感じだった。
結局買ったのは丁寧な作りなので、
つくづく自分は、
日本人だなぁとも、
思った。

a b 回

2BLKS

2014.4.5-4.19 2014 BEYOND 2BLKS」
gallery 64

前回ブロックハウスでも展示されていた作品と、
同様の技法で製作された新作と、
その元絵と。
前回の作品は90度回転していて、
それだけで大分印象が変わっていて、
それが何とも新鮮だった。
作家に横にすると昔話みたいでしょ?
と言われ、
屏風絵の雲の描き方みたいですね、なぞ。
新作の方は色がショッキングピンクとブルーとで、
よりポップな感じ。
せんごくんがどうしても目立ってくるから、
マスキングの方は螺発と顔を切り離したのだとか。
螺発部分が雨だれみたいで面白かった。

a 知人 b 11回

タカノカツラ @ギャラリーぎゃるりじん

2014.7.15-7.20

一面を青に塗った絵、
文字、
何がしらの模様など、
伸びやかに描いてるなぁと、
その動機とかテーマは聞かず、
他の世間話なぞずっと話していた。
自分の写真とか、
テーマとかは後付けだけど、
絵画の人はどうなのだろう?
とりあえず今度聞いてみよう。

a 知人 b 3回

タカノカツラ

2014.1.24-1.26、1.31-2.2 「Drawings!!」sngk gallery

スポイトで描かれた文字や絵、
線が良い意味で遊んでいるようで、
ポストカードサイズの中で、
生き生きとしている。
壁一面ずらっと並んで、
ちゃんと一枚一枚、
近づきながら見て、
その事がひどく貴重に思えた。

a 知り合い b 2回

2BLKS
BLOCK HOUSE

今回の展示では、
スペースラボで使ったマスキングを張り合わせた作品と、
今までの作品をポスターにしたものを大量に用意し、
ポスターを持って帰って貰うことにより入れ替わる作品、
そして二人を描いたもの他、大きいサイズの新作とがあった。
4階では石部巧氏のこれまでの作品と、新作とが展示されていた。
技法的な部分は言及できないのが歯痒くもあるけれど、
2BLKSの作品はいつも、
非常に伸びやかに感じる。
それぞれが持ち得る技術、技法、個性を、
生き生きと見せてくれる、
その選択、構成の良さに、
いつも感心させられる。
勿論、
基盤となる作品自体の良さがあってのことだとはおもうのだけれど。
自分の行動圏内にあって欲しい、
と思えるギャラリーなり、活動だと、
知り合ってから常々思っている。
話が作品からは離れてしまって申し訳ないけれど、
場としての魅力として、
2BLKSに集う人は、
それぞれ腰を据えて話をするし、
肩書きで話をしないと言うか、
良くも悪くもそう言ったものが意味を成さない中で、
作品をよく見ているのだと思う。
共有する情報が少ない中で、
目の前にあることへの比重が大きい様に思えるのが魅力でもある。
単純に今回の展示にしたって、
これがメディアで取り上げられたのであれば、
"メディアで取り上げられた何々"と、
そうまで言わなくても、
比較する何かを意識した部分と言うものを、
どこかしらで感じてしまうだろうと。
それ自体悪いことではないけれど。
また、
お客さんがお客さんを、
自然と呼んだり、
紹介したくなるような雰囲気は、
主催者の2BLKSの功績だと思うし、
地道に地道に人と向き合っているように思う。
その賜物なのかと。
変に急がず輪が広がってくれたらと思うのと、
あとは輪が広がるなかで、
大きな流れに繋がって行ったらよいなぁと。
こんなギャラリーが全国にあれば、
世の中はもっと楽しくなるなぁと。
西脇で場を持てるようになったら、
こんな場所にできたらと思う。

a 知人 b 10回

What character are you?
2013/11/29-12/1,12/6-12/8

今回も自分も参加したのだけれど、
お題に対する独創性というのか、
切り口と言うのに毎度のこと圧倒されてしまい、
どんなにアイデアを振り絞っても、
この中ではかすんでしまうような。
ジャンルが違うということは関係なく、
毎回悔しい思いをする。
ストローの紙袋や薬の錠剤、蝋燭の芯に顔を描いた作品の中より、
一点買った。
若干悔しくもある。

石部奈々美
2013.6.21-23,6.28-30 「プロレス」SNGK Gallery

プロレスのシーンを描いた作品。
大きな作品では、黒く塗ったベニヤに、白い線で描いた作品もあり、
プロレスのロープがストライプとして浮かぶ中、
フライングボディアタックする場面が描かれ、
そのストライプとプロレスラーのコントラストがなんとも良かった。
他の作品も線がなんとも味わい深く、
また、写真を元にしているらしいので、
プロレスを知っているとまた別の視点でも楽しめるのだろう。

a 知人b 8回

2013.5.18,19,24-26 「There are ZINES sngk」
SNGK Gallery

自分の参加しているZINEのグループ展。
様々なジャンルの人が参加する中で、
自分は写真をやるものとして参加したけれど、
止めの紐をほどくと手ぬぐいになる冊子や、
シルクスクリーンで作ったもの、
手書きの絵で構成されたノート、
透明なシートを重ね一枚の画をつくるもの、
どれも自分では思い得ない構成と、
あとは本の装丁等自分たちで出来る人が多いからか、
ギャラリーの説明としての
《ZINEとは、ローコストで、他者が介在せず
自由に作る事ができる手作り冊子のこと。》
と言うのからは良い意味で大きく外れている。
自分は表が写真、ウラが写真を模写した冊子を出したのだけれど、
あの中にあると霞んでしまう。
欲しいのは沢山あったのだけれど、
時間とお金がなかったので、手ぬぐいになる冊子を購入。
本気で遊ぶ大人達と行った形容が自分の中ではわりとしっくりくる。

a 知人 b 7回

2013.4.6-4.14 "BUZZ" SPES LAB

上岡健太氏が描いたDJのペイントに、
2BLKSの二人がシルクやマスキングをもちい、
自分たちのペイントや模様を重ねていく。
自分たち写真をやる人らは複写はするけれど、
それを何か別の対象に転写する、
更にはそれをずらす(マスキングを事前に張って部分的にすらしたりしていた)
とかの発想がなかったので、
元々2BLKSの作品は見ているのだけど、
改めてそこら辺が新鮮だった。
また、このスペースは期間が終わると
次の作品を描くために白く塗られてしまうのだけれど、
部分的にTシャツや、布が貼られていて、
作品として買えるのも新鮮で、
ベルリンの壁みたいだなぁと。
自分たちの最少単位が一枚のプリントなのに対し、
彼らの最少単位は無限に細分化可能で、
そういった点からも他のジャンルとのコラボレーションがしやすいのかと。
またそういったコラボレートする要素が、
ストリートを中心に発展していたのもあり、
このジャンルには概念的に備わっているのかもしれない。
それぞれの要素が独立し渾然としている様で、
最終的に一つの空間なり、そこら辺が見事だなと。
ただただ感心してしまった。

a 知人 b 6回

福山えみ

2013.4.9-4.21 リフレクション DIVISION 2 at place M

福山さんはどこかでの安心感と言うか、
変わらなさが際立ちはするけれど、
緩やかに、されど大胆に進んでいる気がする作家で、
それを感じたのはヨーロッパを撮影した時からかと。
手前側にナメの部分を作り、どこか覗く様な、
とも違うのだけれど、奥に視点を置いた様な写真が、
今回も淡々と並ぶ。
正直、今回、と言うよりかは現段階での新鮮さ
(前までとの展示との違い)はないけれど、
どこかその気付きを得る時を期待させる。
不思議なスタンスで見させる人だなと思う。

坂本政十賜
この人はカラー写真を撮る人なのだなと、
何故か改めて思った。
自分がカラーを撮ったとしても、
モノクロをベースにしたと言うことが分かる様に、
カラーとしての視点と言うものがよく分かる感じがして、
そう言った意識に初めて触れられた気がした。
それは撮影した線描を邪魔にならぬ様丁寧につぐみ、
色を見せた作者の良き仕事故だろう。
自分では未だにカラーは良く分からないのだけど、
飾り気のない、けれど味わい深い作品だった。

榎本千賀子
7枚のうちの特に始めの3枚が、
日常でありながら、見たことのない、
作者が持ち得る視点と言うものを良く感じた。
残りの4枚も同様の視点と言うものを感じつつも、
どこか日常へ引き戻す要素が自分には強く、
最初の印象とは違った。

小平雅尋
キャッチーな感じで、
いて、
その先が正直僕には分からない。
初めてみるから、と言うのは完全に言い訳だけど、
何がやりたいのか分からない。
率直な感想として。

船木菜穂子
被写体をどこか置き去りにした、
イメージの連なりで、
良いと言ってしまえば良いのだけれど、
決めてに欠ける様な。
…あくまで自分の琴線に触れると言う意味では。
これで作者と話して、
こうこう、こう言う意図なんですよ、
と、言われたら、
また違って見えるのかもしれないけれど、
そう言うのもどうなのかと。
初見はつくづく分からないなぁと、
今さらながら思った。

a 知人(福山、坂本) b 調べ中

真月洋子

2014.4.14ー4.27 floating signs」
蒼穹舎

都市の落書き等、
描かれた壁を見ると、
場所がわからなくなるような、
良い意味での共通性は感じて、
なんか生き生きとした人間像を、
間接的に見れた感じで心地よかった。
元々帯状(屏風状?)の本の形式の中で構成を考えていたらしく、
めくる度に、
組み合わせが変わるごちゃごちゃ感と言うか、
そう言ったものを壁にかけるとこんな感じかと。
街に残る猥雑とした痕跡が、
魅力的に映る、
そんな展示。

a 知人 b 2回

真月洋子

2013.4.15-4.28「a priori」 蒼穹舎

裸の女性や男性に植物を投影したものを撮影した作品。
最初搬入の時には、
女性が捉える裸体と言うことを基軸に考えていたけれど、
改めてきちんとみると、
投影された植物が立体的な存在感を持ち、
裸体と言うよりは投影された植物とが
一対として立ち上がった瞬間を捉えている様。
きちんとみないといけないなぁと、
反省した、そんな展示。

a 今回少し話したり b 1回

広瀬勉

2015.2.16-2.28 型録写真展・88『発破かけたげる』
バー鳥渡

安定した心地よさと、
はてと発破とはどういうことかすら? なぞ。
作者にカメラ(スマホ)を向ける人の写真が2枚あったなぁとか、
多分諸々きけば、
あ、
成る程と言うのはあるのだろうけど、
ただそこはメインではなかろうし、
なぞモヤモヤ。
でもまぁ、
そこら辺が分からなくても楽しめるのは良いなぁと。
写真には人柄が出るなぁとも。

a 知り合い b 7回位

広瀬勉

2013.4.17-4.29「霧の見る夢」 バー鳥渡

習慣として染み付いた、
とは、褒め言葉なんだけどそんな感じで、
新鮮さも感じつつあざとい感じもなく、
良くも悪くもぎらぎらした感じのない良質な展示。
どこか久しぶりに帰った実家で、
その良さを再認識したかのような、
素朴なれど力強い展示。

a 知人 b 6回位

森山大道

2014.9.12-10.26「アクシデント」

今の現代美術での取り組みと、
このアクションのシリーズとの違いは 姿勢として同じではないかと、
主張する人がいたと仮定する。
内容の質はとりあえずおいておいたとして。
ただ、
森山さんは、
ちゃんと見てる様な、
要は普通に焼いても魅力的に写りそうな気がして、
方法としては当時にして突飛な感じはするけど、
姿勢としては写真的ではないかなぁと思うのは、
自分の固執ゆえなのか、
そこら辺は良くわからない。
あとは、
アクシデントがドキュメントと言う明確なものに対する、
異義なり問題提起としてあるのに対し、
今の新しい表現と言うのは、
明確な対象となる概念を欠いた、
漠然とした過去の否定によるもの、
と言う感じがする。
単に自分が好きではないだけなのかもしれないけど、
やっぱりなんだか、
そこら辺でもやもや頭を抱えるのと、
いまだに森山さんを引き合いに考える自体、
同等となりうるアイコンとなる人が、
出ていないと言うことの現れなのだろうし、
圧倒的に指示される若手と言うものは、
いないのだろうなぁと、
思った。

a 共通の知人はいれども直接の面識はない b 12回位

森山大道

2013.6.1-7.20 「1965 ~」Gallery916

選びを上田氏が全部行った様で、
印象が全く違って見えた。
最初はそうなのかなぁと思いつつ、
東京フォトで他の人が選んだのかと思っていたら、
森山さん自身のセレクトだったと言うことがあったので、
もしかしたらと思っていたのだけれど、全然そうではなかった。
写真集だとなるほどなぁと思う所もあったけれど、
展示では違和感の方が強く、
選ぶ人によって全然別物になるんだなぁ
という印象が強く残った展示だった。

a 間接的な知り合いはいるも直接面識はない b 11回位

森山大道

2013.4.22-5.5 「実験室からの眺め」 PLACE M

アレ、ブレ、ボケという形容を
一時されていたこともあったのだろうけれど、
むしろそう言ったイメージが先行するだけで、
作品の本質は別の所にあるという論調の方が、
最近では主流にある様な印象を受ける、
が、それがどこまでの範囲においてか、
はたまた自分の勝手な思い込みかすら、
自分は知らない。
今回は若干コントラストが高いのはあるのだろうけれど、
むしろごくごく標準的に撮影された内容で、
それでいて、作者の作品であるということは至極明確で、
その作品における個性はどこより生まれるのだろうと、
不思議に感じながらみていた。
空間に対し、
若干窮屈な程に大きい作品群はどこか武骨にみえ、
それがまた、
作品が手から離れる幸福を、
又はその準備なるものを作者は持ち得ている様な気がして。
ヴェンダースのニックスムービーの一コマの様な、
昔とは違えど違わぬ印象を与うる成熟を、
寂しさと共に感じるような展示。

a 間接的な知り合いはいるも直接面識はない b 10回位

林朋奈

2015.2.24 - 3.8
「木綿の影」

身の回りの生活のことより、
外に撮影の場所をおくようになっての試行錯誤の中で、
今回は撮りたいものに素直により、
その作品はロール紙に、
大きく伸ばされていた。
よったはずではあるのに、
画面に窮屈さはなく、
むしろ広がりを持つような感じがまずあって、
更に言い進めるのであれば、
事物の先を作者は見ているような、
言えば広がりを妨げていたものを、
作者の視点の邪魔となるものを、
画面の外に追いやったと言うようにも思える。
他のサイズで見たら印象は変わるのかもしれないし、
あくまで自分の印象ではあるのだけれど、
何かを押し付けられるわけではなく、
何が写るでもない写真の端々に目が行く。
二回ほど前の展示だともう少し画面が引き、
人とその背景と言う風に見えて、
人が悪目立ちしていたのかもしれない。
また、
そうは言いながらも、
引いた状態でも同じ様な印象を作れたら、
又幅が広がるのかなぁと。

a 知り合い b 5回

林朋奈

2014.9.9-9.12「気の果て」
サードディストリクトギャラリー

のひのびとして良いなぁと。
元々の持ち味が、
活きていたような。
今になって考えると前回が考えすぎてしまってたのかなぁとも。
大小散りばめられた展示方も、
このギャラリーでは珍しく、
でも上手く機能していたと思う。

a 知人 b 4回

林朋奈

2014.3.21 - 3.30 「オーバーフロー」
サードディストリクトギャラリー

今までやっていた生活感のある写真を、
街で撮影した写真にも同じ様に出せないかと試行錯誤しているとのこと。
その通りになっている部分と、
なっていないところがまだある感じがして、
個人的には動きのある写真が、
どこか俗に言う街中のスナップの印象を濃くしてしまい、
生活感や生々しさを散らばしてしまっている様な。
多分そこら辺が上手にはまると、
作者が望むような形になるのかなぁと。
傘を指した男の人の、
視線も絡まないにもかかわらず、
存在する緊張感が、
動きのある写真にもあると、
それぞれが互いに活きてくるのかと。
眼があって、視線をはずしそびれて、
そのままでいる様な系統の緊張感と言うか。
あと一回くらい昔のような写真に戻したりして、
改めて見直して見ても、
それはそれで良いのかと。
グループ展とかあれば、
そう言うのを試してみても。
まだこうやると言うのを、
明確に決めなくても良いのかなと思った。
色々試してみればと。

a 知り合い b 3回

林朋奈

2013.10.18 - 10.27 「bottole neck」
サードディストリクトギャラリー

元々、身内等、
作者の知人を被写体にしていたけれど、
今回はその要素をほとんど排し、
知人となるものは1点か2点しかなかった。
にもかかわらず同様の印象を受けるのは、
被写体が違うだけで、
根源的なものは違っていないからだろうし、
そしてその根源的なものが何かは、
自分にはまだ推し量れていない気がする。

a 顔見知り b 2回

林朋奈

2013.4.23 - 5.5「消える前に」
サードディストリクトギャラリー

作者の生活周辺を撮影していて、
それでいてどこか日常として見えない所があり、
それは目線があった写真で特に思ったのだけれど、
日常を撮りながらも、作者の存在が写真から消えてみえる。
なんだか不思議な写真。

a 面識なし b 初見

中沢研

2015.2.3-4.25

自分が気になってることを、
作品に重ねて言うのが、
作者本人がイヤとかあるのかもしれないけど、
最近洗練を促し過ぎたものと言うのか、
はたまた洗練と言うことではないのかもしれないけど、
作った人がまるで見えない作品などがあって、
そう言ったものに対し、
ある一定の労力は認めつつ、
魅力を感じないのだけど、
この作者の作品は、
そう言った洗練からこぼれ落ちがちな魅力を、
多分に魅せてくれている様な気になる。
何を意味するのか等はあってるか分からないし、
さして興味もないのだけれど、
頭上見上げるほどに配置された、
鉄線による格子と、
それを支える木の脚と、
人が行うが故の不安定さを内包し、
魅力的にうつる。
あとは単純に、
自分は四角が好きなのだなと言う再認識も。

a 面識なし b 3回

中沢 研

2013.2.5-4.27 アンドーギャラリー

受付の人に聞く限りは、
明確にあるイメージを表しているものではないらしい。
それゆえに様々な見解をされるとのこと。
枠(フレーム)と言うものに対してのこだわりがあると言うことは、
前提として加味してもいいのかもしれない。
個人的には今回の作品は都市における群像のように見える。
同じように着飾り整列されて生活する人々、
それぞれの類似性を、
フレームと言う素材が象徴的にあらわし、
そしてまたその中の変化というものが個性である様に。
わずかに開きの違う、長さの違う、
気に留めなければ同じ物の反復の中に、
似て非なる物として並ぶ、
個としての存在の尊さ、
代用の効かなさと言うものを感じるのは、
おそらくは最近の自分の関心ゆえではあろうかと。

a 受付の人と顔見知り b 2回

野尻浩行

2015.2.3-2.15「落穂拾い」

淡々とし過ぎて、
何だか段々良さが分からなくなってる気がする。
作品が原因なのか自分が原因なのか、
良く分からないながら。
時間が経った時に、
なにがしら見えてくる部分は、
あるのだろうけど、
今の時点の良さが見えてこない。
定点観測の、
場所が複数にある感じのよな印象

a 知り合い b 9回

野尻浩行

2014/10/14-10/26「新しい季節に抱かれて」

なんだか印象がぼやんと、
そんな感じが一見するとあるのだけど、
どういうことなのだろう。
作者に聞いてみたいも不在。
うーん。

a 知人 b 8回

野尻浩行

2014.6.24-7.6 「新しい季節に抱かれて」
tapgallery

時間が流れるなかで、
老朽化もすれば、
かわりもする中で、
対峙する猫や犬、亀などは、
我関せず、
今も変わらず、
同じ日常の中存在すると言った、
変わらぬ部分と、
緩やかに古びていく街とが、
同じ大きな流れの中に、
共存しているのだなぁと言う感じがした。
あとは前からそうだから今さらなのだけど、
縦構図であるのは、
なんか理由があるのかなぁとか。
まぁ、しっくりきてるので、
何も問題はないのだけど、
もし明確な理由があれば、
知りたいかなぁと。

a 知人 b 7回

野尻浩行

2014.3.4-3.16「The chestnut in my jeans pocket」

プリントががらりと変わっていて、
また、
細々とした所に眼を向けても、
染々面白いものだなぁと。
そう言った奥行きを今回はなんだか感じた。
当人は色々悩んでいるようで、
自分が納得出来る様、
曖昧な所を切り詰めたいとのこと。
自分が納得する、
と言うのはなんなんだろう?
と、
我が身に照らし合わせて考えてみると、
自分は自分の写真に納得しているのだろうか?
満足はしてないから、
続けてはいるけど、
納得はしてるのかと。
写真的思考ともいっていたけれど、
作家の言う写真的思考とは、
何を指しているのか、
何て色々考えるようになった。
写真的思考。
総じて思ったのは、
写真的、写真的ではない思考、
という区分けが、
自分の中にはないことで、
また、
写真という観念が、
改めて曖昧だということ。

a 知り合い b 6回

野尻浩行

2013.10.8-10.20『新しい季節に抱かれて5』

単なる好みの問題かもしれないけれど、
良くも悪くも並のある感じはあって、
ただ今回の作品などは、
どこかベテランのような外し方の巧みさがあるような。。
一見すると地元である栃木の風景を淡々と記録しているようで、
毎回が印象ががらっと変わる。

a 知り合い b 5回

野尻浩行

2013.7.23-8.4 「新しい季節に抱かれて4」

今回のはなんだかピンと来ない感じがあって、
どこか丁寧にきっちり撮りすぎているからなのか、
力なく見えてしまった。
大幅な印象は統一されているのに、
何処かしら波があるのかなと。
本人にも上手く纏まらないながらも色々言っていたのだけれど、
写真を目の前にして、
写された場所に行ったら思い通りの情景が見れると言った、
そういう印象は作品では抱かせてはいけない気がして、
逆を言えば作者に自分の土地(街)を撮ってもらいたいと、
思わせれなくてはいけないのではないかと、
…変に限定的な条件になってしまうけれど。
多分もし撮ってもらいたいという仮定には、
創造し得ない未知の部分があるからで、
未知でありながらも期待するのはその人の視点なり個性を感じるからだろうと。
そういった意味できっちりやり過ぎてしまって、
印象として薄くなってしまった感じがした。

a 知り合い b 4回

野尻浩行

2013.4.30-5.12 「新しい季節に抱かれて3」
TAP Gallery

前見た2回では気づかなかったけれど。
可能性を感じる意味では、
現時点で頭一つ抜けてみえる。
作者の地元である栃木を撮る視線は、
無難な様で他で見よう感じがなく、
分かりづらさはあるのかもしれないけれど、
確固たる個性を感じる。

a 知人 b 3回

若山忠毅

2014.7.22-8.3「余暇、観光、そして疎ら」

自分が気になってるだけなのかもしれないけど、
地方を撮る人の中で、
直線的な要素が増えてきている感じがしていて、
要は前までは地方を撮るとき、
山々や昔ながらの木造の家、
など、
自然や時間の経年変化を感じるものによって、
画面は構成されている気がして、
例えば山方伸さん等の写真が、
地方における写真の印象として強かった。
あとは尾仲浩二さんの写真など。
それに対し、
今回の作者含め、
何人かの写真は、
人工的な直線が目立つようであり、
叙情的に流れない感じが。
まぁ、
地方=叙情と言う前提も、
おかしいと言えばおかしいのだけど。
元々作者がデザインを好きなのもあり、
画面の作り方、
遊び方が抑制がきいていて、
また、
さめた感じもする。
ただ、
撮影するとき、
作り込む様に、
構図を決めたりはしないらしく、
割りとスナップの様に、
パッと撮るのだとか。
あとは縦に伸びる垂線は、
必ず入れる(入れてしまう)そうで、
自分が点を打った上に、
色紙を重ねて行くように、
作者の場合は、
垂線を軸に構成するのかと。
展示してある中の二点が、
今までにはない様な感じがして、
次を見たい感じがした。
当人は今回評判が悪いと言う一方で、
自分の知り合いにはすこぶる評判が良くて、
結局評価って水物だなぁとか、
思った。

a知人 b 5回

若山忠毅

2013/10/22-11/3『外環』

線というよりは面で捉えている感じがあって、
何ともよかった。
強いて言うなら、若々しさが足りないような。
TAPは何故か良くなると若年寄のようになっていくなぁ。

a 知人 b 4回

若山忠毅

2013.8.27-9.8 「世間は美しいものであふれている」

都市と郊外のその際を中心に撮影場所として選んでいるらしいのだけれど、
前回の展示で枯れた感じの被写体に頼ってはいないかと来たお客さんに言われたらしく、
敢えて緑がある光景を積極的に入れ込んだ様。
結果として、それが良い方に働かなかったきらいはあるけれど、
長い目で見るべきなのかなと。
色々な試行錯誤をする中で、
まだ安定しないところはあるのかなと。
安定しきってしまうよりははるかにいいけれど。

a 知人 b 3回

若山忠毅

2013.5.28-6.9「縁-へり-」

タイトルの縁は、
街から郊外へとその移変わる境界線を言っているのかなと思いつつ、
それは撮影場所の共通性を表すに過ぎず、深い意味はないのかと。
カラー作品でありながら、どこか色よりも形に眼が行き、
淡々としていながら、飽きることはなく、いつまでも見ていられる。
聞けば、場所は東京、埼玉、栃木、茨城と、一つの場所に限らず、
しかしながら一つの統一された世界観を形成している。
テーマは何か?と言われても、これが今惹かれるものです、
と言う作家の視点を素直に提示していて、
そしてそうすることが、一番理解されづらい選択をしていて、
しかしながら、だからこそ、知識や経験を持たずしても受け入れられる
…可能性を有していると言う表現にとどまってしまう現状が歯痒いが。
難しい選択をしているなぁと思いつつ、
ここまで出来る人は余りいないかと。

a 知人 b 2回

小原里美

2013/11/11-11/17 『SWEDEN』M2gallery

写真展の説明の通り、
写真集の未発表カットと新作と言う感じ。
写真集に収録されたカットと同等の質と、
されどこっちを入れたほうがとまではならないのと、
これはこれでよいのだけど、
新作(シリーズ)はどうなるのかなぁといった感想。

a 知人 b 8回位

小原里美

2013.5.27ー6.9「SWEDEN」
蒼穹舎

同一の場所をテーマにしたこの作家の展示を複数回見て来たからか、
最初のうちは自分が知り得ない外国というなのスウェーデンの土地が、
ある一定の固有性が観客側の自分の中でも芽生え始めたかの様に、
どこか親近感みたいなものを感じた。
それは言わば行ったことのない日本の片田舎の写真に郷愁を感じることに近く、
また、作者が長い時間その土地を過ごした下地があることも
理由の一つに上げられるだろうし、
なんとも不思議な体験だった。

a 知人 b 7回位

松谷友美

2014.12.22-12.28「六花」

写真集も含め、
人のポートレートの割合が、
ここ何年かの展示に比べると多かった。
それでもまぁ、
5、
6点ではあるのだけど。
自分が全く声をかけずとるものだから、
どう言う感じで撮るのかなぁと、
聞いてみると、
声をかけて、
話しすぎないようにしてるとのこと。
あれこれ指示もしないのだとか。
一方で知り合いも撮るサードの林さんは、
演出ではないけど、
その表(撮ることもあるらしい) 当たり前と言えば当たり前なのだけど、
声をかけずに撮る、
声をかけて撮るで二極化されるのではなく、
声をかけて撮るにしろ、
その中で様々なアプローチなりの、
違いがある様で、
最近自分がテスト的に撮ってて、
どうにもうまくいかないのは、
まだまだ試行錯誤が足りないのかなぁと。
自分の場合声をかけた時点で、
完全に興が削がれてしまうので。
ただ、
松谷さんの場合は、
声をかけるかけないでの差異は、
さしてないのだろうと。
声をかけた中での、
スナップと同様の緊張があるのだろうなぁと、
思った。

a 知人 b 11回位

松谷友美

2014.9.1-9.15「29」
バー鳥渡

印象がガラッと変わったなぁ、
と、
言うのがまずあって、
聞いてみたところ、
意図的に今まで選ばなかったものを、
選んだとこのこと。
もしかしたら写真集を出すこととなっている、
節目と言うことも作用としてあるのかもしれないけれど、
ここまで大胆に変われるものなのかと言うことに、
単純に感心するのと羨ましいのと。
若々しいと。
撮影にかけれる時間と言うものは、
望むだけ得られるわけではなく、
特にギャラリー運営など、
自分を追い詰める枷(締め切り)、
依存もない中で、
変化を出せることは大変で。
また、
今の状況でこう言った変化を出せるならば、
これからも変わらず変わると言うこと、
とも思えた、
そんな展示。

a 知人 b 10回位

松谷友美

2013.6.1-15 「 FuFuFu 」
バー鳥渡

日常の中の色と、形。
タイトルのふふふ、と言ったのが良くあっていて、
どこかつかみ所がない様で、しっかりと個性が見える。
ピクニックのお弁当に被せてある布の様。
風で飛びそうだけど、
ちゃんと覆っている様なフワッとした安定した感じ。
依存のなさと言うか。
今回のに関してはいつもより垂線がきっちりしているからか、
画面がかっちり見えた様な。
距離感が遠く、その中で自由にみる余白も残してくれてる気もする。
自分には撮れないなと、ここ数回強く意識させられていてる展示。

a 知人 b 9回位

盛田哲生

2014.11.28 - 12.7「Clip Out」

対象を絞り込まず、
のびのびとしている感じに戻ったのと、
ただ、
前々回のと比べると、
撮影者がその街の渦の中に居ると言うよりかは、
あくまで被写体と撮影者と言う線引きはあるのかなぁと。

a 知人b 7回

盛田哲生

2014.7.25-8.3 「Clip Out」

前回の展示にて、
自分の反応なり、
感覚を主にしたら、
被写体から人が極端に減り、
逆に今回は明確にこれを撮ろうと意識したところ、
そこそこ撮れてしまった、
とのこと。
聞けば他の展示方法を考えていたらしいのだけど、
それを変更し、
一列に並べたのだとか。
前回のイメージが強いからか、
人の画面上でのつまり方が気になる感じがあって、
逆に人のいない写真が沈んで見えてしまった様な。
並べで変わる部分もあったのだろうし、
当初の展示方法(段組で塊としてやるやり方)が合っていたような。
あとは、
意識的に被写体を決めてとった、
と言う、
これまでとの相違が、
馴染んでない部分もあったのかなぁと。
ちょこちょこした窮屈さがあったような。

a 知人 b 6回

盛田哲生

2014.4.1-4.9 「Clip Out」
サードディストリクトギャラリー

この作者は画面のなかを、
のびのび動けるのだなぁと、
すり抜けていく風の視点のような、
感覚があった。
街中で人を撮っていると言う点で、
知り合い何人かを比較して考えたとき、
自分と阿部氏は、
人に視線を持っていくのに対し、
石垣氏、
そして今回の盛田氏は、
人と街の境目と言うものを感じず、
その情景をまるごと切り取るような感がある。
そこまでの認識はあったのだけれど、
今回感じたのは、
画面に緊張感をどう保つかと言う点で、
のびのびしてると言うところに眼が行くなと。
画面の緊張感を保つ方法として、
一番やり易いのは幾何学的な線に落とし込む形だと思う。
あとは被写体や色の強さを素直に出すなど。
自分の場合で言えば、
地(街)に点(被写体)を打ち、
そこに層(なめ、前の被写体)を
重ねていく形で、
あとはその中でのバランスの崩れ具合、
あとは刺し色としての影を盛り込む形で成り立たせている、
一応はそのつもりで、
画面の作り方は基本的に理詰めなので、
真似しようと思えば、
わりと真似しやすいと思うのだけど、
盛田氏の場合は、
そこら辺が何とも複雑でとりとめもなく、
自由だなと。
そこら辺が何とも羨ましく思った。

a 知人 b 5回

盛田哲生

2013.10.29 - 11.06 「Clip Out」

人によって撮影したとしても、
明確な被写体を写しているというよりは、
街なりその時分なりを切りとっているような感じがするのと、
バリエーションが豊かで、
変に偏りを生まないのは撮影の量があるからかなと。

a 知人b 4回

盛田哲生

2013.6.18 - 6.30  「BREAKING UP」

東京の町のスナップ
撮影時に距離を予め決めて撮影するからか、
自分では撮りそうにない距離が多かった。
また、広めの画は広げやすそうではあるけれど、
多分似かよう人が多くなるだろうし、
寄ったものは撮影者が飽きそうな感じがして、
なんとも難しい。
一番違和感のある(自分ではとらなさそうな)距離に
バリエーションが増えるとまた面白いのかなと。
また、会場にいた他の写真家と話す中で、
それぞれが共有する視点、と言うものの違いがあり、
その意味で自分はストリートフォトに対し、
彼らほど深く見れていないのではという印象も。
基本的には流れ、なり、雑多な抑揚、
映画で言う粗筋に自分は興味が強いのかなとも。
言い換えれば、一枚一枚へ対しては、
さしてきちんと見ていない部分も強いのかと、
思いもして来たのが、
展示と別の所で、
展示を通して、
自分の視点の再認識にもなった様な気がする。

a 知人b 3回

大久保恵

2014.12.9-12.21「外側を流れる」

忙しくて撮って回ってないのなぁ、
ともとれるし、
忙しくて撮って回れなくても、
シャッターはきってるのかなぁ、
ともとれて、
はたまたあえて夜の車窓からを多くしてるのかは、
もはや良くわからないのだけど、
展示自体は良くまとまってるように見えた。
逆にここまで偏った閉塞した被写体の中で、
良くここまで撮れるものだなぁ、
と言うのと、
もう少し他のもみたいなぁと。
何とも妙な感じ。

a 知人 b 8回

大久保恵

2014.6.24-7.6「冬の終わりはいつも憂鬱 Ⅱ」

抑制された中、
前半は良かったと思う。
ただ、
後半に行くにつれ、
前半の抑制の効いたまま、
終わってしまったような気も。
展示としては好きだし良いのだけど、
もう少し展開がほしい感じが。

a 知人 b 7回

大久保恵

2013.11.5- 11.17 夜を縫う
TOTEM POLE GALLERY

さすがに数が足りないのかと思った。
それぞれ提示されている写真の後ろにある、
落とした写真と言うものが見えてこない。
選ばれて提示している感じがしなかった。
あとは構成もどこかまばらな感じがした。

a 知人 b 6回

大久保恵

2013.6.25-7.7「冬の終わりはいつも憂鬱」
TOTEM POLE GALLERY

何か変わったなぁと思って、
昔の作品のブックを見てみたら、
今まで塊としてあった平面が、
下地の様な役割もして来てる様な。
上手く言えないけど、
とりあえずの印象として、
平面が平面として捉えられていた様な。
良い意味で細かい所にも眼がいく様な。

a 知人 b 5回

佐藤春菜

2014.9.19-21,26-28「いちのひ-2013年5月-2014年2月」

今回は日常の出来事を、
あえて沢山入れてる感じで、
ただ、
そうなるとなんだか、
バランスがおかしくなる様な。
俗に言う仲間内で撮る写真の、
イメージが強くなりすぎて、
通常の味わいが消えてると言うか。
まぁ、
展示最後で、
割りきってるのだとは思うけど、
うーん。

a 知人 b 17回位

2014.8.8-8.17「Tokyo Action!2」
ギャラリー街道

構成として、
前の部屋から、
後ろの部屋への移動するまでの写真が、
今までにあまりないような、
線の折り重なりや、
町の風景、縦位置等、大伸ばしの、
人よりも街並みを中心にした印象のもので、
それに対し、
奥の部屋はいつものスナップ。
いつも思うのは、
画面が固まりすぎない余剰みたいなものがあるのは、
スナップをやっている、
反応に対し対応してるみたいな感じがして、
型に落とし込んでいく自分との差異なのだろうなぁと。
まぁ、
スナップをやっている人には、
同様に思うけれど。
そう言った部分が羨ましいなぁと。

a 知人 b 16回位

佐藤春菜

2014.5.1-5.15 「Tokyo Action!」
バー鳥渡

比叡神社の写真が強く印象に残っていて、
作者の写真はあくまでも人が中心の様に思えた。
それはどこか、
系統が違うように思っていた佐久間元氏に共通した印象でもあり、
もっと端的に言うなら、
この作者はスナップで、
自分が撮っているのはポートレートをであると言う、
その意識の部分が大きいのだろうと。
スナップらしいタイミングで、
シャッターを切っているのだなと言う感じがした。
あと、
前回がカラーフィルムであるのに対し、
今回はデジタルカラーを、
印刷で出力し、
ラミネートして展示をしていた。
一概にデジタルが悪いとは思わないけど、
続けざまに見てしまうと、
やっぱりフィルムが良く思えてしまうなぁと。

a 知人 b 15回位

佐藤春菜

2014.4.5,6,7,11,12,13 「short stories」

部屋を整理していたら出てきたカラーネガを焼いたものと、
大阪に行ったときの雪の写真と。
ここ何年か、
家族など知り合いの写真も、
入ってくるなかで、
それが違和感なく混ざるのは、
街中の写真の距離感にバリエーションが増えていたり、
街の写真の変化によるところも多いのだろうと。
今回はカラーの写真で、
染々と楽しんで見てられた。
同じ様に知り合いの写真も混ざるなかでは、
小橋氏が自分の中では思い付くのだけど、
あとは林氏もそうなのかな、
その中で、
佐藤氏は街が基盤にあるのかなぁと。
林氏や小橋氏は、
日常が基盤にあり、
それを街に拡大する感じがあり、
その日常と言うものは、
非日常として画面に写る。
それに対し、
佐藤氏は日常が、
日常のままに展開していく、
のは何とも面白いなと。

a 知り合い b 14回位

佐藤春菜

2013.7.5-7.14 「 Equal 」ギャラリー街道

日本でも外国でも、
よい意味で肩の力が抜けて、
同じスタンスで撮れている様な感じがした。

a 知人 b 12回位

植村美香

2014.9.1-9.14「オーバーラン」蒼穹舎

いつもより、
大きく写された被写体が多いなかで、
布団を叩くおばさんの、
実際どうなのかは知らないけど、
視線があっている様に見える写真があって、
それがひどく稀なことに思え、
その派生として、
電車における被写体との距離と言うのがあって、
互いに交わることはない (互いを認知することはない、
作者側のみ認識するような) 前提のもと、
ここにある写真は展開されているのかなぁと。
ただ、
走りすぎる電車より、
写真を媒介にした接点があったと言う感じもする訳で、
1に近付く0.999…の様な、
近づけど届きはしない絶対的な、
距離がある様に感じた。
特に否定的な意味はなく、
そう言った距離感が、
この作品における良さなのかと。
あとは、
距離が近くあるものが目立ちはするも、
遠景の写真よりかは弱くも感じられ、
どちらをより多くみたいか、
意見が分かれる位に、
その近景にも、
近景同士での繋がりなり流れが見えると良いのかなと。
DMを近景のものにしようとして、
はじかれたそうで、
多分そんな所。
そう言うとこも含め、
強さが同じになると、
それぞれがより際立つのかなぁと。
そんな気がした。

a 知人 b 5回

植村美香

2013.7.8-7.21 「オーバーラン」蒼穹舎

どこか時間との関連がよぎって、
と言うのはいやおうなく通り過ぎる電車からの風景と言うものを、
とめる(記録する)と言う行為が、
時間の中での、他社には気に留められもしない、
一時をとどめると言った、
自分個人での写真の印象とどこかリンクしたからか。
ただそれを言うなら前にも見ていたわけで、
なぜ今回そう思ったかはよく分からないけれど、
おそらくは自分が過ごす日常と同じ様に、
車窓からも同じ様な時間が流れている、
いい意味でのバリエーションの多さを、
思うより感じたからなのかなと。
それぞれの土地を歩くと同様に、
それぞれの路線より多くの生活や人と共に歩んでいるような、
そんな印象を受けた。

a 知人 b 4回

藤木雄汰

2013.8.12-8.26 階段ギャラリー

元々はこっちが本来のスタイルなのかなと、
えらくしっくり来ていた。
おばあさんを入れ込むのはあの場所かなぁとかは、若干あったけれど。
あとは、喫茶店の階段と言うものが、
どれくらいその作品を拡げてくれるものなのかと。
こう言う、見るともなく目にする場所は、
自分としてはいいなぁとおもうのだけれど、
長い期間飾らなくては本当に見過ごしてしまいがちになる気がして、
ブックをおいとくのは量が膨大になり結局は埋もれてしまいそうなのとかというのと、
それなら場代を取らず、作品一枚提供して、
常設としてどこかに飾るとか…ただそうなっても場所がないか。
チェーン店なんかが、そういう流れで店に飾る作品を作り手から受け取れると良いのではないかと。
いろんな作者の作品が混ざるから難しいかと思うけど。

a 知り合い b 2回

服部成児

2013.9.6 - 9.15 「undulations」

街と人とのバランスと言うのは偏る気がして、
たとえば金村さんであれば人を街が飲み込んでしまう印象があって、
逆に長野さんは町もありつつ、
やはり人に眼が行く。
今回の服部さんの場合は、
どこかその中間にいるような。
街を幾何学的に捉える部分もありつつ、
それでもいい意味での装飾としてとどまり、
人にも目が行く。

a 少しだけ話した b 3回位

ダニエル・ゲティン

2013.9.17-9.28 ギャラリー現

線で引いた枠組みが、
実際のギャラリーの枠組みと別のベクトルで立体を構成するようで、
いつまで見ていても飽きなかった。
そして自分が東京の町並みで心地よいのはこの感じなのかとも思え、
どこかに親さを感じた。

a 面識なし b 初見

平井友紀

セレンビリティー
island MEDIUM

写真を一旦出力し、アナログ的な加工を加え、
そしてまた一平面に落とし込んだ作品は、
デジタル特有の粗さと共に、アナログ的な時間の堆積がみてとれる。
すべては肯定することから始まる、は、
作者の最初の個展のタイトルであり、
その姿勢にも見える。
様々なジャンルの要素を一旦受け入れつつ、
自身の中で昇華し、結果的に取り入れたはずの分野とはかけ離れた作品の、
その根底にはそれぞれ分野への肯定がある。
そのことが極めて分かりにくいが故に安易な肯定を拒み、
されど否定をも拒否しえる何かが常に提示されている様にも思える。
今回の展示ではNYの滞在場所の窓より撮影された空の写真が象徴的に思え、
空色のグラデーションは、空であり、からなのだ。
ギャラリーの正面に展示されつつも、主張はなく、展示全体を映す。
中心を表すのは天井よりぶら下がる小さな鍵の作品だろう。
その周辺にΝYで制作された作品が並ぶ。
総じて言えるのは、作者の作品はどこかしら危うさがつきまとう。
創造し破壊するのではなく、創造のための破壊が存在し、
そして、保身的な要素を極度に拒む。
どこか自由に伴う危うさの提示しているような気がする。

a 知人 b 8回位

鶴田厚博

2014.11.10-11.23「After the Rain」

webで並べを少しやったのと、
展示とではどう違いが出るのかなぁ、
と思いながら見たのだけど、
大分自分では変えた並べにしたつもりが、
印象としては同じ感じがした。
並べに重きをおく部分が、
自分の中では強くはあるのだけど、
並べの為に写真があるわけではないと、
今更の様に当たり前のことを認識したり。
並べでダメになる場合も多分にあることもあるけど、
核となる部分は変わりはしないのかなぁと、
まだまだ奥が深いと、
そんなことを思った。

a 知人 b 14回

鶴田厚博

2013.10.28-11.10 「After the Rain」

プリントの段階で見ていた時は、
ゆったりとした感じになるのかなと思っていたら、
実際壁にかかってみたとき、
繋がるかに思えた流れはキレイに散らばり、
どこかモールス信号のような不思議なリズムに。
前回の時は影が沈む中押し出された色という感じだったけれど、
影のなかに潜んでいた色が前に来るような、
どこか華やかな感じがあり、
ただどこかモゾモゾするような。

a 知人 b 13回

水谷幹治

2014/5/29-6/11 "indigo"
Up 40 Gallery

敢えて言う。
自分はこの作者のファン、
なのだと思う。
だから、
この作品も現物をかろうじて見てはいるだろうし、
それにも関わらず、
見てなかったかのように錯覚したカットも何点かはあった。
ただ一つ思うのは、
見たはずの作品、
それもプリントをもとに複製された、
インクジェットの作品を、
今自分が見ても、
どうなるのだろうと言うことで。
断っておけば、
同じ作品を見せることは、
決して悪いことではないと思う。
知り合いが言っていたのは、
同じ作品を扱いつつも、
全く別の作品の様に見せれば良いと。
その意味で、
新しく撮ったかと勘違いした数カットは、
貴重だったのかと思う。
とは言え、
あくまでこの展示は
見たことのない人に対しての展示だったのかなぁと。

a 知人 b 17回位

水谷幹治

2013/11/6-11/23「Rising Sun」

元々のシリーズを知っているだけに、
どこかはじめてみる人の印象が、
おかしな方向に行ってしまわないかと、
懸念する様な感じがした。
諸々、意図なり、敢えてやっていると言うことは重々理解しているつもりではあれど、
一番共感してくれるだろう層に、
テクニカル、キャッチーな面が目立ちすぎて、
距離を取られはしないだろうかと。
なんか勿体ないような。
もっと素直にやっても、
馴染みのない人にも伝わったのではないかなぁと。

a 知人 b 16回位

水谷幹治

2013/11/4-11/23「EL DRADO」nagune

ずっとストイックに続けている凄味みたいな所は常に感じはするなかで、
この作家の危うさと言うものはなんだろうと、
ふとそんな考えがよぎった。
よくずらすか、さもなくば圧倒的でなけれは、
上手さなどは無用の長物であるというのは聞くし、
それは自分でもそう思うのだけれど、
そんなところが気になった。

a 知人 b 15回位

石垣裕

2014.7.22-8.2「要求の射程」
The White

目の前の熱が冷めないうちに、
と言うのか、
生っぽい感じがすごくして、
それは同時代的と言うよりも、
時間が経過してもある一定の熱量が存在し続ける様な、
その熱を定着させる様に、
恐らくは自分の倍は早いタイミングでシャッターを切っているような感じがした。
(まぁ、
それだけではないのだろうけど) と言うのは、
写真に定着した画が、
良い意味でのあらさなり、
不安定さを内包してるよう感じるからで、
それは多分同じキャンディトフォトをとりつつ、
作者はスナップを、
自分はポートレートを、
撮ろうとする、
意識下での違いが、
ありありと出てるのだろうなぁと。
自分のように考え込んでは撮れない写真だなぁとか思った。
特に中判の二枚目と、
35の写真とが。

a 知人 b 11回

石垣裕

2013.11.29 - 12.8「写真と街路」
サードディストリクトギャラリー

同じように中判カメラで撮影しながら、
全然印象が違うのはどこからなのだろうと考えたとき、
この作者はなめ(被写体の前側にある人影など)がないのだなと。
なくはないのだけれど、
そのなめも含めた情景が被写体と言えるのだろうと。
話を聞いてみたところ、
今はもう意識はしていないけれど、
昔、見たそのままを剥ぎ取ったかのような写真に好感を持ち、
その様に試行錯誤していた時期があったとのこと。
気にしないと流してしまうけれど、
そういった作者の考えなりを読みとく要素と言うもの、
が、写真に写っていることを考えても、
写真には作者の意向なり、身体的趣味趣向と言うものが、
反映されるのだなと改めて思ったし、
それはなくそうとしてもなくせないものなのだと思った。
作品自体は、
35と中判とのピン張りで、
違いはなくはないのだけれど、
その視線と言うものは統一されたもので、
見ていて違和感がなかった。
そして自分にはとれないものだと思った。

a 知人 b 10回

稲垣遊

2013.11.16-12.8 深川番所

自ら撮影した写真を素材に描くこの作家のへは、
どこか自分達が写真でやろうとしている所に共通するのか、
なんとも写真的で、
写真を見る時と同様の視点で見れる不思議さを持っている。
実際、写真の人が見る反応というのの良さと言うものを、
安易に想像出来る。
写真の人同士で、
言いあらせずもどかしく思う画としての良さが、
この絵の中にあるのだと思う。

a b 3回

TAP Gallery

グループ展

2014.8.19-8.31「深川夏祭り」

清澄で撮った、
と言う縛りをもうけながら、
これならどこで撮っても変わんないんじゃない?
と言う感じで、
村越さんや小野くんのは、
何やらえらいひどい逃げ方をするなぁと。
というか、
予定調和でお茶を濁してる感じで、
グループ展に向かう姿勢として、
力を入れてないなぁと言うとことと、
そこにゲストとして呼ばれる人の気持ちを考えてるのかなぁと言うのはなんとも。
フジモリさんのは、
直前にあった水掛祭りを撮ってる作品は、
取り組む姿勢として良いものの、
整理しきれてない状態の感じもあり、
ここら辺は、
また他と合わせた上で、
改めて展示でみたいところ。
何点か良いのがあったのに、
イメージが薄まってしまってるような。
ただまぁ、
撮影の恐らく翌日搬入だろうので、
無茶をしてますなぁと。
池上くんの町中の風景をL版でピン張りしてるのは、
やり方としてなくはないのだろうけど、
誰しもが認める良さの上での、
肩透かしとしてやるものではないかなぁと。
なんかえらい大火傷をしてるように見えるのだけど。
後半、
ゲストとして呼ばれていた、
大西さんの写真は、
清澄や祭を撮っている場数も含め、
やはり際立っていたような。
それに対し、
ちゃんとぶつかっていったのは、
佐久間さんのかなぁと。
まぁ、
いつもの通りの写真なのだけど、
個展と同じスタンス、テンションで撮っているような。
若山くんのは、
人を撮りなれていないからか、
人がいながらにして、
人がごちゃごちゃして見えて、
もう一つピンとこなかった。
野尻くんのは、
いつも地元をとる人が、
清澄を撮りましたと、
言う位で、
こちらもピンとこなく。
全体的な温度差と言うのが、
強かった気がして、
個展を基本としているから、
中々グループ展に対しての、
入れ込んだ感じと言うのがなくて、
あとよく人から聞くなかで、
個展でもみたいなぁと言うのは、
誉め言葉かと思うけど、
そう言うのはメンバーのでは、
なかったかなぁと。
あえて言うなら佐久間さんのかと。

a 知人

グループ展

2014.8.12-8.17 松下初美・和田悟志・若山忠毅 3人展「散文」

展示会場に入って、
まず思ったのは空間の遊ばし方が、
上手だなぁと。
どれにも目がいくし、
どれも他の邪魔にならず。
見事だなぁと。
また、
いつもやっている展示と、
違う内容をやっているのも含め、
共通する部分があるのか、
名前を確認するまで、
どれが誰の作品だか分からなかった。
それぞれに良かったけど、
特にひかれたのは松下さんのかなぁと。
抑制の聞いた中での色のさしかたとか、
切り取り方、
並べでの変わり種の入れ方。
グループ展でこれだけのは、
中々見れないような。

a 知人 b

大山一葉・中原航

2014.8.4-8.10 「blank」(若山企画)

家族を撮ろうとした写真は、
被写体より許可が下りず、
直前に内容を変えたのだとか。
それが返って良かったのかは、
元々のを知らないからなんとも言えないところだけど、
変に観念的でも、
心象風景に流しすぎることもなく、
抑制のきいた、
渋めの展示となっていた。
個展をいきなりは大変ということで、
二人展になっていたけど、
個展で見たかったなぁと。
もう一方の写真は、
サークル内の知り合いを撮った内容で、
この手の中での写真の、
他との差別化が難しいような。
うーん。

a 企画者が知り合い b 初見

春日玄

2013/9/10-9/22「模写2013」

変に爽やかにごまかすと言うよりは、
どんな状況であっても、
大なり小なり全ての要素はあるのかといった感じなのかと
おいてあったブックの渋谷の雨の光景とかも、
なんとも面白かった。

a 知り合い b2回

佐久間元

2015.2.17-3.1「東京マラソン」

今回はちょっと砕けた感じで、
のびのびとと言うことみたいなのだけど、
モノクロカラーそれぞれ一点以外は、
楽しみすぎてしまっているような感じがして、
なんだか腰砕けになってしまうような。
遊ぶのは良いのだけど、
もう少し全体の収集がつくように、
もう少しで良いから考えていただきたいものというのと、
そう言った展示のもっていき方によるしたたかさというものが、
自主ギャラリーの人でもっている人っていないなぁと。

a 知り合い b 19回

佐久間

2014/10/28-11/9『そこへゆけ』

どこかつまったと言うか、
スッキリしたような感じ  が、
良いのか悪いのか。
はてさて。

a 知人 b 17回

佐久間元

2014.4.1-4.13 そこへゆけ」

一体何があったんだろう、
と、
不思議なくらい、
良かった。
大人っぽくなったと言うか、
落としどころとしての、
抑制がきいてきたような。

a 知人 b 16回

佐久間元

2013/12/3-12/15「そこへゆけ」

今までのをただ焼き直したと言う印象と、
余りの選びの変わらない感じに、
作者はピーターパンか、
ハッピーターンの食べ過ぎなのか、
と、
思った。

a 知人 b 14回

村越としや

2014/11/25-12/7

展示、新作の写真集ともに、
いままででは決して入らないようなカットがあり、
今までの中で、
一番変わったと言う印象があった。
厳密に言えば、
展示における瓶やスコップは、
前回の展示であったのだけど、
そのとき限りの割りきりで出してるのかと思っていたので、
メインの流れにも絡んでくるのは意外だった。
ただいまの時点で、
昔のものより、
こちらの方が良いとは正直思わない。
思わないながらも、
作者は素直に反応したものを出してるのだろうし、
変に取り繕うとしないと言うことなのかと。
作品としては良い方に向かってる気はしないけど、
有り様としては良いのかなと。

a 知人 b 23回位

村越としや

2014.5.27-6.8「もつれるものをほぐすとき」

落とし所を、
よく理解しているなぁと。
特別内容が良い訳ではないけど、
こういうのを出すのだったら、
このタイミングしかないかなぁと。

a 知人 b 22回位

村越としや

2014/1/14-2/2「April-May 2013」

幾何学的な捉え方が全面に出てきたような印象があり、
寧ろこれまでなかったと言う意味で、
これは今まで避けていたのか(一部ありはしたけれど)、
新たに惹かれたのかにより、
意味合いが大きく異なるかと思う。
前者なら枯渇を意味するし、
後者であればこれからの拡がりを持つわけで。
今のところはなんとも言えない。
単なる印象で言えば、
昔の方が良かったかと。
とりあえず今までと大きく違った印象を受けた。

a b 21回位

村越としや

2013.6.11-6.23『January - February』

何点か、こんなのも撮るんだと言うのがあって、
どんより沈んだ画面の中で、
端にある雪が際立つ様に白かったのはなんか新鮮だった。
最近の傾向として直線的な建物が田畑や山並みに混じるのは、
ちょっと多くなり過ぎていてよくないのかなと。
DMの写真は良かったけれど。
前までのイメージを払拭する様な何かを、
ゆっくり探している感じなのかといった印象。

a 知人 b 20回位

和田悟志

2014/12/9-12/21「Invisible Border」

良く考えられたと言うか、
あるべくしてここに、
この大きさであると言うように、
思わせてくれる様な心地よさがあって、
大小様々なサイズが、
見ていて全然気にならないと言うか、
違和感がなかった。
一点一点も、
建築物、
木々の垂線が折り重なる中の、
均衡を良い意味で崩す布や剥がれ、
異物、
そう言った諸々の調和が心地よく、
見ていてずっと飽きなかった。

a 知人 b 3回

フジモリメグミ

2014.9.30-10.12「hebe」

様々な、
一見繋がりの余りない様な写真が、
作者の視点を基軸に、
一つにまとまるなぁと、
と、
言うよりかは、
元々何を撮るとでもなく撮るのだろうなぁと、
この作者は。
特に深川の水掛祭りの写真を見て思ったのと、
あとは変な力が入ってなく、
淡々としている分だけ、
余計に時間の経過、
ドフトエフスキーの罪と罰における、
「何があったんだ?」
「あったことがあったのよ。

「酷い、
それは残酷だ。

(ものすごくうろ覚え)
と言う件(くだり)
の、
経過における否応なさを、
感じた。
作品自体は別に暗かったりはなく、
時間と言うものがと言う意味で。

a 知り合い b 6回

フジモリメグミ

2014.6.10-6.22「moira」

順番として、
二番目にかかっていた、
青白い感じの、
民家か旅館かの写真がすごくよくて、
お金はないけど、
分割が可能だったら欲しいなぁ、
と思ったけれど、
たまたまいったとき、
ギャラリーに在廊してなかったので、
買うことはなかった。
自分も写真を撮っているわけなので、
欲しいなぁと思ったら、
自分で撮ってしまえば良いのだけれど、
まずこの場所を自分自身で見つけるのは不可能だろうし、
見つけたとして、
同じ光線の状況だとは限らないだろうし、
諸々のことを考慮しても、
自分では再現出来ないと思った。
ほかの人のは再現出来るから欲しくないの?
と聞かれると、
そう言うわけではないし、
変に考えすぎると、
ごちゃごちゃして、
面倒くさいのだけど、
単純に欲しいなぁと、
思ったものを後付け的に、
その理由を考えたら、
そうだったと言う位で、
具体的このカット、
と言うので欲しいなぁと思うのは、
以下の通り。
断りとして、
名前はのってない人でも、
これってのは明確にないけど、
欲しいなぁと思う人はいます。
まぁ、
どうやって買ったら良いのか、
分からないと言うとこと、
手持ちがないのも含めて。
石垣裕、水谷幹治、綿谷修、
河野純一、佐藤春菜、藤岡亜弥、
原芳一、内堀晶夫、牛腸茂雄(敬称略)、
あと全体の流れとして、
こんな引き出しもあるんだと言うのが、
何点もあった。
ジャンルとしてと、
冊子の注にあった様な、
地震以降に対する、
写真の捉え方等違いは、
なくはないのかもしれないけど、
壁にかかる部分だけ見れば、
内容自体は、
良い意味で、
距離は感じないかなと。
変にこ洒落てるわけでもないし、
コンセプトに振り回されてる感じもないし。
距離を感じる人は、
色に引っ張られてるのかなぁと。
あとは特別な状況ではなく、
難しい技術を駆使してるわけでもなくとも、
写真におさめること、
再現の難しさを、
欲しいと思ったと言うこともあってか、
改めて実感させられた展示だった。

a 知人 b 5回

フジモリメグミ

2014/2/18-3/2 「gaia」

今回はスタンダードな展示で、
それ故に一点一点を意識してみてた。
どこか平面を意識させるところがあって、
平面の中に差し色と言うか、
何も言葉の通り色を入れるわけではなく、
何かしらの形なり、
平面に浮く要素が、
さりげなしにと入って見える。
白っぽくどこか淡い感じに仕上げたプリントではあるけれど、
甘さを抜いたお菓子の様に、
癒しや可愛らしさとはどこか距離を置く感じがして、
制作の行程なりを聞く限り、
やっていることは自分なり、
元々自分が関わっている写真の人と近い気はするも、
多分何かが違っていて、
その違いはなんなんだろうとか思い見ていた。

a 知り合い b 4回

フジモリメグミ

2013/11/19-12/1『rhea』

色々展示形態に対し試行錯誤することが、
この作家の個性でもあるのだとは思いつつ、
どこかその基準となる部分が不明確で、
逆に損をしているような。
TAPからの展示しか見ていないから、
分からないところも多いのだけれど、
スタンダードな展示も一度は見てみたいかなと思った。

a 知人 b 3回

フジモリメグミ

2013.7.9-7.21 『thetis』

展示に伴う空間演出や、
それに伴う試行錯誤を、
きっと楽しめる人なんだろうなぁという印象が。
単純に見せ方が上手なのはまずあるのかなと。
日常でありながら、
生活観が強すぎることもなく、
また、変に心象風景的にも流れないのは、
多分そこら辺が作者の個性として、
ふりまわされないところがあるのだろうなと。
上手くいえないけれど。
前の額装の続きもちょっと見てみたかったきもしたなぁ。

a 知人 b 2回

フジモリメグミ

2013.4.16-4.28 「cynthia」 TAP Gallery

額の中に、6枚、
または8枚のインスタントプリントがあり、
その額が20点並ぶ。
ありそうな感じなのに、
最初どうみて良いのだか分からなくなり、
繰り返し繰り返し見ていくと、
何かある一定時間の単位として額内の内容があり、
それが折り重なっていくような印象を受け、
その区分の仕方が自分には面白いのかなと。
通常の写真を一瞬(いっとき)とするならば、
それよりは長く、
日常を漫然と散りばめていくのではなく、
かといって6枚ないし8枚も日常として存在し、
明確なイメージは持たず、
に、
いるのも良いのかなと。
後は額の中の選択をよりつめていくとまた変わってくるような。
ただそこら辺のバランスが難しそうでもあり。
次回も同様の展示方法でやるらしいので、
どう変化していくのかを見ながら考えてみようかと。
分からない部分も多々あり、
それ故次回を見てみたい感じがした。

a 知人 b 初見

林隆喜

2014.4.29-5.11「メヒコ1984」

惹かれても良さそうな内容の中で、
何も引っ掛かりがなかったのは、
自分の問題なのか、
展示の構成なのか。
よく分からないけど、
とりあえずDM以上の感慨はなかった。

a 面識なし b 初見

篠塚祐介

2014.7.8-7.20「ike:pocha」(佐久間企画)

好みは人それぞれだと思うけど、
よくまとまった展示だと思う。
ただ、
展示に添えた文章はくどい。
折角説明がなくても、
問題ない内容に、
変な意味を持たすのは、
蛇足かと。
面白いでしょ、
で、
充分だと思う。
あとは内容を重ねていくなかで、
どう展開出来るのかなぁ、
と言うところが、
やや疑問。

a 知人 b 初見

池上洋平

2014.5.13-5.25「Social Landscape/東京」

幾何学的に落とし込むには、
写真としては半端で、
半端を狙っているなら、
方向性が良くわからない。
何だか悪い意味で、
雑な感じがしてしまうなぁ。

a 一回だけあった b 2回

池上洋平

2014.2.4-2.16「東京フィロス」

幾何学的な線の捉え方をしつつ、
都市論と言うよりは、
もっと日常的なものだろうと。
日常を基盤とした、
都市空間への視点と言った感じがした。
ただ、
そこら辺を明確にふらないと半端かなぁとも。
どこか徹底した部分が欲しい感じが。

a 一回会った b 初見

松下初美

2014.4.15-4.27 「松下初美」

自分にはない部分を、
確信を持ってやってるんだろうなぁと。
なんだか面喰らってしまって、
今のところは分からないなぁと。
なんだか呆気にとられてしまった、
そんな感じの展示。

a 面識なし b 初見

小野淳也

2014.3.18-3.30 「皺とうたかた」

作者の祖父の顔のアップが、 ある一定の感覚で並べられ、
それ以外は家の中の風景が展開される。
淡々と写される祖父の肖像は、
時間軸の基点なり、
他と切り離された時間ということだろうか?
記憶が日に日になくなっていく、
外界から切り離されていく、
そしてそれを繋ぎ止める術として、
写真を用いている、
ということなのだろうか。
今回でこのシリーズは、
一旦発表はしないということだけれど、
このシリーズを、
これからどう活かしていくのかと。
ドキュメントと、
イメージの羅列との絡みなのかなぁと。
とりあえずもっとしたたかに出来ると良いのかなぁと。

a 知り合い b 回

小野淳也

2013/8/6-8/25 「曖昧な二人、繰り返す普通」

良くも悪くも、
まとめ方が上手になってきているのかと。
ただ、これから続けていく中で、
親族の痴呆のある祖父母を撮る、
そのスタンスと言うものは明確にしていったほうがいいのかと。
親族を撮る、となれば、
なぜ敢えて痴呆のある人を撮ると言うことになるのだろうし、
痴呆を撮るとすれば、なぜ親族に限定してしまうかと言うことだろうし、
俗にデリケートと呼ばれる題材に対しては、
何かを言われたときにきちんと説明することは、
扱うことを選択した作者の責任としてあるのかと思う。
そこらへんが見てる側としては分からないのと、
あとはその次の展示に対する期待、
同じテーマを扱ったときの漠然としてもいいのだけれど、展望というものが、
もう一つ見えてこない。

a b 回

くじめゆり

2013.9.24-10.6 『行こう、ヌーメノンがあるところ』

女性が自身を支持媒体として作品を作ることは珍しくないのに、
それを男性でやることは珍しく映る。
どこかナルシスティックに。
森村さんとかはまた別だけど。
今回の作品は女性であり、
ストーリーのなか展開される。
如何せん自身ではそう言った作品は作ることはまずないし、
作る動機と言うものが理解できないのが正直な所なのだけれど、
元より女性がする化粧と言うところからの相違と言うものから、
自分との隔たりは始まっているのではないかと思えてくる。
基本的に無論自分は化粧などしないし、
女性に対してもしてない方に魅力を感じるのだけれど、
そこらへんの差異と、
その中での稀少さ(この作品、作家でしか見れないという実感)は
自分には感じ得なかった。

a 面識なし b 初見

吉原かおり

2013.4.2-4.14 さよならとチョコレート TAP Gallery

作者はどこに向かいたいのか、
と言う疑問がずっとあって、
今回の内容を見たとき、
元々のカプセルアパートのスタンスと言うものに回帰していくのか
と、
少し感じた。
それは悪い意味ではなく、
人と対峙する姿勢から、
ブレなければいいのではという感じがして、
しかしながら変な装飾に振り回されている印象を受ける。
吉原さんに限らず、
大伸ばしが身近になった弊害と言うものは多分にある気がして、
その有用性を使い切れず結果として、
悪い方に作用しているケースがよく見られる。
大きく伸ばされた写真がゆったり並ぶ、
その展示方法が逆に浅はかなかな印象を与え、
ある種の必然性も、
その方法を選択した情熱なども感じず、
空間が逆に悪く作用してばかりいる、
というのが、今までを含めての感想。
これからは期限に追われず腰をすえて作品と向き合うようなので、
地に足をつけて貰えればと。
あとは実験的というのは
作品の内容、または双方でやるべきで
空間演出が先走るのは良くないかと。
そこら辺が出来ないなら無難な額装の方が良い。
大伸ばしがあらをごまかすためものにしか
少なくとも自分にはうつらない。

a 知人 b 13回位

B gallery

平澤賢治

2013.5.25-6.13 「Portraits」

最初に飛び込んで来たのは、
画面を構成するジャギーで、最少単位の点描が、正方形となる。
思い出したのはイラク戦争での報道に、
Web動画を使われていたことで、
遠くからなんとなしに見える世界を、
ここ(ニュース)では現実と定義するのだろうと。
四角の温度分布のグラフ、が、位置と濃淡により、
人としての質感を得る様で、
その中での瞳の不在(温度差がないからなく見える)からなる
石膏像の様なアンバランスさがあり、
人が人を認識する条件の妙が自分としては気になった。
‘命は美しい’との作者の意図とは違えてみえ、
命の美しさがもしあるとしても、
サーモグラフィーの色に絡めるのは些か乱暴かと。
キレイさよりはおどろおどろしさの方が自分には強い。

a ギャラリーの人と顔見知り b 1回

:Eatable of Many Orders exhibition

2013.5.14日- 5.23 「Arch Guild Anthropology/Porano Square ポラーノの広場」

宮沢賢治をモチーフにデザインされた衣服。
ここまでくると、展示として観て良いのかよく分からなくなってくる様な。

a ギャラリー受付の人が顔見知り b 1回

ラビットホール

2013.4.27-5.12 「ラビットホール 」

手にとった質感など、
ある種、身体的感覚を刺激するデザインの時計やランプ等。
誰だったか忘れたけれど、
デザインはアートではないみたいなことを言っていて、
まぁ、アートでなくてはいけないなんて言うことはないから、
それはそれで構わないのだけれど、
作品と商品の境目みたいな所で考えると、
今回のは見ていて楽しい商品だろうと。
そしてそのことに誇りを持ちながら
(あまりそこら辺を意識はしてないだろうけれど)
楽しみながら制作に取り組んでいるように見えた。

a ギャラリー受付の人が顔見知り b 1回

TAKAMURADAISUKE

2013.4.1ー4.14"半ラブ" B gallery

自分の物差しにないものがあると、
どこか共通の所をグジグジ考えてしまうけれど、
そう言うのも逃げかなぁ、と、思ったり。
確かにラブホテル等の敬白なカラフルさはあるし、
分かるけれど、
なんか現実のラブホてるみた方がそれは考えるし、
現実の方が写真より魅力的なのは良くないのではないかすら、と。
写真には時にその選択の違いにより
選者(作者)との距離を測る装置としてある様な気がするけれど、
今回はその距離をひどく感じてしまったなぁ。

a ギャラリー受付の人が顔見知り b 1回

SHUHARI

沖本一成

2014.7.24-8.10 「ホーム」(木金土日のみ)

行為としての写真があり、
記録があり、
どこに引かれ写してるのか?
と言うのは、
あくまで自分の見方なのだけれど、
それでもやはり、
その先、
もみたいなぁと言う、
撮り手の個別性みたいなものは、
何か欲しがった。
記録することや、
続けることは大切なのと同時に、
現場では何らかの感情の動きが欲しい様な。
まぁ、
実際は何かしら自分の気づかぬところで、
あるのだろうけど。

a 面識なし b 初見

中山学

2013/7/25-8/18「Portrain-肖像-」

誰かしらやってないときにもとめないだろうし、
記録としての価値はいずれかであるのだろうけど、
次に見る機会や、見せる機会なり環境をどこで作るのだろうと。
まぁ、それをいったら自分を含め、
目的の分かりにくい写真は全て似た課題を有しているのだけど。
逆から方法を考えるのだけは避けたいところ。
ただ、今の時点では、如何せん弱いかなぁと。

a 顔見知り b 4回位

斎藤りこ

2013.5.23-6.9「深海」

ハイライトとなる部分が、標準から、若干アンダーになる位、
またはそう行った部分が質感が一番分かりやすくなる明るさで撮影された写真郡。
されど黒が潰れる訳でもなく、
タイトルの深海は縦方向ではなく横方向に拡がるものなのか
と思って聞いてみた所、違います、ときっぱり。
心情的な重苦しさではなく、どよんとしながらも、
情緒を持って拡がっていったら良いなと思った。

a 顔見知り b 4回位

川本健司

2013.3.21-4.7「よっぱらい天国 67」SHUHARI

珍しいものは割りに被写体に振り回されてしまうものだけど、
ワンパターンになりもせず、
中々楽しめたような。
あと多分そう言うバリエーションだせるのは
本人が楽しんで撮ってるからだろうと。
長く続ける中で、
本人が飽きないのも一つの才能だと思うし、
しかしながら飽きてからどうするかが大切だと思うけれど。
とりあえず全体の印象としては、
酔っ払って寝ている人がこれだけいて、
ものを取られたりしていない日本は本当に平和だなと。

a 面識なし b 2回

直江沙季

2014.9.11-9.28「残像」(木~日)

タイトルは確認せず見たときに、
何がしらのおこったあと、
そう言った感じがして、
残像と言うタイトルを 展示を見終わり見ると、
何とも納得するような。
画的には派手さはなく、
自分だったらこうするなぁと言うとこと、
ただそうするとこの雰囲気は出ないだろうと言う、
抑制を上手く使っているような印象があった。

a 顔見知り b 6回位

直江沙季

2014.4.3-4.20(月曜~水曜は休廊)「Cake-Walk」

どこか何もない空間を、
回りの被写体により意識させるような感じがして、
もしかしたらそう言った部分が、
どんづまるにも共通するのかなぁと、
前の感想を見直してみたら、
実際作者にその様な旨を言われていたよう。
バリエーションが多かった中で、
実感としてその意図が感じやすかった展示だった。

a b 5回位

直江沙季

2013.4.11-4.28「どんずまる」

どこかミニマル的に繰り返していて、
コレクション的にやっているのかなと思ったらそうでもないらしい。
壁と壁との消失点との先にポッカリあいた空間にひかれ、
撮影しているとのこと。
そう言われると何かまた違って見える。
感覚としてはスナップに近いのかもなぁと。
知らんけど。
手法を徹底して統一しているので、
最初に見間違うと、
ずっと見当違いの見方をしてしまっていたのだなと反省。

a 顔見知り b 4回位

谷本恵

2014.4.24-5.11(月から水は休み)「大阪鶴橋商店街」

鶴橋の写真で、
写真の端々にも、
みていて面白さがあり、
行ったことのある人や、
生活感に準ずる習慣や道具にひかれる人は、
無条件に楽しめるだろうなぁと。
そうした一方で、
写真家の作品だと言う差し出し方として、
この作家でしかみれないこととは何なんだろうと、
蛇足ではあるのだけど、
やはり気になりはした。
もはや展示とは全然関係のない話なのだけれど、
写真を撮って発表したら、
それは写真家かと言えば違うし、
撮影した写真の上手さで決まりはしないし、
ただ少なくとも、
趣味でやっている訳ではなくて、
(趣味の写真を軽んじる気はないですが、
自分も趣味でやっています、
貴方と私は同じですねと言われたら、
違和感があるので、
そこら辺を考えると、
やはり意識の違いは強いのかと思う)
頼まれ仕事でやってる訳でもなく、
あくまで作品として提示している、
その境目は何なんだろうと。
多分今回の作品は、
そう言った色々な立場の人が、
それぞれで楽しめる部分が強く、
それ故に立場なり、
方向性ははっきりしといた方が良いのかなと。
例えばドキュメントとしての視点で、
今回のが良かったと、
と言われたときに自分のやりたいこととずれて捉えられたとき、
(ずれてるのかはしらないけれど)
その事が縛りにならなければ良いなと。

a 顔見知り b 6回位

谷本恵

2013/10/3-10/20「大阪駅 ピープルアラウンド」(木~日)

キャプションの落とし所をよく考えてやっているなぁというのがあって、
今回は紙を閉じてぶら下げていて、
見たい人が見るという形式。
毎回思うのだけれど、
キャプションが邪魔にならなく、
むしろ広がりを持たせるような。

a 顔見知り b 5回位

谷本恵

2013.5.2-5.19(木~日)「大阪式 ミヤコジマ/24区」

赤、黄、黒…等、
原色の色を堂々使っているのにくどくないのは、
あっけらかんとしているからだろうと。
むしろ統一感があるからか、
落ち着いてすら見える。
言い方を逆にすれば、飾り気もなく(落ち着いた)派手(原色)、
となり、
これが言ってみればギンギラギン二サリゲナクなのだろうかなぞ思ったり。
ここまでは写真よりうける大阪の印象。
展示にも似た様な印象もあり、
若干過剰に思えなくもない演出も、
構えることなくサラッと差し出すからかさして気にならない。
きっちりとよりはザックリと。
見ていて飽きない、そんな展示。

a 顔見知り b 4回位

TOTEM POLE GALLERY

TPPG member exhibition Vol.8

2014.5.27-6.8 ”Snap”

東京の傾向として、
グループ展よりも個展をベースに活動している人が多い中で、
グループ展に何を期待して、
見に行くのかと考えると、
個展では見れない面が見えたらと思うのだけど、
見れない面と言うのは、
具体的にはなんなんだろなぁと。
一つはテーマに即し被写体が変わることだろうし、
もう一つは空間の制限により、
展示方法が変わることだろうし、
良い意味での遊び心と大胆さなのかなと。
そう言う意味で、
遊ぶにしても、
本気で遊ばないと面白くないし、
その意味では個展以上に真剣にやる、
と言う意味では、
唯一菱沼氏がそうだったのかなぁと。
あとの人のは、
枠内で差し出した感じで、
個展とは別の良さと言う感じはなかったし、
持ち得るものを、
差し出した感じにとどまっていたような。
菱沼氏の内容が、
特別ひかれたとかではないけど、
姿勢として。
次を見たいかと言う意味で。

a b

甲斐啓二郎

2014.5.6 - 5.18 「手負いの熊」

何がしらの祭りの情景を撮っていて、
本人にドキュメントの意識って、
あったりするんですかと聞いたところ、
そうではなく、
何の見返りがあるわけではなく、
その祭りに注ぐ力強さと言うものを、
表せたらとのこと。
補足するならば、
そう言った衝動(行動)に突き動かすものはなにかと言った、
写真による探求なのかとも。

a 知人 b 2回

菊池真未

2014.3.25-3.30「消えていく前に」

女性のポートレート。
女性と男性の違いと言うのは、
ここ何年か意識することが多く、
女性は自己投影を、
自己も含め同性にする傾向があり、
それ(男には撮れない)は他の男の人にも言われたりする、
と、
作家自身言われている様なので、
男性側からの共通の印象としてあるのだろうと。
例えば自分が知り合いにポートレートを撮らしてと、
同性(男性)ばかりに声をかけたとしたら、
それはそれは違和感のあることだと思う。
男性、少なくとも自分は、
男性に自己投影もしなければ、
まして自分を被写体にもしないし、
自己投影をするとすれば写真行為に、
となり、
男性は同性を、
距離をとった他人として、
捉えるのではないかと思う。
今回の作品自体は、
他者との関係と言うものではなく、
作者が被写体に自分の虚像を写し込むように、
被写体もまた作者ないしカメラに虚像を、
つまりは自分の写し鏡としての視線がどこかにあるゆえに、
表情はどこか自身を見る、
波が抑えられた、
不思議な表情を見せるのではないかと。
あとはそういった傾向のなかでの、
他との差別化、
同じようなことをする人がいる中で、
個性はどの様に表れているのかと。
知り合いがこの展示に対し、
少女から大人の女性に、
そこより母へと変化する、
その変化に対する豊さと儚さを、
撮ろうとしてるのではないか、
と言っていて、
なるほどなぁと思ったのだけれど、
そうなるとこの作家は、
同世代の同性を撮るのか、
はたまた変化の境目に、
ある同性を被写体に選ぶのか、
そう言った選択によって、
個性が表れるのなら、
自分達とも根本は変わらないのかなぁ。
自分が同じ様な作品をつくるのが、
一番理解するには早いのだろうと思いつつ、
出来ないなぁと。

a 元々の面識なし b 初見

GRAF

2014.1.28(tue) - 2.9(sun) GRAF vol.07 写真の心臓へ

宮澤氏が撮った写真(焼き物)を、 本山氏が撮ると言う構造が、 写真を客観視することに繋がるとのこと。 グラフは本山氏、錦戸氏、松井氏、片山氏4名で運営している雑誌で、
最初はゲストの選び方が親いところに片寄っていないのか気になりはしたけれど、
寧ろその選びはこの活動の核心ではないように最近となり思う。
このグラフの良いと思う所は、
雑誌を媒体としつつも、展示を行い、
そして様々な場所をその会場として選んでいるところかと。
そこで知った情報なぞも、
どこかで反映させてもらえると、
なを良いなぁと。

a 顔見知り b 3回位

有元伸也

2014.1.14-1.26 ariphoto2014 vol.1

作者の意識としては、
スナップなのですか?
ポートレートなのですか?
と聞いてみたところ、
都市画像(言い回しはなんか違ったけれど)とのこと。
人を写しつつ、その背景に街を写し込めたらとのこと。
なるほどなぁと思いつつ、
引かずに人物はそのままの大きさなんだと、
なんだか不思議な印象。
映画だったらヒッチコックの目眩ましショットみたいだ。
また、
キッチユなものと言う目線で、
移ってる被写体を捉えてるとのこと。
自分の場合は人を撮っていつつ、
表情なり個性なんかにはひかれなく、
そこにいると言う点だけで充分なので、
見てる視線がまるで違うのだなぁと。

a 顔見知り b 13回

有元伸也

2013.4.16-4.28 「ariphoto2013 vol.2」

元々カッチリとしたポートレートを撮っていて、
ここ何年かは動きのあるスナップの要素を、
意識して取り込んでいる印象があって、
ワイドのレンズの落とし所も決まったのか、
安定してきてるかの印象。
元々のポートレートに対しては、
1点で観るのは良いけど、
連なりとしての展示としては、
自分にはピンと来なかったけれど、
スナップの色が増える中で、
上手なんだろなぁと思いつつ、
完全に落とし所が決まったら本人が悩んでしまいそうな。
でもまぁ、いずれにせよ、
今回のは良かった様な。
本当は可能性を強く感じさせ、
破綻してる写真を目指している様な気もするも、
上手さが邪魔をする、
みたいな感じかすら?
本人に聞こうかと思ったけれど、
人がワサワサいて面倒臭かったので話さずに帰る。
往々にしてこのパターンが多いので
本人がどう思っているか聞いたことがない。
追記
もう一回見に行ったときに少し話して、
ワイドレンズに変えたきっかけを聞いてみた所、
地震の影響もあるとのこと。
あとは今までの写真が思わせぶりなイメージの演出や、
どこか暗いイメージが作者の中ではある様で、
もっと素直に被写体を見せれたらという考えからとのこと。

a 顔見知り b 12回位

菱沼勇夫

2013.12.10(tue) - 12.22(sun)「Let Me Out 3」

危うさを感じない状態での、
性器なり血なりの表現は、
どこか白々しさを感じてしまうので、
それでは自分の狂気を表しましたという、
青臭い学生と変わらなくなってしまうのかと。
まだ自分の方が危うい考えをしているのではと思えてしまう。
余分なところを削って、
狂気がないならないでいいし、
性器なり血なりに興味があるのであれば、
もっと素直にやるか、
もっとしたたかに虚像を作りきってしまえばいいのにと思った。

a 顔見知り b 3回

諸星由美恵

2013.9.17- 9.22「土にかえれ」

どこかの隙なり脆さは見え隠れはするも、
他の人が出来ないことをさらりとやるところがあるのかなと。
今回は身内(祖母)の葬儀に伴う、
その周りの写真。
変に重々しい感じも説明的なクドさもなく、
すっと入っていけたし、
良い意味での余韻があったような。

a 知人 b 回

広瀬耕平

2015.2.10- 2.15「欲視録」

街中のスナップに、
表面に何らかのアナログ的な加工を施した作品。
街中の雑踏は、
作者自身にはこう見えるらしく、
一番しっくり来てるとのこと。
似た感じでの作品だと、
荒木さんの死画像が思い浮かぶのだけど、
それと比べると奥行きはなく、
一種の膜のような感じがして、
やり方を聞いてみると、
具体的には教えてくれなかったけど、
一回標準的に仕上げたネガに、
直接何らかの加工をし、
その上でプリントをするとのこと。
ある種の外界と自分との膜とも捉えられるから、
そう見えても良いのではとのこと。
それだったら硝子に加工して、
それを複写するのでも良いのでは? と聞くと、
それはアート的なアプローチなので、
やりたくはないらしい。
正直今回のにしても自分には、
アート的アプローチとは言わないけれど、
写真のアプローチには思えなくて、
(本人は焼き込みの延長と捉えている様) まぁ、
価値観なり線引きの部分として、
自分とは違うのだなぁと思うところと、
自分にはその何らかの加工は、
写真そのものを見るのの単なる邪魔にしかならなくて、
端的に言えば、
今回の写真は欲しくならないかなぁと。
そんな感じだった。

a 知り合い b 2回

広瀬耕平

2013.8.27 - 9.1 「欲視録」

距離にメリハリがないなぁと思っていたら、
どうも敢えて似たような距離にしているとのこと。
それだとするなら、
その中でのバリエーションなり、
徹底された部分が欲しいかなと。
幾何学的な部分でもよいし。

a 知人 b初見

關口寛人

2013.7.30 - 8.4 「babies」

人形の持つ可能性と言うのか、
架空でなを持ちうるものと言うのか、
人形を前に、生き生きとした表情を見せる被写体をみると、
なんとも人間は前向きにできているのだなぁと思う。

a 面識なし b 1回

グループ展

2013.6.4 - 6.16「PORTRATE」

毎年やっているメンバーのグループ展。
元々、人を撮る作家、撮らない作家、等、色々入り交じっての展示で、
いつもと違うスタンスでありながら、
その人らしさと言うものがでればと言うのがグループ展の傾向なのかと。
個展のときに気になっていたジョンサイパルの女性のポートレイトも、
一堂にまとめてしまうとピンと来なくなるような。
他の展示の中にまとめて入れた方が活きるのだろうなと。
そういう意味では個展のやり方が適切ではあったような。
あとは必然的に段組等を、空間的な制約に伴いせざるを得なく、
そういうのやるきっかけになるのかなと。
ただ、段組等展示方法に関して、
今回の展示の方が個展よりも良いと思える感じの人はなくて、
あとは良くも悪くもピリピリした緊張感みたいなものがないのが、
残念と言えば残念だったような。
出来るならば他のメンバーには負けないといった、
意気込みみたいなものがみたかった。
なんか楽しそうにやっている感じ。

a 知り合い及び顔見知り b  回

刑部信人 / 新名安奈 / 森嶋夕貴 / 中島ゆう子

2013.5.14- 5.26 「photogenic drawing」

中島ゆう子
写真にのせて、自己の暗喩をさせている様に見えて、
結局はその人間像は見えず。
個性をと叫ばれる中、
結局は他者との差別化を成し得てない現在の若者の様。

新名 安奈
支持体と被写体、それぞれに違う方向性より
物質感を促す様にした葉の写真、
複数の連想から浮び上げようとするイメージ、
別に構わないのだけれど、何がしたいのかよくわからない。

森嶋夕貴
子供の無知である前提が、
形式にともなう異様さを明確にさせる面(仏壇に手を合わせるその手など)
もあるけれど、多分そこらへんの意図はないんだろうなと。
むしろ、子供の無垢さや鋭さをという感じだけれど、
その強さに制作側が答えてはいなく、子供の強さばかりが目立つ。

形部信人
現実感のなさ、から、立ち上げようとするものは、
コミカルさなのか、楽しさなのか、なんとも軽い感じ。
塩の足りないブイヨンみたい。
単純に好みの問題の気もするけれど。
あとはどこかでみたイメージ、
自体は別にウィークポイントにはならないんだけど、
気をつけないと印象が散漫になる気がする。

a 面識なしb 初見

松井宏樹

2013.4.3-4.12「KITAKAZE」TOTEM POLE GALLERY

遠景もどこか遠くない、
不思議な距離感だなと思っていたら、
大体が50ミリらしい。
昔自分も使っていたけど、
こんな感じだったかなぁと。
多分他の要素もあるのだろうと。
全てを違和感なく並べるのも一つの実力なのだろうけど、
どこかもう少しデコボコさせても良いのかなぁと。
心地よいのだけど、どこか全体を引き締める苦味か辛味、塩気?色気?
みたいなのが加わるともっと良い様な気がする。

a 顔見知り b 1回位

ジョン サイパル

2015.1.13-1.25 「随写 vol. 9」

ここを面白いと思って撮ったのかなぁ、
と言うのが分かりやすすぎるのか、
はたまたそれに身を隠して、
もっと先があるのかは分からないけど、
何か一点一点が単調で、
一回見ると飽きてしまう様に、
自分には感じた。

a 顔見知り b 4回

ジョンサイパル

2013.4.2 - 4.14 「随写 vol. 4」

単純に長々やっているので、
上手なんだろなぁとは思いつつ、
それゆえ街中のスナップは本人が楽しみ過ぎている様で、
全然ひっかからない。
逆に引っ掛かってくるのは
何気ない女性のポートレイトだったりする。
構成の問題なのかすら?
なんか真に迫るものがない様に感じる。

a 顔見知り b 3回

コニカミノルタプラザ

佐久間元

2014.2.25-3.6「そこへゆけ」

DMがまた違った感じになるのかな?と思っていたら、
まぁ、そんなことはなく、
相変わらず作者らしい写真。
写真集がでたのをきっかけに、
改めてモノクロからカラーへ移行したことを意識して見たけれど、
スタンスは変わらず、
淡々と撮っているのだなと。
ただ、
木の額が変に洒落て見えて、
写真の内容とあってないような気が、
と、
知り合いにいってみたところ、
作者のキャラクターに対し、
泥臭いイメージが、
強すぎるんじゃないの?
とのこと。
額で引っ掛かりすぎて、
内容が全然入ってこなかったので、
もう一度見に行ってみた。
作者は明るく元気だなぁ、
と言うのと、
どこかシリアスにもコメディにもならない、
不思議なドタバタ劇の一幕のような印象。

a 知り合い b 回

八尋 伸

2014.2.25-3.6「信仰」

アクリルの回りに、
鍵を打って展示してあって、
何故わざわざこんなやり方をしているのかと思ってよくよく見てみたら、
アクリルとプリントが圧着はされてないようだった。
ただそれも展示内容の雰囲気を出すのに、
一役かってるようで、
上手くまとまってたと思う。
他にもこのやり方が合う展示というのがあるのかなと思った。
内容に関しては、
信仰と言うものに対する畏敬の様な、
厳かな緊張感があった。

a 面識なし b 初見

中藤毅彦

2014.2.25-3.6「STREET RAMBLER -Paris」

ある種ざらついたモノクロのプリントは、
どこか時代性を曖昧にするというか、
そこに追いやるような、
不思議な時の止めかたをしているような。
恐らくはここ一、二年の写真なのだけど、
同時代性と言うものを感じないし、
逆にこれから時間がたっても、
同じ見え方をしそうで、
それが良いのか悪いのか。
海外の写真だからということではないと思うのだけれど。
あとは何となく山を作るよりかは、
淡々とした印象を受けた。

a 知り合い b 回

須藤明子

2013.4.3-4.12「白く静かな空の下」

旅の風景を雪でつないだ、
という感じで、雪自体には意味がないのだろう。
こう言う公募展特有のテーマが必要となる縛りは、
割り切らなくてはいけないのだろうと。
特にコニカだし。
だからそう言うテーマを考えずにみると、
気になるのは数点あって、
これが続けてく中で他とまざると生きていくのかなと。
今回のだけで言うなら普通の上手な写真。
まとめ方が良くないですな。
敢えて言うならそう言った諸々のことを加味して、
自分のやりたい方向に持って行くしたたかさが欲しいですな。
単純に上手なんだなとは思う。

a 知人 b 2回

横井健治

2013.4.3-4.12「ウイグルで生きていく」

外国の生き生きとした人間模様を表した正当派のドキュメンタリー。
ドキュメンタリーとかは特に記録に徹していれば、
作家性などむしろなくて良い気がして、
そこらへんの割り切りがあるなら、
外国の生き生きとした情景が見えて良い展示だなと思う。
ただ、これに作家自身が目立ちたい、個性を出そうとすると、
くどくなって楽しめないかと思う。

a 面識なし b 1回

大石芳野

2013.4.3-4.12 「福島 FUKUSHIMA 土と生きる」

福島の原発周辺のルポルタージュ。
報道、という観点で切り取られたもので、
正直自分のやってることとは別世界。
話の持っていき方も、
今回はそう言う視点で、
という割り切りがないと、
どこかで他の要素もあるや、と、反感をもつかもしれない。
ただ、今回はあくまで作者の視点なり切り口であって、
そこらへんには文句はないし、報道ってそう言うもんだよなと。
ここら辺がちぐはぐになってるから、
震災以降の報道に対し不信感を持つ人がいたというのと、
そこらへんのメディアリテラシーを視聴者側に作れなかった
メディア側の怠慢とも言えるかと。

まぁ、それはさておいて、
展示の内容としては、
原発と共に生活する人たちの声を伝える。
要は具体的に想像出来る様、丁寧に切り取られている。
構図なり構成なり、きっちり公僕としてしっかりとしたお仕事。
作品としてどうこう言う気にはならず、
皆が幸せに過ごせる日がくると良いですねと。
自分たちは自分たちでやれることをやるのでと。

a 面識なし b 1回

高橋智史

2013.4.23-5.2 「トンレサップ-湖上の命-」

カンボジアのドキュメンタリー。
どこか画面構成をキレイにやり過ぎて、
逆に空気感みたいなものが喪失してしまっている様にも見える。
ただ、繰り返し取材する中での改善はどこにおいてすべきか等、
上手くなるのも必然なのかなぁ。
敢えて崩すものでもなしに。
ただ、やっぱり自分には優等生過ぎてつまらない。
なんか文句がない分、引っ掛かりも少ない。

a 面識なし b 1回

瀬頭順平

2013.4.23-5.2 「西海岸」

大阪横のビーチを撮った作品。
ドキュメンタリー、とかって、実際の光景の代替だと、
実際見に行った方が良いやという気になってしまうので、
作者が見えてこないのが良くないのか、なんなのか。

a 面識なし b 1回

菊池智子

2013.4.23-5.2 「I and I」

中国における性同一性障害の人が、
社会に対し自分と言うものをオープンにしていく傾向があるらしく、
その変化がここ何年かで顕著に見られるようになったらしい。
ドキュメンタリーにおいて、
画面上に下手に説明的な要素を入れ込むより、
むしろそう言った要素を省き、画としての強さを優先した方が、
伝えたいことが被写体の表情なり何らかの形で表され、
説得力を持つのかなと自分では解釈してるのだけど、
そうなると文章に対する役割は必然的に大きくなって行き、
単なるアイコンとして写真は機能する様な。
キャプションが全てについていると、
写真の連なりを見ると言う感じはなく、
自分たちとの違うようなとか思いながら。
内容に対する印象としては、
ドラッククイーンよりも京劇のような感じ。
変革期と言うところもあるのかもしれないけれど、
被写体となる人立ちの美意識の高さなのか、
どこか誇りを持っているような気高さを感じた。

a 面識なし b 1回

百々新

2013.4.23-5.2 「対岸」

作品制作において、
あまりに内容が拡散しないよう繋ぎとめておくために、
または自分の方向性の指針となるように、
タイトルなりテーマが存在する気がするのだけれど、
逆にテーマの為に作品を作ったりはしないような。
ドキュメンタリーとかになるとまた別なのだろうけれど。
基本的に自分とかは観賞側であるとき、
どこで撮られた作品だろうとスナップはスナップで、
テーマに対し興味が湧かないのだけれど、
そう言うのって作者の人はどう感じるのかなとか。
振り返り印象に残るのは緑や青の色彩、強い日差し。
国や土地を表す印象って、
色に良く出るんだなとか思った。

a 面識なし b 2回

Nikonサロン

渡辺眸

2014.8.26-9.8「1968 新宿」

昔は昔であっても、
新宿は新宿の地形をしていて、
変化をどこで実感するかと言えば、
人の身なりなり服装、
あとは看板の文字だったりする。
これが猫や動物を被写体に選んでいたら、
その変化の実感は、
もう少し大人しい感じがしただろうなぁと。
記録としての役割を、
その時代の当事者本人が提示する距離として、
30年から40年前が、
その発表として今一番適当な感じなのか、
はたまた時代の変革期として、
やはり70年代は特異なものだったのだろうか?
今撮影している写真が、
現在としてではなく、
過去としての味わいを持つのは、
今から何年後になるのかなぁと。
あと、
本の方が時代の熱量としては、
感じやすく、
落ち着いて一点一点見るのには、
展示の方が見やすかった様な。
重なる内容の中で、
そう言った切り分けをしてるのは、
上手だなぁと。

a 面識なし b 初見

石川博雄

2014.8.27-9.9 「風景の消息」

何気ない風景の中の、
何故か引かれるその一時一時を、
丁寧に撮っていて、
また、
間間に挟まる言葉も、
写真の説明と言うよりかは、
写真におけるスタンスとしてあり、
見ることの邪魔にもならず、
観客と作者との対話の一旦として、
あるのかなぁと。
押し付けがましくもなく、
私はこうですと誠実に。
作者と最後に少しだけ話す中で、
コの字型の空間にひかれる趣向なり傾向がありますね、
と言ったところ、
そう言った意識はなく、
ただ淡々と撮ってるのだけどねぇと言われ、
何やら蛇足的なことをいってしまったかなぁと。
自分が見る時の癖みたいなとこで、
画面の構成として、
主となる被写体の有無、
区分けとして、
何を最小の単位としてるのか、
(面なのかボコッとしたかたまりか、
線が軸なのかはたまた点か) それぞれの繋ぎかたは、
など、
多分自分がそうやって撮っているからなのだろうけど、
そうやって見たとき、
主となる印象に、
ある一定の平面性を感じて、
その左右の奥行き部分にもまた面を感じて、
そしてそのコの字の、
地面の部分が、
わりとぽこっと空間として空いている、
そんな傾向を感じて、
無意識下にせよ、
そう言うのにひかれるのかなぁと思ったのだけど、
言われた方は何がなんだかと言う、
感じだろうなぁと。
もしかしたら、
作者の傾向と言うより、
スクエアフォーマットの特徴かも知れないし。
あとは、
卑下もせず傲りもせず、
良い意味で完結出来ていると言うか、
どこにいても、
同じスタンスで、
写真をやっていくのだろうなぁと言う、
そんな感じがした。

a 顔見知り b 2回

全国高等学校総合文化祭写真展優秀作品

2014.9.2-9.8

大学時代は、
報道写真部なんて部活に入ってたのもあり、
王道的な組み方、
撮り方みたいなものがあって、
今回のもそんな感じで。
あとは、
個展ではなく、
一枚とした写真を最終的な着地点として、
見ているのかなぁと。
こう言った写真を撮る人が、
個展をやるようになると、
どうなるのかなぁと。
自分とかの写真と、
地続きにあるのか、
はたまた別のラインなのか。
そんなとこが気になった。

a 面識なし b 初見

大西 みつぐ

2014.6.18-7.1[放水路]

河川の回りをとりつつ、
写真はその説明としてではなく、
作者の視線なり興味、
何にひかれたかを
素直に表している。
この頃知り合いと話す中、
なにがしらの想定に近づけるのではなく、
偶発的な要素を、
テーマにて整理する、
と言う流れが、
自分達の写真の特徴ではないか、
と言うのがあって、
あくまで偶発的な事象を、
作者の視点で一つの流れにするわけで、
作者はメインではなく黒子で、
写真がメインなんだと言う、
そんな内容にしっくり来る部分がある。
もしなにがしらの想定、
こうあるべきだとその何かに、
近づけようとしたら、
こぼれ落ちてしまう写真と言うものがあるだろうし、
そのこぼれ落ちる写真を、
自分達は特に、
魅力的に感じるから、
この様なやり方をしているのかと思う。
だから河川周辺と言う条件はあっても、
この展示の写真の視点は伸びやかで、
作者本人の人柄が伺えるよう。
ただ、
気になったのは、
デジタル特有のシャープさで、
綺麗にありすぎて、
どこか魅力が損なわれているような。
眼鏡を作るときに、
度を上げすぎて、
2.0以上とか、
鮮明に見えすぎてしまい、
見るのが疲れてしまうような、
そんな感じが気になった。

a 知人 b 回

山下隆博

2014.5.20-5.26 [心の温度]

リフレクションと、
同じものの、
風景などの写真に挟まる、
人の肖像が、
Mでやっていたもの、
自分も含めた家族の記念写真みたいな距離感が、
丁度良いのかなぁと。
と言うのは、
男性に覆い被さられる女性の写真が、
どこかセットアップの様な感じが強く、
流れの前半に持ってこられると、
そのイメージを最後まで引きずってしまい、
自分には違和感として残った。
その意味で、
点数が少なくはあるものの、
Mの方が印象は強かったような。

a 知人 b 3回

石川文洋

2014.5.21-6.3 「戦争と平和・ベトナムの50年」

ベトナムをおったドキュメント、
の、
写真でありながら、
その背景を抜きにしても、
魅力的な写真が何枚もあった。
報道より始まり、
写真の視覚的意義の追求にともない、
報道における意義から距離をとり、
社会的意義を見いだそうと、
現代アートと結託しようとする、
と言うのが写真の流れとして、
または印象として、
自分の中ではあるのだけれど、
ただそのいつ何時も、
写真の印画として、
魅力的ではないといけない、
背景をなくしてもなを、
人を引き付けなくては、
意味がないとも思える。
だから自分が今回見たなかで、
惹かれた写真は、
良いと思うから良い写真で。
なにか根元的な部分を、
強く意識させられたような展示だった。

a 面識なし b 初見

金村 修

2014.4.23-5.6 [Ansel Adams stardust (You are not alone)]

壁を埋め尽くすようにピンで張られたロールプリントは、
ピン外の左右両端があまりくるくる丸まっている。
プリント自体も現像液を塗りたくったかのように、
荒々しいもので、
所々現像されていない部分もある。
柱には何がしらの文章が印字され、
どこかしら全体の象徴の様。
雑多に乱暴に切り取られたその行為が、
プリントにおいても表象しているかのようで、
統一感もあり心地良いなぁと。
あと、
知り合いのブログにて、
この良さを一般の人は分からないかもと、
書いてあったけど、
そこまで悲観するものではなく、
分かるのではないかなぁと、
個人的には思う。

a 面識なし b 2回

小松透

2014.4.15-4.28[EVENT HORIZON]

抽象的なイメージが、
大きく鮮明に伸ばされたプリントの上で、
具象、幾何学性として、
見えてくる、
そのサイズの必然は感じたけど、
内容としてはピンと来ない。
プリンターの能力のデモンストレーションと言うのが
あんな感じくらいだと良いかなと。
一般によりすぎてもなく、
主張も強すぎない感じで。

a 面識なし b 初見

藤岡亜弥

2014.2.12-2.25 「Life Studies」

時間を堆積するなかで、
何かが濃くなって行く、
重厚さがある様な印象があって、
それは過去を美化するような郷愁ではなく、
一体何なのだろうか考えながら見ていたら、
恐らくは乾くのとは違う、
余分な水分が抜ける、
熟成される感覚が近いのだろうと。
何らかのコンセプトと言うわけではなく、
ニューヨークでの何気ない日常が、
繰り返される中で、
濃く、
濃密に熟成されたかのような写真だった。
作家本人がいたので諸々その考えの課程を説明した上で、
構造としてハムみたい、
と言ったら笑ってた。
また、
こう言った感じの作品には、
フィルムはよく合っているなぁと。
デジタルの否定をするわけではなく特性として。

a 知り合い b

小野淳也

2014/2/18 -2/24 「相槌は残りの歳月に染みを付ける」

ドキュメントと言うよりは、
感傷的な心象風景に引っ張る部分が強く、
祖父との関係性と言うよりは、
イメージを作る装置として、
写真行為がある様に見えてしまった。
ただ、白々しくあるなかで、
立ち入れない領域なり、
関係もあるはずで、
そう言った展示とのギャップを
皮肉めいてやれていたら、
面白いのかと思うも、
そこまでのしたたかさは感じず。
真摯に祖父と向き合うならドキュメントに振った方が良いし、
そうやらないなら性格の悪い方向に明確に振った方が良いかと。
人の良い部分が空回りして見える。
撮影の動機なりキャプションは、
変に納得した分、
余計にそう思った。

a 知人 b 9回

秋元 麦踏

2014/2/18 -2/24 「川の字」

椅子の生活を基本とする、
そう言ったイメージが自分にはある、
外国の人が多いからか、
畳に腰を落とす姿が、
余計に低くいように思えた。
日本人はこの高さで身を休めるのだと、
逆に日本人の特徴を見た気がした。

a 面識なし b初見

林典子

2013.9.24-9.30「キルギスの誘拐結婚」

完全なドキュメントというスタンスの上で、
写真一枚一枚が印象として残ることがないのは、
意図として望ましいものなのか、はたまた、とか、考えていた。
否定的な意味ではなく、よく映画等で言われる、
話に入り込んだとき、カメラワーク等は気にならなくなる、
そんな状態だったのかと思うも、
その事象にたいし、作者はどうとらえているのか、
あとは、単純に自分たちとの相違を、
どう消化したら良いかの迷いからではあるのだが。
見たあとの印象は誘拐婚と言うものの、
異様さを、情報として突きつけられる所で、
目的とすれば取材した現実を認知し、問題意識を作ることだろうと思うので、
達せられているのだろうと。しかし写真には目が行かない。
要は写真が取材に対しての補助的な役割として機能しているように思え、
そこをどう捉えるべきかに迷う。

a 昔職場が一緒だった(違う部署) b 初見

原芳一

2013.7.26 - 8.4 「常世の虫」銀座ニコン

虫は風に逆らい飛ぶわけでもなく、
飛ぶよりよりかは”のる”といった方がいいのか、
されどどこか軽快さを有している気がして、
作品全編を通してそんな印象があった。
かといって虫が恵まれていたり
好き勝手生きているわけではないけれど。

a 顔見知り b 3回

小島 康敬

2013.6.5-6.18 [Coming back]

ドラマティック性や画面構成上の幾何学美などの否定なのか、
意図的なのかは分からないけれど、
半端と言うか、肩透しの印象を受ける
916でのモノクロとカラーを一画面に混在したのよりは、
全然こちらの方がよいけれど、
カタルシス的なもの、情感的なものは感じられず、
それも作者の意図の上にあるのかなと。

a 916にて1回会った位 b 3回

野村次郎

2013.6.4-6.17[峠]

峠の輪郭に位置するガードレール、
ならされた山道、山肌。
それぞれ経年変化の速度に相違があるも、
外的要因の少なさからか、時間は下に落ちる。
手が加わった分だけ、ガードレールの変化だけが逆に目立ち、
逆に山道、山肌はそれがそのままであったかの様に。
峠は街と街とをつなぐ通過点にして、
滞在することのなさ、
その痕跡の残らなさが叙情や哀愁を持つのだろうか?
なぞ思った。

a 面識なし b 2回

和田 悟志

2013.4.23-4.29 [すべてそこにある]

自分の地元と、それまで継続的に撮影していた、
野焼きの写真を混ぜ込んだ展示。
DMにも使われている野焼きの写真に強くひかれ、
けれど、野焼きの写真を中心には持って来てない感じがあった。
地元と関係なく制作された作品の意図が、
地震の影響で作者に意識する様になった地元に関連付けられ、
そのことが、作者の立場を曖昧にし、
作者にして、観賞者の様な。
そこらへんがまた作品にも表れると良いのかなと。
まぁ、単純に野焼きの写真がもっと見たかった。
端的に言えばそう言う印象。

a 知人 b 初見

吉原かおり

2013.4.23-4.29 「サヨナラと香辛料 」

Nikonぐらいの大きさの箱では
大きいプリントもさして違和感なかった。
ただ、フィルムスキャンをして出力したインクジェットプリントの
色の発色がどこか濁って見えて、なんだか印象がぼやけてしまう。
大きいプリントの出し所は、
絞った方がいんじゃないかと言う所は相変わらず感じる。

a 知人 b 14回位

平林達也

2013.4.9-4.22 霊気満山-高尾山 新宿 Nikonサロン

高尾山を撮影された、
丁寧に切り取られたモノクロの作品が並ぶ。
カットを折り重ねることによるイメージの拡大と言うよりは、
高尾山が持つ、被写体の良さを、
損なわぬ様丁寧に記録している様な。
表現者というよりかは、
適切な技術を持ち得た観察者という感じかと。
作者が被写体へ対して持つ畏敬の念をどこかに感じる様で、
ドラマチックさは感じず、
そう言う姿勢も大切なのかとは思いつつ、
少し物足りない感じもする。

a 顔見知り b 1回

ニッコールクラブ池袋支部写真展

2013.4.9-4.15 [憧憬] 新宿Nikonサロン

おそらくは先生がいるのだろうと仮定して、
生徒は何を得ているのかなぁと思いながらみていた。
多分見せ方も含め、技術的な向上、
は、
あるのだろうなと言うのと、
その枠と言うものがないまぜになっている様で、
個性なりそう言うものは影をひそめるのかなと。
プロなのかアマなのか曖昧な作家が、
この展示と同じものを出せるか、
と、
言えば、
出せないのもあるのだろうけれど、
少なくとも自分は、
それでもやはり突き詰め方に甘さは感じてしまうかなぁと。
こう言う中に、
自分達と同じようなスタンスの人がいた時、
看板に囚われ見逃したりしないか、
自分の中で公平さを保てているのか戒めるつもりだけど、
どうなのかすら。
とりあえず気になる人は今回のではいないかなぁ。

a 面識なし b 1回

ニエプス

中尾曜子

2013.10.29-11.4「0415」

12年間の、チェキで撮影したポートレート。
淡々とした日々が、
物質化されものを一同に目の当たりにすると、
写っている内容と同時に、
その時々の自分を思い起こしたり。
あとはこういうのは男性は出来ないなぁと。

a b 5回位

神田壮亮

2013.7.29-8.4「砂喰い競馬」

斬新だったり奇抜さは全然ないけど、
写真と競馬が本当に好きなんだなぁ、
と、思わせてくれる、地味ながら良質な展示。
こういう写真をとる人が人が知らないだけで沢山いるんだろう
なぁと、
か、
思った。

a 面識なし b 1回

鼻崎裕介

2013.3.29-4.7 『真瞬』ニエプス

単純に作家の視点云々ではなく、
諸々あまい。
こうしたら良くなるなぁと言うのが全部に感じて、
発展途上という感じ。
視点の新鮮さもない。

a 面識なし b 1回

エモンギャラリー

横浪修

2014.04.25-2014.5.30「1000 Children」

左肩に果物か野菜をのせた女の子は、
その果物等を落とさないようになのか、
はたまた写真を撮られ慣れてないからか、
はたまた意図的に緊張を保つかの様に、
子供らしさが抑えられ、
どこか大人びた部分を持った、
不思議な視線をしている。
作者の意図と自分の捉え方がどこまで合致しているのかは分からないけれど、
シンプルな仕掛けの中で、
何がしかの性質が見えてくる様な。
(ギャラリーにあった説明によれば、
果物を落とさぬ様に首を傾げることも、
仕掛けの大切な要素だそう)
あとは、
作家の背景となる部分は、
作品に多分に反映されると自分が思うなかで、
この作者のもととなるものは、
広告写真なのだろうなぁと。
広告写真として見ると、
好感が持てる。

a 面識なし b 初見

古賀絵里子

2013.4.5-4.30 「一山」 エモンギャラリー

長谷川さんの写真を見る眼を読んで以来、
ドキュメンタリーと、写真との関係が気になる中みていた。
お寺の中にひそむ映像印象を丁寧につむぐ感じがして、
具体的な主張足るものは存在しない。
あるとすれば作者の過ごした場所に対する印象、
それを示す作者の視点と言うこととなる。
お寺の中にある、
仏教的なアイコンを隠喩的に提示している様で、
その行為に対し、今の所意義を見出だすことは出来ない。
邪魔をしているのはドキュメントという概念なのだろうか?
絵面として綺麗だったり、
イメージの連なりで作り上げる印象も、
上手であれば上手なほど本質からは遠ざかる、
様な。
被写体を見栄えよく記録する、
という意味に置いて、
なんだか町の写真館の入口に飾られた写真を見た様。
作品としてはなんだか物足りない。

a 面識なし b 2回

G/Pギャラリー

天野祐子

2013.4.12-5.15 wedunknown|renown G/Pギャラリー

ベニヤにインクジェットプリントし、
木箱として提示してある作品。
箱にして、それで何の意味が?と、
不思議と思わないのは、
木にプリントした感じが好きなんだろなと容易に分かるからで、
で、これはどう言う風に展開して行くのだろう、
と、言う所で、いつも悩んでしまう。
まぁ、そこらへんは置いといて、
インクジェットが浸透して行く中で、
支持媒体の選択の幅が増えたことは良いのだろう。
上手くマッチしてるし。
インテリアとしたら欲しいかな、と、思うも、
作品として、は、どうだろと、
そこらへんがなんだか難しい。
まず見てもらうこと、
自分の手から離れることが大切だと思うのだけど、
その値段の価値は見出だせないから、
お金が余っていても買わないかなぁ、
この値段では。
作品の位置付けって何なんだろなぁと思いもした展示だった。

a 受付の人と顔見知り b 1回

Multi Plakatix

2013.5.21–6.20 Maximage Société Suisse

、貼り付け可能の印刷物のインクに圧を加え、
印刷とも生のペイントとも、見える作品。
軌跡とも言える枠と、技法(印刷と油画)が、
共にその枠組を微妙に揺らぐ感じがして好感が持てた。

a 受付の人と顔見知り b 1回

8/ ART GALLERY

岡本太郎

2013.4.10-4.29 8/ ART GALLERY/ Tomio Koyama Gallery

芸術は大衆に浸透してこそ価値がある、
との、作者の言葉に逆行して、
大衆の手に渡りそうにない値段、
は、
現状に対する皮肉なのか、
それともヒカリエで多く見られることに対し、
肯定と見ているのか、
そこらへんのギャラリーの姿勢がよく分からない。
作品の内容に対し踏み込まないのは、
社会の中でどう扱われるべきか
という要素を含めてのものではないかなと思うので、
これと言った感想はなく。

a 面識なし b 1回(明日への神話ぐらい)

ラットホールギャラリー

グレン・ライゴン「Glenn Ligon」

2013.3.29- 6.30 ラットホールギャラリー

コールタール(よりは大分細かい)にも似た、
質感で描かれた、何らかの文章、
で、あることは分かるものの、
殆ど読むことは出来ず。
それでもなを、
文字と言う存在感は強くある。
すべての事象が文字に集約される今日の状況が、
自分達の中に刷り込まれているからだろう。
ラットホールはファッションをやっているからか
はたまた作者の意図なのかは分からないけれど、
空間の構成だけ見ても見ごたえがあるような。
また、
展示方法に頼ることのない作品自体の自立、
存在感というものがあってのことだろうと。

a ギャラリーに大体行っている。 b 1回

hpgrp GALLERY

Rich

2013.03.29-2013.04.21「Story3…」 hpgrp GALLERY

写真を使ってはいるものの、
現実とのかかわりはまったく感じられず、
おそらくはファンタジーとしての位置づけなのだろうと。
精巧な絵としてみてみても、
自分がひかれる要素はなかった。

a 面識なし b 1回

鈴木一成

2013.2.28-4.23「PURO」IOSSELLIANI

一見すると何もプリントされていない様な
雪の風景が1回目だったのに対し、
2回目の今回はハイキーに飛んだ風景が、
模様として描かれているよう。
1回目の大胆さが、
今回のではありきたりの印象になってしまっている様で残念。

a 知人 b 2回

アイデムフォトギャラリー「シリウス」

風野響

2013.4.11-2013.04.17 「ザ・パーキング」
アイデムフォトギャラリー「シリウス」

2つの写真グループが合同で
”風野響”と言う架空の写真家の作品として出している展示。
皆駐車場を撮っているのだけれど、
変に狙ったりしていない感じが上手く言っている感じで、
中々楽しめたような。
あとはこういうのは全体をまとめる人によって、
良くも悪くもなるから、頑張ったんだなぁと。
複数人で撮っているから当然と言えば当然なんだけど、
視点が変に固執しないのが心地よく、
あとは本人たちが変に気負わず楽しんでいるのだろうと。
のびのびしてる感じがした。

a 知人(安掛・水出) b 1回

Gallery916

Charlotte Dumas

2014.11.7-12.28「ANIMA」

頭部から胴体にかけてを、
写し取られた馬の写真は、
どこか絵画を思わせる感じがして、
何があるではなく、
(まぁ、
ひたすら馬がいるのだけど) その細部なり模様にも眼がいき、
そう言った写真を観たあと、
その見方を引きずったまま見る、
映像が何とも面白かった。
僅かながらに動く肉体の躍動と言うか、
細かく執拗に見ていた質感に、
動的な奥行が加わるようで、
逆に動画をいきなり見たら、
動きの少ない、
良くわからない映像に、
見えたかもしれないので、
そう言った所とか構成が上手だなぁと言うのと、
辛抱つらくきっちり仕上げる、
心臓の強さがあるなぁと。

a ギャラリーの受付の人と顔見知り b 初見

野口里佳

2014.9.27-11.5「父のアルバム」

父が残した写真と、
父が残したカメラでの写真。
人に見せる前提のない家族写真が、
作品として提示されることは、
時間をおいて度々あって、
自分が直接見たものでは、
中尾曜子さんの家族のアルバムから始まり、
森澤勇さんの軽井沢時代、
星玄人さんのcloset、
あとは自分は見てないけど、
プレイスMでやっている~家のアルバム何かも含まれるだろうし、
意識にあるかないかは別にして、
311の地震以降の、
写真への再考として、
目に触れることも増えたのかと。
強く意識してはないだろうけど、
全く影響がなかったと言うこともなかろうし、
全く影響がなかったにしろ (特にM以外の上記三つの展示は、
地震の前に発表されたり、
撮影されたものだし)、
見る側に、
そう言ったことを、
意識させる部分はあるのかと思う。
今回の展示では、
父の写真と共に展示された作品は、
父の残したカメラで撮ったもので、
どこかしら父の写真への思い、
手紙で言う返信の様に見えた。
ただ等価ではなく、
同じことをなぞるわけではなく、
父の視線に重ねながら、
そこに帯びたものが何かを探すように、
光を見つめるような、
写真家としての日常を写すような。
入り口の説明の中で、
父親が撮った写真は作品と言えるのかと言う記述があったけれど、
そこはいささか皮肉を無意識的に含んでいる気がして、
作品か否かで捉えるとしてしまうならば、
父が撮った素朴な写真本来の良さではなく、
作家が提示したと言う要素により、
作品には昇華されるのだろうし、
それは作者の望むところではないのではないかと。
この父と同じ様に、
それぞれの家族に、
それぞれの写真があり、
個人に留まらず魅力的なものであることに、
あやをつけてしまうような。
要は作品と捉えてしまうのであれば、
家族を撮った多くの写真の中での、
優劣が出てきてしまいそうで、
それはなんとも野暮ではないかなぁと、
そうなるとやはり発表する行為が、
作品として捉えられると言うことの方が、
収まりとしては良い訳で、
作品か否かは言ってはいけないことではなかったのかなぁと。
単純に父親が撮っていた写真が、
とにもかくにも魅力的だった。
それは素朴さが素朴なままに表れていたからで、
叶うなら、
これを見た観客が、
自らの家族が残した写真を、
誇りに思って欲しいなぁと、
そんな展示。

a 面識なし b 2回

矢島 祐介

2013.8.30 - 9.21「PORTRAIT」

どこか感情と感情の間に出来た隙間を写しているような。
感情がないわけではないが、
何も考えていないような感じが。
話を聞いてみたところ、
被写体に対しては徹底して指示をするとのこと。
おそらくは表情に対して求めるところは近いのかもしれないけれど、
アプローチがまったく違うのと、
自分は指示をしたら絶対出来ないと思うので、
そういったところが新鮮だった。

a 顔見知り b 2回

三好耕三

2013.8.30-10.12「1972~」

あまりしっかりと見たことがなく、
桜のイメージが強かったのだけど、
それはあくまでも一部のイメージだったのだなぁと痛感させられた。
幾何学的な画面構成はありつつも、
それがうるさくはなく、装飾として着飾るに留めた作品は見ていて心地よく、
強いて言うなら、大判による際密な描写が、本当に必要なのかと気になった。
きれいすぎて、どこか被写体の温度を喪失させているような。
映画のセットみたいになっている印象もちらほら。
まぁ、あくまでも、強いて言うならという感じだけど。

a 顔見知り b 2回

小島康隆

2013.6.1-6.15 Coming back

東京のカラーとニューヨークのモノクロを、
画面中央を境に左右に並列させた写真。
東京を自分が見慣れ過ぎているのか、
知っている街と、知らない街をくっつけたという印象の先までは見えず、
これなら額ごとに分けた方が見やすいのではないかなぁと。
方法が先走ってる様で、写真に入り込めない。
Nikonでもやる様なので、そちらで落ち着いて見てみようと。
恐らくは今回限りのやり方かと思うし。

a ギャラリーの人と顔見知り b 2回位

上田義彦

2013.3.22-5.25 Mr.river Gallery916

意図、
を、
違えていると言う前提で読んでもらえれば。
上田義彦氏の、Mr.Riverという展示をみた。
大小並ぶ作品は、
揺らぐ様に、ピントが外れているのが大半に、
その作品同士も遠く離れている。
白い壁と、森の情景がそこにはあって、
一度回ってみる時は近すぎて見えなかったが、
そのくぼみは同じ場所を連ねて描いている。
おそらくは同じ場所を、
移動する為の僅かな時間を違え、
移動した記録に、
時間と言うものを強く意識させられた。
つまりはこの展示は川を見ているのだ。
川にうつる揺らぎを、
その記録を、額の中におさめていて、
それゆえにふとした時、見えるともない実像を、
鮮烈に写しもし、そしてその 白(白い壁)は、
記録されることのなかった時間の様で。
キャプションの中で、
彼は写真家であるとの記述があった。
彼、は、真摯な姿勢で、
驕ることなく森と対峙した様に思える。
会場に飾られた写真はその森の全容ではなく、
すいくあげた川の虚像で、
虚像なれど伝えもする、
上田氏の功績と言えよう。
冒頭に書いた様、
おそらく意図は違う。
違えどその拡がりを持つ可能性は、
肯定すべき価値だろう。
単一に解を導くのが作品ではない。
幾通りもの解(価値)を派生させるものを見たく思う。
その意味で、
本ではなく会場にてこの作品に出会えたことは
幸福と言えよう。

a ギャラリー受付の人が顔見知り b 2回

PLACE M

藤岡亜弥

2014.11.10-11.16「Life Studies」

Nikonでやった同時期に撮影されたモノクロと、
Nikonでも展示したカラーのを混ぜて展示したもの。
光の光線が現像のムラなのか、
作者当人も原因は分からないらしいのだけど、
入っていた。
失敗だと思ってずっと見返すことのなかったネガを、
今回の展示をきっかけに見返し、
プリントしたとのこと。
失敗しようと否応なく残るアナログの特製と、
時間の経過により、
そう言ったムラよりも、
記録性の強さがますといった感じたろうか? 偶発性は肯定した方が面白いなぁと。
やりすぎは困るけど。

a 知り合い b 5回位

小島康敬

2014.11.10-11.16「NEW YORK」

段組が良くあってる様な印象。
普通に並べても、
それはそれでいんだろうけど。

a 一度だけ少し話したような b 4回位

坂本謙一

2014.8.11-8.17「目嘘く(めぶく)」

濃く彩度の上げた様なコントラストの高い写真は、
何かこうおどろおどろしい雰囲気はあって、
内容も前半は原発に絡んでるのかなぁという内容がちらほらあり、
ただ意図的なのか、
子供の写真も多く、
子供の未来と原発と、
と言うことなのかすら?
と。
痛々しさは、
逆に人工的な(彩度のたかさとか)が、
逆に中和してるようで、
日常と言うものがあって、
そこに作者の意図としての暗さを、
時代の陰的なものを、
フィルターとして、
かけていると言うことかすら? 結婚式の写真とかは、
暗さの中にあって良いなぁと思いつつ、
前半の色のきつさを最後まで引きずった様な。
人の配置とか一点一点の、
特に複数被写体がいるのとかは好きだったけど。

a 知り合い b 初見

佐藤充

2014.8.11-8.17「昨日」

電車の中での乗客、
街中での人々、
タイトルになぞらえて言うなら、
共々昨日から前のことを見てるようで、
覇気がない。
一人ぼやんと焦点が合わないようで、
これから先のことを思い描く様な感じがしたけど。
あとは、
近いところもあり、
瀬戸さんのサイレントモードと比べられる部分は、
多分にあるだろうし、
そこに勝つ気はあるんだろうか?
と言うのは疑問として。

a 顔見知り b 2回位

村越としや

2014.5.13-5.25 「リフレクション DIVISION-2/Interference」

徹底して建物の線が全面に出ているような印象で、
展示方法も何段がけにもして、
一面の塊となっているので流れで見せる感じではないのかなと。
いったい何を意図しているのかも良くわからず、
魅力も感じないなぁ。
流れの中でみると活きてきたりもするのだろうけど、
自分にはどうとも。
強いて言うなら、
グループ展での会場の、
バランスでやってるのかなぁとも。

a 知人 b 22回位

山下隆博

2014.5.13-5.25 「リフレクション DIVISION-2/Interference」

家族のポートレート、
北海道の風景、
家の中の風景、
淡々としているなかで、
ある種の緊張感を生んでいて、
それは抑制された故だろうと。
雪原?の様なイメージカットは、
一点ずつ見るとくどくもありそうなのに、
流れの中では、
丁度良く見える。

a 知人 b 3回

早川康文

2014.2.3-2.9「ワイルド・タウン2」

ストリートスナップから、
題材を町の景観へと変えた2回目。
1回目は見逃してしまったけれど。
三点くらい、こんなことやりたいのかなぁと思うカットがあったのだけど、
それ以外がまだ若干平凡さを感じる。
もとよりこの作品において、
作家の立ち位置は、
どこなのだろうと。
都市に住むものなのだろうか?
都市を見るものなのだろうか?
まだまだ良い意味で煮詰まってない感じなので、
これからの変遷で思いもかけない方向に進んで欲しいもの。

a 知り合い b 回

濱浦しゅう

2014.1.13-1.19「ハヤチネ」

プリントに少し乾いた様な、
不穏な空気を持つ印象を、
この作家に対し、
自分は持っているけれど、
今回の雪の光景では、
どこかの裏返りがあるようで、
その点が良かったのかと。
ただ、
まだまとまりきれてない感じもあり、
平凡に見えるカットもちらほらとあった。
純度は高まりすぎると脆く、
退屈になってしまうけれど、
その破綻の直前が楽しみな感じが。
さてはて。

a 知人 b 回

原 芳一

2013/08/19-08/25 「天使見た街」

日本の踊り子を撮りきった感があったとき、 作者はリオのカーニバルの映像を見て、リオに。
何故常世の虫から、と、その展開を不思議に思っていたので、
踊り子という捉え方にはどこか強く納得させられたような。
ただ僕にはまだ見えないところがあるのかなと。

a 顔見知り b 6回位

阿部淳

2013.07.29-08.04 「市民・黒白ノート・黒白ノート2」

東京で多い傾向として、
広い画面のなかで、
その緩さを何かしらの緊張感で埋めていくのに対し、
作家は被写体によって行き、
せまばる画角のなかに広がりを持たせるような。
自分がもしあの距離で撮影したらだったら、
向かった被写体だけにしか眼が行かなくなってしまいそうな。
何か職人芸を見せられた感じがした。

a 面識なし b 1回

大庭佐知子

2013.4.22-4.28 「淡路島(1)月月火水木金金 PLACE M / M2

この頃はなんだかドキュメンタリーに対し、
どう見て言いか分からないところもあるのだけれど、
素直な感想として正統派の力強い作品という印象。
画としての強さが、
被写体に依存することなくあり、
バランスがいいのかなと。
主張が強すぎない点も含めて。

a 面識なし b 1回

児玉ギャラリー

佐藤 克久

2013.6.1-7.6 「さひつかうとさ」

色を意識する作家なのかなと言うのと、
また、一つの色が均等ではなく、人が描いたという痕跡があるのが印象に残った。
白地のキャンパスの端の4辺に別々の色が置かれた作品に魅かれた。

a 受付の人と顔見知り b 初見

2013.4.13-5.18 杉本博司キュレーション
「メメント・モリ ~愛と死を見つめて~」
大久保薫、高田冬彦、鷹取雅一、田中秀和、吉田純也

合同展の全体の感想
エロスとタナトスは刹那と永遠に呼応し、
あがなえず求める、その視点を軸にまとめられた展示には、
ゆうれいに水中をたゆたう女性や(ARATANIURANO)、
解剖学の資料を思わせる絵画や写真、
劣悪にも人間臭さも感じ得る映像作品(児玉ギャラリー)と、
様々な内容の展示がならぶ。
ふと感じるのは、人はいつ最もきれいに映える、
または魅力的に写るのであろうかと言う所で、
それは服より下着を見せ、裸体となり、
皮膚を破り、内蔵をあらわとした死は、
眼を覆いたくなるものだけれど、
そこに生命を喚起させるからこそという気にもなる。
土に還えった屍は、
生前を呼応させないが故に見過ごしも出来よう感じが。
個人的には皮膚、の、曲線と言うものが、
着飾る上での最良の服と思っているので、
裸体と言うものはきれいなものと言う認識がある。
その一方で長沢節氏によって書かれた愛の衣装
(裸体は醜く猥褻であるがしかし、
その裸体に美しく魅せられることを仮定した時、
それは愛なのだと言う内容・意訳)
にも共感する部分も多く、
造形と言う観点に収まるものではないのであろうと。
上品下品というのであるならば、
生々しさは、下品となり、
布に隠すのが上品と言うことでもあろう。
ただ、感情を揺り動かすことのないものは、
美と言う観点からは外れもしよう。
血を拭ったであろうガーゼの展示(山本現代)をみながら、
引かれた猫の血が道路の白線に鮮烈な色を落とした光景を思い出した。
その赤い彩色は刹那に、
余りに痛々しく自分の中には残る。
残るは記憶の中で、
それは生が尊いのが、
変化にとび、消えゆくからだろう。
知り合いと話す中で、
永遠は言葉の意味に逆行し、
一瞬の中に実感すると言った。
また美もそうなのだろう。 児玉ギャラリーでは大久保薫、高田冬彦、
鷹取雅一、田中秀和、吉田純也が展示されていた。
高田冬彦…東京ワンダーサイトで一回見たことはあったのだけど、
敢えて露悪的なチープな感じで、
ただその先に自分の気付かないものを見ているのだろうなと。
今回初めてみる作品では臀部の穴と、
食虫植物を重ね合わせた作品と、
身体の関節に人形の顔をつけたものがあり、
前者はクラッシックに合わせ身体の動きによってヒダが開かれ、
後者も人形同士が口付けをしようとする過程で、
身体的なストレスが伴うもの(変な体勢になるから)。
安直に考えれば、後者は全ての事象にある快楽と、
その背後にあるストレスのイメージを、
身体に置き換え提示してあるのだろうけれど、
分かりやすいのはよいとして、
見ていて気持ち良いもの、少なくとも爽やかではなくて、
そこらへんが気になるなら自分は見ない方が良いのか、
はたまたその嫌悪も作者の意図に含まれるのだろうか?
と言うより、前提の見解が違えている様な気もする。
身体的なイメージに置き換える、
分かり易さと、否応ない力強さは感じるながら。 途中

山本現代

できやよい

2015.1.17-2.14「旅行♪」

ペイントの方は、
様々なモチーフに描いたのは、
何やら女の子女の子している感じがして自分には相容れないところが強かったけど、
キャンバスに描いた作品は、
何とも見ごたえがあって良かった。
白と黒のグラデーション模様のには、
パンダが混ざってたり、
多分また改めて見たときに気づく部分もあるのだろうし、
飽きが来ない感じで。
一方で写真の方はひどいの一言で、
何やら昔から写真をやってる人を馬鹿にしてる様な印象が。
まぁ、
そんな気はないのだろうけど、
現代美術におけるこう言う所って、
元々写真をやってる自分には、
本当に嫌だなぁと。
他人の土壌に、
土足でどかどかと入らないで欲しいなぁとか思う。
現代美術の中で、
写真を使った作品と言うことでやってる分には、
どうでも良いのだけど。

a 面識なし b 所見

天才ハイスクール

2013.6.1-6.29 天才ハイスクール

メディアの副産物(雑誌のグラビアなど)や、
日常に入り込む様なパフォーマンス(コンビニでトイレを借りる映像、
風船を子どもに渡そうとしてわざとはなして空に飛ばす映像作品など)を媒介に、
非現実的な世界を作りながらも、
どこか作品世界と現実とに接点を持とうとさせていて、
そういったものは、どう言う訳か技巧的なものを放棄しがちになる様な。
要はラフな作りを好む傾向があり、それは既成の概念を壊すとも違い、
また、観客に、自分でも出来るのではと思わせることによる、自発性の誘導なのか?
むしろ勢いとのりだけの運動を誘発させる弊害の方に眼が言ってしまうのだが。
ただ、それは、自分には作者の意図に辿り着けないからなのか、
よく分からなくなり、
エレベーターに書いてあった、
花を踏み付けてしまっていることと、思えなくもない。
その後、
パソコンの不具合で見れなかった、
企画者の説明をみると美学校の生徒たちのグループ展だったよう。
そのため上記は予備知識なく見た感想となる。

a 面識なし b 初見

2013.4.13-5.18 杉本博司キュレーション
「メメント・モリ ~愛と死を見つめて~」
小谷元彦、ヘルマン・ニッチ、ヤノベケンジ、ビートたけし

ヘルマン・ニッチ…説明を見なかったので、
写っている内容がよく分からないのだけれど、
人間の臓器みたいなものから血が吹き出ているような写真と、
血が付着したガーゼやカットバンみたいなものが額装されていた。
血は特にその経年変化みたいなものが如実で、
多くの人がイメージする赤い色は、
生きているがゆえに赤いものなのだなと。
そして人工的に作った赤い血の色は、
なんとも似て非なる赤なんだろうなと思った。
ビートたけし…デュシャン的な装置として捉えられるらしいのだけれど、
今の所自分にはよく分からず。
いかようにもとれるのかもしれないけれど、
デュシャンの泉とかは、
なんとなく造形として、意味をなくしたときに見える優麗さと、
その皮肉は見たことはないけれどカッコいいなぁと思うのに対し、
透明な跳び箱は意味をむしろ示す所からの、
また捨てるような感じがするような。
もとから自分が知っていらばまた違ったのかなと。
あとは造形的には自分は惹かれないかなと。
ヤノベケンジ…鉞が頭に突き刺さる、現実感のないコミカルさが、
いつか怖く感じるのかなと。よく分からず。
小谷元彦…施工途中だったのだけれど、
手が赤く染まった白い服を着た女の子の写真による連作。
少女性と処女性と、その危うさなのかなと、
まったくの予備知識がないと思ってしまうのだけれど、
さすがに最低限の知識はあった方が見誤らないのかなと、
森美の展示前のインタビューを参照。
ファントムという言葉に集約された、
不可視ながら存在し、肉体と脳との(思考と身体ということなのかすら?)分離、
自分が認めたくない自分自身をあらわすものとのこと。
読んでみたのがよかったのか悪かったのかは分からないけれど、
純粋無垢なものが、
そのままではいれないような、
見る側の内面を現す映し鏡としてあるのかなという印象。

ARATANIURANO

横山裕一

2013.6.1-7.6 「ルームと世界地図」

デザイン的な技法だけかと思っていたら、
油画などもあり、その油画がなんとも良かった。
正円や直線の組み合わせた飛行機が飛ぶ絵の中で、
色が少しくすんだ様な叙情の印象を与える。
形と色とを別個に意識し構成を考えるのか、
はたまたそれは同時平行に形成されているのかは分からないけれど、
油画以外の漫画の様な技法を使ったモノクロの絵も会場に多数あったからか、
色と形とを分けてそれぞれを考えたりしていた。

a 面識なし b 初見

2013.4.13-5.18 杉本博司キュレーション
「メメント・モリ ~愛と死を見つめて~」
高嶺格

水の中をたゆたう裸の女性の映像。
水と言うのは、重力からの開放を少しだけ促すのと、
また、写されるのは光のコントラストと、気泡と女性のみで、
どこか象徴的にみえる。
また、気泡(空気)自体、水中で初めて可視化されうるもので、
水と言う装置により、また、
光によって身体に抑揚をもたらしてもいて、
通常可視化されえぬ何かを、
水中で具現を用いた象徴として表すと言うことなのかと。
まぁ、ごちゃごちゃかいているけど、
単純に綺麗だなと。見ていて飽きなかった。

LONDON GALLERY

六本木展示 6月

入口すぐの器と、水口が自分には極めて魅力的に思えた。
遠く過去のものなのに、水口はポップで現代的。

a 面識なし b 1回

2013.4.13-5.18 杉本博司キュレーション
「メメント・モリ ~愛と死を見つめて~」白金
「※展覧会名は確認中」六本木

白金の方では、鹿の骨を削り出した葉の彫刻。
前回は花弁だったのだけれど、
骨の白さの際立ち方と言うものは、
普段あまり意識しないけれど、
血液の赤さと同等にどこか重みを有しているようで、
それは無自覚とはいえ、
確かに自分たちの中に備わっている色彩のイメージとしてあるのかと。
思い出すのは祖父母の葬式で骨を拾ったとき位なのかと。
六本木では掛け軸に杉本氏の松の写真が張ってあったものが展示され、
屏風もそうだけれど、掛け軸、巻物等、
日本の古典的な展示方法の色あせぬ新鮮さといったものを感じた。
写真のスタンドーな額装を自分が基準にしているところだけれど、
布を使い文字を挿入しても違和感なく住居に馴染むこの方法を、
自分で創造しようとしても、
おそらくは思いつきはしないだろうと。
様々な展示方法を創意工夫する中での、
先人たちが導き出したものとして自分たちの方法と比べたとき、
洗練のされ方も含め、分かりやすくすごいなとか思う。
まぁ自分たちはそれを使ってもいいと言う意味で、
知的財産的に引き継がれたものだろうとか。
写真でやると嫌がられもする気はするけれど。

OTA FINE ARTS

南隆雄・湊茉莉・八嶋有司

2013.5.17-7.6 振る舞いモデル

抑圧されたがゆえの、空間における緊張感があって、
きっと過剰に表現されたのならこうは行かなかろうと。
ネオン管で表現された線、
虫眼鏡を利用した電球の影、
壁面に描かれた筆跡、
ギャラリーの空間内で、
干渉するかしないかのその距離感が心地よい感じがした。

a 面識なし b 1回

サスキア・オルドウォーバース

2013.3.19-4.27≪Pareidolia≫

面白いドキュメンタリーを観た様な気になっていたら、
映像と語りのリンクは殆どなくて
(要は説明的な映像は一切なくて)、
ドキュメンタリーと言うよりは朗読を聞いたが近いのか、
またはヴェンダースの東京画に似た後味が。
創作物を写真に落し込み作品とする人もいたりするけれど、
これはなんだったんだろう?
映像作品てもう一つよく分からない。

TAKA ISHII galley
Photography / Film

津田直

2014.6.28–7.26「REBORN (Scene 2) ― Platinum Print Series」

綺麗に整った構図の、
何がしらの建物の入り口に立つ子供の写真が、
何か違和感が強くて、
整いすぎてつまらないと言うか。
自分だったら選ばないなぁと言うのと、
敢えて選んでいるなら、
その理由が良く分からないなぁと、
そんなところで、
距離を感じた展示。

a 面識なし b 2回

荒木経惟

2013.8.24-9.21「東京ブルース 1977」

見えないものを表すには、極力抑えた、
スタンダードなものがよい、と、似たようなことは色んな人が言っているけれど、
例えば18%グレーが一番色の斑が目立ったり、
スタンダードナンバーが、歌手の力量の差を明確にしたり。
今回の男と女ないし、女性のヌードは、一般的かは微妙だけれど、
作者の素の良さを表していたような。
ベットリと昭和の時代をまとい、その中で今と変わらない部分も感じた。
そしてその変わらない部分こそが、この作家の良さなのかと思った。

a 面識なし b 9回位

荒木経惟

2013.5.25–6.22「色(エロ)女(リアル)」

相変わらずの荒木さんのヌードと言う感じ。

a 面識なし b 8回位

細江英公

2013.5.17 –6.15「人間ロダン」

自分は常々、写真は創造物の記録と思っているのだけれど、
今回はその意味合いが分かりやすく表象しているような。
ただ、作家自身は彫刻としてではなく、
人としてのロダンをあらわそうとしていたとのこと。
つまりはロダンを見た観客側の視線を、
彫刻をみてその作家に思いをはせる行為を、
作品として定着させようと言うことなのだろうと。
ただ、写真としてはもう一つ魅力を感じられない。

a 面識なし b 3回位

村越としや

2013.4.12-5.11 「木立を抜けて」

2009年の作品。
本人に良い意味でもっと崩れたら良いねと言うと、
逆に今はこうは撮れない気がするとのこと。
35フォーマットから、
中判となる初期の6×6フォーマットのカットが中心らしく、
この頃の作品は画面構成をがちがちに作っていたとのこと。
雑誌で他の写真家さんが村越さんの写真について、
”震災以降彼の写真は違って見えた。
それは彼の写真が変わったのではなく、
見る側が変わったのだ”という旨のことを言っていて、
確かにそれはそうなのかなと。
また、村越さん自身、”同じことをしている様で、
長い時間のあと改めて比べた時、
その違いに気付く形が望ましい”と言ってもいて、
そう言うスタンスは理解しつつも、
伸び白と言うものを常に作品の中に、
感じさせるべきなのだろうと。
同じ様な印象を抱かせるのは、
やはり宜しくないかと。
如何、ここ何年かでの彼のメディアにおける状況の変化が大きい中で、
作品における変化もありありと感じたい所で、
その変化を能動的に提示するのも作家の役割であろうと。
逆を言えばそこらへんを提示出来ないのであれば、
興味は失うかなと、状況はどうであろうと、一個人の印象であれば。
長いスタンスで見ないと分からない所は確かにある訳で、
しばらく見ないほうが良いのかなとも思った。

a 知人 b 19回位

WAKO WORKS OF ART

2013.5.18-6.29"Gallery Show"

ガラスについた色の様なものが、
風景を下地に可視化される様な、
おくゆかしさみたいな感じ。
色が色としてではなく、
背景に風景を携えてるがゆえに鮮烈な印象があった。

a 面識なしb 1回

リュック・タイマンス/カーラ・アロチャ & ステファン・スヒラーネン

2013.3.23-5.2「The Spill」/"「Sunday」

カップからこぼれたコーヒーの絵と、
ガラスが全面に張られたイスとテーブル。
鏡が現実を写していると仮定して、
机や椅子の中に潜り込む様に世界が拡がるとしたら、
とか、考えたけれど、
まぁ、そう言うんじゃないよなと。
でも境界線的なのはあるのかなぁと。
ガラスは平面で極端に存在感を消すなぁと。

a 面識なしb 1回

MISA SHIN GALLERY

小沢剛

2013.3.19 - 5.2 「できるかな Can You Do It? 」

ベジタブルウエポンですら、つい最近までコンセプトをしらず、
これはいったい何なんだろうとか思っていたけれど、
よくよく聞いて見ると(コンセプトを読んでみると)
誰にでも分かりやすい作品の提示をしているのだなと。
今回の作品は一度不要になった布や紙切れ等の物質を、
もう一度作品として昇華することによって、
その価値を再考すると言う流れが、
どこか石内さんのマザースと方向性はどこかで繋がるのかなと思いつつ、
実際の作品は全然別なものとなるなぁと。
難しいことを難しいままにやっては、
結局人には届かないという面はある気がして、
楽しげにわいわいやっている部分を、
作者はひどく冷静に見ているような気がした。

a 面識なし b 1回

東京都写真美術館

グループ展

2013.12.7-1.26路上から世界を変えていく
日本の新進作家 vol.12

林氏、鍛冶谷氏はまだ分かるのだけれど、
何故いまさら大森氏や糸崎氏を、
新進作家として取り上げるのだろうと言うのが理解できなかった。
路上と言う視点でまとめたと言うのであれば、
見終わった後に、
路上に対する感想なり考えが出てきても良いと思うのだけれど。
とりあえず企画がちぐはぐ。
ただの作家のグループ展としか思わなかった。

植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ

2013.11.23- 2014.1.26「写真で遊ぶ」

とりあえず両名楽しそうにやっているなぁと思うのと、
2階の展示で言えば林氏が同じ様な感じなのかなと。
ただ、同じ様に楽しんでいるのに前者は買えるなら欲しいけど、
後者は欲しくならない、その差は何なんだろうと思いながらみていた。

マリオ・ジャコメッテイ

2013.3.23-5.12「THE BLACK IS WAITING FOR THE WHITE」

どこか全編を通して
物哀しさに覆われた喜びの様なものがあって、
展覧会のコピーとして、白は虚無、黒は傷跡とあった。
ふと知り合いに言われた、
音楽で言う音源、写真の写源なるものは、
往々にして写真より先に消えゆくものだ
と言う内容を思い出した。
写真が現実ともし物質的に関連付けられることが、
つまりは現実の状況を
継続して写真が反映することがあったならば、
画面上では何らかの喪失が常に付き纏い、
果ては白く消えるのかと思う。
が、しかし現実はあまりに早く、
写真は緩やかに、
喪失へと歩みをすすめる。
光を表すのが影の様に、
喜びを表象または実感へと導くのは悲しみや苦しみである。
つまりは人は悲しみや苦しみのみを感受し、
そこから解放されたその虚構に喜びをみると仮定した時、
写真には黒いシルエットが、
白が溶け込む様にぼやけて残るのではないか。
悲しみを全身で感じれることは、
つまりは喜びを実感する権利を有している確証であるかの様で、
前向きに、けれど痛々しく写る。
白がとび、黒が潰れがちな写真に
定着されたものは悲しみであろう。
そして表すものは生を享受した喜びの様に見えた。

a 面識なし b 2回

2013.5.11- 7.15「日本写真の1968」

作者亡き後の、その検証の為、
という批評の捉え方はある気がして、
そして、その検証は同時代に同時代の人により行われるべきだというのが、
客観なり歴史を踏まえ様とする人達なのかと、
展示を見ながら考えていた。
検証にあたり、全方向的な証人、つまりは批判と肯定とが、
必要と考えていて、もし一定の方向性のみを有した検証があったとするならば、
それは捏造とさして変わらなく、
今回の展示がそうであるとは全然思わないけれど、
この展示をこれから先も含めた検証の資料、
としての条件を満たしていると仮定した時、
現在をどう言う状況であったと主張するべきか、
その主張する機会があるのかも分からないけれど、
よくよく現在の状況に目を向けようと思った。

a 面識なし b 2回

TOKIO OUT OF PLACE

関智生

2013.12.20-2014.1.26「REAL/RED 花々と」

前回は桜一色だったものが、
向日葵や様々な花が同様の手法で描かれていた。
桜のための技法かと思っていたら、
もっとベースとなる部分を形成するためのものだったのだなと。
地と画を逆転させるような感じで、
桜の白はあって、
桜は明確な輪郭がないゆえにそれでよかったのだけれど、
輪郭を意識するものは、
輪郭をもう少し崩してもよいのかなぁ、
とか、
思った。

a ギャラリーの人と顔見知り b 2回

井上光太郎 徳田奈穂子 林圭介

2013.7.12-8.11 「夜水鏡みがかず見るよ -死と詩」

死と詩をテーマに制作を依頼された、
三人のグループ展。
一番最初に見たときは林氏の内容は痛々しいのに、
彩がなんともポップな感じなのに眼がいった。
過去のブックを見せてもらう中で、
徳田氏が動物、と言うよりは生物を描いていて、
ギャラリーの人に話を聞くと、
作者は観客と自分との描かれた生き物に対する印象に
ギャップがあったとのこと。
(前者はかわいいというし、後者はまたそれとは違うらしい。)
毛が生えそろっていない
生まれたての動物の赤子の様な生々しさに似た印象より、
削ぎ落とされ抽象化されたような作品は、
初見ではその流れには気づかず、
過去の作品が見れるということは親切だなとか。
まぁ、当たり前のことなのかもしれないけれど、
井上氏のはどこか事件現場のあとの静けさみたいな、
何があるともない光景の中で、
不穏な空気をまっていた。

a ギャラリーの人と顔見知り b 初見(井上氏のみ2回目)

隠崎麗奈

2013.4.26-5.26「もらうもの」

FRPをもちいて、
紙に描いたイラストを大きな立体作品に仕上げたもの。
どこか不自然に見える作品は、
言えば鏡の国のアリス、
はたまた被りもののドラえもんの様に、
平面を前提としたデザインが、
どこか無理矢理立体として表象したかの様。

a受付の人が顔見知り b 1回

深川番所

稲垣遊・齋藤永次郎・平田由布

2015年1月24日~2月14日

斎藤氏の作品は、
水の中をドロッとした流動体が、
溶け込むことなく泳いでるような感じと、
その事象を描いた壁画の様な感じで、
立体と平面を行き来するような印象があった。
平田氏の作品は、
前回よりも縦長になり、
どこか平面よりも、
奥行きを感じる様で、
薄い板状のモザイク壁画のような。
稲垣氏の作品は、
柔らかい中に、
直線的な要素があり、
そこら辺も自分がひかれる一因なんだろうなぁと。
多分直線に自分は叙情を感じるのだろうなぁと。
作品とは直接関係ないけど、
そんなことを思ったりした。

a ギャラリーの人と知り合い b 2回

深川番所グループ展

2015.2.28-3.14「082-083」

アニメ的な絵柄を日本的という風に捉えるのは、
もう今では当然のように思えるとこがあって、
一昔前だとこの状況を考えられたかどうなのか。
作品として提示されるのにも違和感がないのは、
昨今の美術での活動による所も大きいだろうし、
ただその一方で、
家に飾りたいかといわれると、
自分の中では抵抗があって、
まだまだ分からない所でもあったりする。
技術なり作品としてのもって行き方も含め、
作家なのだなぁと言う納得は重々理解しているつもりでも、
そこへの抵抗感というのは、
自分が保守的かなぁと言う気もするし、
コンセプト等の持って行き方、
どこかオタク文化を取り上げていると言う、
主張が強すぎた結果なのかも知れないし、
これからどう受け入れられていくジャンルなのかなぁとかが、
何となく気になった。

a ギャラリーの人が知り合い b 所見

AutumnGroupShow(尾崎森平、3(three)、福田紗也佳)

2014.9.27-11.9

福島出身三人のグループ展。
一人の人の作品を、
絵画をやってるお客さんが見るなり、
この人女性でしょと言ったらしく、
理由は何かを考えたりせず、
絵を描いてる様見えるかららしい。
僕は黒い線が、
ストリートペイントのような、
エッジの効き方のある線をしているのに、
色使いが柔らかい感じがして、
そう言う所は、
女性っぽいのかなと思ったけど、
それぞれ見え方なり、
見るとこが違うのだなぁと改めて。
写真においても、
女性的なと言うのは思い付かないにしろ、
男性的な渋い写真を撮るなぁとか、
小原さんとかに対して、
感想として度々きくし。
他の作家さんのは、
民間伝承を現代の風景に描いたものや、
震災後の福島を、
平面的に(斜めの奥行き的なものを廃した感じ)
描いたもの、
フィギュアを一旦ばらしたものを、
改めて再構成したもので、
コンセプト的なものを男性的に見るのであれば、
明確なコンセプトを持たず、
自分の感覚なり反応により構成する、
自分達の写真は、
女性的にうつるのかなぁと、
そんなことを思った。

a ギャラリーの人と知り合い b 初見

木村裕

2014.4.1-4.26

昭和に持ち得た日本の感覚を、
現代で描くならこういう感じなのかと。
日本画と言うよりかは、
文学や日本映画に、
感覚は近く、
一見パステル調の優しい感覚に見え、
けれどふわふわした感覚はなく、
落ち着きと共に、
影を感じる。

a ギャラリーの人と知り合い b 初見

齋藤永次郎・三瓶玲奈

2014.3.1-22

齋藤氏の作品は、
おいてあったブックはイラストっぽいのに、
ペイントになるとそれを感じさせず、
塗り跡のテクスチャーが、
生き生きとして見え、
キャンバスを他のなにかが動き回ってるように思える。
ただ根底にあるのは、
物語的な要素なのかなと。
そこら辺でイラストと、
描き方が違うだけで、
方向性は同じなのかなと。
三瓶氏の作品は、
日常の何気ない風景を、
描いている。
聞くと一つはチョコレートケーキを、
叩きつけたものらしいのだけれど、
痛々しさはなく、
キッチュな感じがする。
日常を絵画に落とし込むという行為が、
どこか絵画に落とし込むことで、
日常を消化、浄化する、
そんな側面がある様に思えてくる。
あくまで一つの側面としてだけど。
どこかそれぞれにストーリを聞くと、
また面白いのかなと、
漠然と思った。

a ギャラリーの人が知り合い b 初見

川崎泰史

2014.1.18-2.16 「あいつなんて?ハテナ」

前回は日常の何気ない仕草を表す印象だったのに対し、
今回は非日常的な要素が加わり、
かといって加わった要素も、
今までと同様の印象を与え、
多分どのようにやっても、
この作家の個性のもと、
作品は形成されるのだなと。
なんとも見ていて心地良い作品だった。

a ギャラリーの人と知り合い b2回

小栁仁志

2014.11.22-12.20

何層にも重ねられた階調を縁取るのは、
シンプルな直線と、
パネルとパネルの境界とで。
丁寧に塗られた面の一つ一つは、
ここまで出来るんだと、
そう思わせるほど均一でありながら、
やはり人が作ったと言う、
温度みたいなものがあって、
何とも心地よい展示だった。

a ギャラリーの人と知り合い b 2回

小柳仁志

2013/10/4 - 11/3

ストライプのグラデーションは、
一見するとどこかの海辺の写真かと思わせるが、
実際は明確な被写体はなく、
白いキャンパスに塗り重ねられ、
創られていくらしい。
けれど不思議と、
むしろ写真よりも現実感を持つのは何故だろうと思いながら見ていた。
写真が現実を写したものと言う認識はさしてないけれど、
広告の写真等で完全に計算されたグラデーションは、
むしろ現実感を喪失させる。
実際の人が写っているのに、
血が通った印象がなくなり、
むしろ今回の絵画の方が現実の温度を感じる。
言わば良い意味でのノイズ的なものがこの絵にはあるのだろうなと。

a b 初見

小澤英

2013.7.12 - 8.4

子供をモチーフにしながらも、
どこか仕草なり雰囲気が大人びていて、
そしてどこか物悲しそうな表情をしている。
望みもしない力を有してしまった、
ホブゴヴリン的なものに思ったのが第一印象。
”一つのモチーフは窓ではなく鏡として”、
と言うのがある種自分の中での解釈なのだけれど、
鏡の角度は必ずしも作者とは限らないけれど。
あとはどことなく初期のルシアンフロイトに似た印象があった。

a ギャラリーの人と知り合い b1 回

藤井龍徳

2013.5.1 - 31 フリソソグモノニツイテ

発表する土地で採取された水、
細かく刻まれた一億円、展示会期を通して計測される放射線量。
諸々の事象・作品は、
分かり易さの先の提示に即し、
世俗的ステレオタイプからの解放を促すかの様。
つまりは紙幣価値から開放された紙と言う物質の側面、
または紙幣と言う認識を境に起こる自己の中での変化。
ガラス管の中に入れられた水も、
採取条件の提示により物質を同じにして、
差別化され、意味を有する、その過程を観客に体験させ、
そこより現実に対する見え方が変わる様な。
空間演出も見事の一言。
追記 フリソソグモノは、放射能をさしていたらしい。
眼に見えないものを可視化する、
という面も勿論のこと、
記録、の意味合いの方が強い様で、
即効よりは長いスパンでの活動といえるのかと。
江東区にいる子供の数だけギャラリーのある建物に掲げられた白い布を外に、
降り注ぐ媒体の一つ水をギャラリー内に入れ子に配置し、
その通過する感覚に思いをはせる。
具体的なイメージを過剰に促さない展示もまた、
現状を示唆させている様な。
ゆっくり、ゆっくりと、歩みをすすめる、
そんな展示。

aギャラリーの人が知人 b 1回

蒼穹舎

原芳一

2014.11.24-12.7「神々の系譜・序章」

何をとるではなく、
作者が持つなにかが 原さんの写真に色を呼ぶような。
何を撮っても構わないんだ、
と思わせるようで、
そこまで行くのが大変だなぁと思った。

a 顔見知り b 8回位

関口周利

2014.8.18-8.31「jusco」

全体に共通した、
JUSCOやヨーカドー、
の大型スーパーは、
地方の風景との調和と逆の、
浮いた色をあきらかにしていて、
その違和感の中で、
生活の関わりの中で違和感のなく存在することが、
逆に不思議な感じが。
JUSCOを撮るようで、
その置かれている環境を撮ると言う感じなのかと。
あとは単純に絵として格好いいなぁと。
差し色として何とも現代的とも。

a 知人 b 2回

多々良栄里

2014.6.23ー7.6  「遠くから太鼓の音が聞こえる」

どこぞの浮世絵師が描いた絵を、
描いた場所にいってみると、
町の風景は変わっているものの、
その地形は変わらず、
見てとれる、
と言ったドキュメンタリーが思い出され、
と言うのは、
生活が営まれるその土地の、
木々、草花などが、
伸びやかに自生し、
その合間に人がいるのかと言ったような、
人と土地との共営関係が見てとれたからで、
生活がありつつ、
その土地が生き生きして見えて、
そう言ったことを、
素直に表している写真だなぁと思った。

a 知人 b 2回

門井幸子

2014.5.26-6.8 ”春 その春”

人の手から離れた所の造形と言うか、
そういった中での幾何学と言う部分と、
何気ない在様としての、
風景が連なっていくような。
リアルタイムで、
人の生活が関わるようなものよりかは、
ある程度の空白をはらんだものに、
ひかれているのかなぁと、
なんとなしに思った。
前半額を繋げた部分は、
前回の展示を活かした部分だろうし、
後半最後は、
敢えて出していなかった、
スタンダードな部分なのかと。
どこを核なり軸にしていくのだろと言う部分もあって、
そう言った部分の狭間なのかと。

a 知人 b 回

溝口良夫

2014.5.12ー5.25 「ホタル」

女性、
と言う切り口に限定して、
撮影をした写真。
年齢の変化によって、
変わる部分はあるのですか?
と、聞くと、
年齢等で印象が変わることもなく、
皆、
同じとのこと。
女性、
と言うものに対し、
色々思うところはある中で、
自分が思考や机上なのに対し、
あくまで作者の写真は実存に隣したものの様で、
変に考えてこねくり回した様な、
混ざりものがない感じで、
視線は素直でいて、
丸みはなく、
すっと、
すっと突き放されそうな怖さと、
一方でに惹き付ける、
女性への距離を感じた。
自分も撮影してみたいけど、
知り合いで撮ると、
丸くなってしまうのだろうなぁと。

a 顔見知り b 初見

マヌエル・ファン・ダイク

2015.2.9-2.22「edge of shadow」

夜において明るく照らされるのは、
人のいない壁面なり、
人がいないと言う時間で、
街が街単体でいるような気がする。
そこに人が写り込むのは、
街の中に写るわけで、
通常における地と物の関係が、
逆になるように見える。
(要は街の下地に人がいるのが昼なら、
夜は街がメインに、
人は脇に追いやられたような)
まぁ、
アプローチの仕方にもよるのだろうけど、
この作品の場合、
街がメインに見える。

a 顔見知り b 3回

鈴木美保

2015.2.23-3.8「冬の薔薇」

形は色を活かす為、
と言う感じがあって、
色がスッと入ってくるし、
かと言って、
形をないがしろにしてるわけではなく。
形式的にまとまりすぎない形と、
伸び伸びとした色と言うことかと。

a 面識なし b 初見

柴田恭介

2015.1.12-1.25「湘南時計III」

緩やかな時間が流れてそうな、
と言うのは、
ある種自分の思い込みの所もあると思うのだけど、
バイクの流し撮りもあるわけで。
ただセカセカしてはない感じがするのは、
自分のペースが守れる程度、
前後が詰まってないと言うことかすら? 走ろうと思えば走れて、
止まろうと思えば後ろにせかされたりはしないで。
時間の共有とそれぞれのペースが保てる感じが、
タイトルとリンクしているのなら、
それはそれで納得するなぁと。
実際どうかは知らないけれど。

a b 回

柴田恭介

2014.3.31ー4.13 「湘南時計II」

何か締め切りがあるわけでなく、
ゆっくり撮ろうとしたときは、
意外と良い瞬間に巡り会うことが多く、
その流れに身を任すような感覚と言うのがある。
次から次にシャッターを押すわけではないが、
退屈に、無駄に思う時間がない、
無駄がないと言うわけではないが、
その余白も楽しく過ごせるような、
そんな時間の流れを今回の写真には感じた。
二十代位に思える若者は、
自分の場合は撮れないなぁと思うので、
声をかけて撮るのですかと聞いたら、
基本的には声はかけず、
撮ってからありがとうと、
声をかけるとのこと。
撮影の前に話していて、
撮る人もいるらしいけれど、
撮影さしてとは、
声はかけないらしい。
そう自分も出来たらなぁ、
と、
羨ましく思った展示。

a 知人 b 3回

安掛正仁

2014.2.17-3.2 「蛞蝓草紙外伝」

光沢の紙を使ったデジタルのモノクロプリントは、
デジタル特有のオドロオドロしさが前面に表れて、
フィルムの代用としてではない、
良い意味でのデジタルらしさを感じた。

a 知り合い b 19回位

堀道生

2013.12.9-12.26 「途中VII」

良質で誠実な展示。
短く言うのであればそこに尽きるのだろうと思う。
パノラマとスタンダードサイズ2種類を織り交ぜてはいるけれど、
それが全然うるさくはならず、
見逃したはずの、
街の情景をもう一度見せてくれているかの様。

a 知人 b 7回

染谷學

2013.10.14-10.27 「道の記」

前回の同タイトルはすっと入って行きやすかったのに対し、
今回の内容はどこかもぞもぞするような、
良い意味での落ち着かなさがあった。
何か安易に落としどころ、
こういう作品だったと言いまとめれない部分あって、
それは今回出版された写真集でも同様の印象がある。

a 顔見知り b 2回

コウノジュンイチ

2014.8.4-8.17「空気に触れる」

捉え方が難しいと思う作家で、
画面構成としての特徴はないのかもしれない。
何でも撮るし。
また、
撮影時に中判から35ミリまで、
気分によって変えて撮ってるのもあるのかもしれないし、
撮影から展示まで今回でも4年間が空いてるのも、
特徴を捉えようとするのを、
困難にさせる所ではあるのだろうと。
色に反応するのか、
形に反応するというのも、
特にないのだろうなぁと。
毎回味は違うのに、
どれも美味しい中華料理屋さんみたい。
伸び伸び作ってるんだろうなぁと。
作家当人に、
どういうタイミングで、
シャッターを切ってるの? と聞いたところ、
おっ、
と思ったときだそう。
さらには、
何回もとったりは、
意識的にしてないそうで、
変にこねくり回したりすると、
後々混乱したり、
作品として良くなくなるからだとのこと。
反応したと言うときに、
シャッターを切り、
その記録なり具象として写真はあるようつとめ、
極力自分の考えなり手を加えたり等を避けてるとのこと。
自分とは真逆だなぁと思うのは染々と。
それ故に自分には捉えれない(撮れない)部分が強くあった。

a 知人 b 9回

コウノジュンイチ

2014.1.20-2.2「地をあるく」

たまたま今回は搬入と別に飲む機会があり、
写真の話を長々とした。
自分が見ることを基盤にし作品を撮ることに対し、
コウノ氏は、見ることではなく、目的に達する、
その過程として作品があるとのこと。
手を加えられない数年の距離があり、
今回の作品もまた、2009年頃撮影したものとこと。
今から5年前となる。
自分はプリント、セレクトと同時に、
見る(撮影する)と言う重層的に見る行為を
繰り返しながらではないと上手くいかないのに対し、
コウノ氏はその事を拒む。
あくまでも写真なり作品は結果だと言うことなのだろう。
前回に比べ夕刻に近づいた写真は、
どこか叙情性をおび、されどかすれたように暗い。
聞けばこの当時は落ち込んでいたとのこと。
そういった心情も意図せずともついてくる分だけ、
意図は不要と言うことなのかと。

a 知り合い b 8回

コウノジュンイチ

2013.8.19-9.1「家へ」

今まで何度となくみていたけれど、
自分も同じ様に撮る日本の風景の中で、
その視線と言うものの違いを比べられるからか、
なんとも良かった。

a b 5回位

吉江淳

2014.6.9-6.22 「遠くに山が見える」

写真集のタイトルの、
地方都市と言う言葉の、
地方とは何を表すのかなぁと。
日本には都市部と、地方と、田舎と、郊外と、
パット思い付くのでは、
上記のようなものがあって、
例えば札幌、盛岡、仙台、郡山、
宇都宮、東京、横浜、大阪、
京都、神戸、福岡…etcなどは、
都市部の様なイメージはあるけど、
この中に地方都市はあるのかなぁ?
と言うと、
あるような、ないような。
あるとしてその線引きはなんなのだろう?
都市に対し、
地方が存在するのであれば、
何らかの対象に対する地方の、
その中の都市部、
となり、
なんとも複雑で曖昧なものとなる。
実際この作者は、
そんなことは考えてはないだろうと思うし、
前述した考えも意味のないことだろう。
ある程度漠然とした呼称として、
多くの人の中にある、
概念としての言葉だろう。
ただ一つだけあるとしたら、
構造として同じものが、
幾層にも重なりあって、
人の営みは、
成り立っていると言うことなのだろうと思っていたら、
写真集の後書きでちゃんと言及をしていた。
首都圏以外の全ての都市であり、
ここではないどこかだそう。
その漠然としたどこかにひかれ、
撮影してるとのこと。
からっと晴れてるのではなく、
どこか雲があるなかでの光線具合を、
と言うのは昔知り合いが言っていたことだけれど、
そう言った特徴を感じつつ、
その求める抽象を端的に表す言葉が、
地方都市なのかなぁと。
西脇に完全に移ったら、
また違って見えてくるのかなぁと、
時間をおいてまた見たい、
そんな展示。

a b 5回

吉江淳

2013.7.22-8.4 「茨城」

何気ない風景と言えば、
それも間違いではないのだろうけれど、
”何気ない風景と言う言葉”からでは、
おそらくは撮影場所となっている現地の人も含め、
イメージし得ないものが展開される。
写された情景が特別なものではないがゆえに、
それぞれの土地で何かを見出すように思え、
場所は選ばない様に思えるけれど、
果たしてどうなのか。
こういった写真がもし自分が撮れるようになるのであれば、
東京を離れることに抵抗はないなと、
思わしてくれた作品。

a知り合い b4回

塚田信之

2014.9.29-10.12「静かな雑踏VI」

撮るタイミングに、
なにがしらの傾向とかあるんですか、
と聞いてみたところ、
人がうーん、
わーと、
うーん、
と、
どうも明確なものはない様。
コウノ君の、
おっ、
と言う感じに似てるのかなぁ。
おっ、
で自分は撮れないので、
なんだか羨ましい。

a 知り合い b 6回

塚田信之

2013.9.30-10.13 「静かな雑踏V」

街と人との関連が色々な人の写真で気になるなかで、
この作品はありありと人を写しながら、街が強調される。
実際の表象とは別に、俯瞰的な印象があった。

a 知人 b 5回

石川琢也

2013.9.16-9.29「桃園」

淡々と良質なと言う感じ。

a 顔見知り b 2回

原七郎

2014.2.3-2.16「2014」

視線の基軸は、
グラフィカルなところで、
その均衡をずらすと言うよりは、
四つ足の椅子の足一本を抜く、
と言った感じなのかと。
一見すると被写体を個の塊と捉えるようで、
よくよく見ると、
あくまで全体としてみているのだなぁと。
ただ葉っぱやザリガニなど、
作家の琴線がどこなのかは、
まだしっかりとつかめている感じがしない。

a 顔見知り b 3回

アンヌ アルト

2014.10.13-10.26「QUIET STORM FINLAND 2013」

海外と言う感じがあまりしなく、
(よくよく見れば海外なのだけど) 町に向けられる視線が、
馴染みあるもので、
言えば日本的なのかなぁと。
ただ、
もしそうであるならば、
海外の、
特に現地の人には、
そう言った違和感があるのかなぁと。
日本を撮影した外国人が撮った写真が、
日本でありながら、
日本人であるならば、
撮らなさそうな統一観を有してるのと同様に。

a 顔見知り b 3回位

こくまい太

2014.1.6-1.19 「NIWA」

近い時期に自分も庭をとった作品を発表していたのだけれど、
自分が街に対しての視点を庭に投影していたのに対し、
この展示では庭を素直に見ている、
庭を庭としてみているのだろうと思った。

a 知人 b 4回位

藤原敦

2013.4.1ー4.14"南国頌"

情感に変に流れなくていいですねと、
写真集を見た時に言った気がするのだけれど、
時間をあけて展示で改めてみたとき、
改めてその印象を強く感じたような。
飾り気のない良い意味で無骨に見える風景が、
矛盾するようだけれど、逆に情感を感じさせ、
むしろ情感に流れると言うよりは、
その差し出し方の適切さみたいなものなのかと。
有用なものも過度にあると澱み、
本来の良さを失いがちになる。
そういったことを加味しながら作られた、
丁寧な叙情性が感じられた。

a 知人 b 3回位

坂本政十賜

2014.7.7-7.20 「東北2『雪 / 青森』」

色を強く意識した作家だなぁと言う印象が強かったけど、
今回は形に目がいくのも、
多くはないけどちらほらと。
あとは地方においての人工的直線、
といった感じのものが、
自分の興味がそちらに向かっているからか、
最近ちょこちょこ目にとまる。

a 知人 b 4回位

森瑞恵

2014.7.21-8.3 「DAY BEATY 4 真夏日」

何か捉えようとしても、
するりと抜けるのは、
個人の感覚で撮られ、
変な考えや意識がないからなのだろうかと。
逆に自分がある一定の型に、
落とし込む部分が強い故に、
そう思ったのかもしれない。
一回見るだけでは分からないなぁと言うのと、
あとは、
黒のしまらない紙の選択は、
意図としてあってるのかなぁとか。

a ギャラリーの人と知人 b 初見

熊谷聖司

2014.3.17.-3.30 「EACH LITTLE THING」

この作家は写真を撮るときに、
どこに反応してとっているのだろうと、
何だか不思議な感じがあって、
色に反応してるのかと思いきや、
街の叙情が写っていて、
そう思うと、
マットや印画紙にマジックでイラストが書き込まれたりしているし、
イメージカットを重ねるような、
映像的な感じもする。
写真という行為を、
より個人の感情に寄り添わせ、
自由にやっているとすればそうなのだろうけれど、
それならば記録としての写真ではなく、
作者の創造するイメージをみている方が近いのだろうかと。
そう言ったところで、
自分とは距離があるなぁと思った。

a 搬入のとき会った b 2回

鈴木育郎

2013.6.24-7.7 「月の砂丘」

写真集や本人との、
ギャップによる所も勿論あるのだろうけど、
変な力が入ってない素直に写真。
日常を撮っていると言うよりは、
撮ることが日常となっていると言った方が、
ニュアンスとして近い。
特に人と対峙する視線が、
他のものに対しても等価で、
自分も等価に撮っているつもりでも、
自分より、より人にたいして近いと言う気がした。

a 顔見知り b 1回

岡本安正

2014.3.3-3.16「CHANCE MEETINGS」

ラジオにかかわる著名人を、
撮影した写真群。
偶像に落とし込むわけでもなく、
変に人柄に寄せるわけとも違い、
一定の距離を保つ、
プロとしての人間関係のスタンスなのかなと。
正直な所、
自分がポートレートを、
声をかけてとらないところもあり、
見えてないところも多いのだろうといった印象。

a 面識なし b 初見

横内香子

2013.8.5-8.18 「in the box」

ボクシングを扱った作品。
大四切サイズに混じった六つ切サイズのピン張りは、
入り口側の壁の方がよかったんじゃないかなと。
単なる好みの問題かもしれないけれど。

a知り合い b 2回

坂手央人

2013.11.11-11.24「時の残像」

明るさのなのか、
それぞれが何が違うかはよく分からないけれど、
3種類くらいの画像を重ねた写真。
最近ではHDRと言う技法として認知されているみたいだけれど、
なぜ敢えてそれをやるのかが自分にはよく分からず。
ゴッホ自体もよく分からないのだけれど、
よく聞く影の部分をも色彩で埋めた、
とかとも違うのだろうし。
時間の堆積を一平面でとういのであるならば、
自分にはぶつ切りの、その抜け落ちたものの方が、
力強く写るのだけれどなぁ。

a 知り合いの生徒さん b 初見

タナベケンゴ

2013.9.2-9.15「カミシロ/OFFERINGS TO THE GOD OF LIGHT」

擬人化、
という言葉でまとめると、
なんか安っぽい感じになってしまって、
それは違うのだけれど、
どこか茂った木の共通性からか、
何か潜む、と言うよりかは、
何かを内在させた木と言う塊みたいな感じが。

a 顔見知り b 2回

山門恭彦

2014.4.28ー5.11 「Honky Tonk」

フィルムにおける増感などの粗さを、
デジタルに置き換えてやろうということなのかすら?
電車内で撮影された写真は、
生々しさよりも、
かすれ流れるような感じがあり、
アナログ、デジタルの選択と言う意味で、
デジタルならではの表現と言うのは、
出てきてるのだとは思うのだけど、
その一端なのかなぁと。
映画のfocusであった、
ビデオでの撮影の必然性は、
分かりやすい感じがしたのだけど、
今回のは時間をおいてみないと、
まだ分からないなぁ。

a 搬入は手伝ってる b 4回

山門恭彦

2013.4.29-5.12「夜、動く」

デジタルならではの質感と言うのは確かにあって、
その良い意味での濁り方と言うのが、
作品の良いアクセントになっている様な。
暗闇の中写る花と、人工的な光、とは言え生活の中にともる灯は、
どこか都会の味気なさ故の郷愁を感じさせる。

aギャラリーの人が知人 b 3回

杉本征克

2013.5.13-5.26「匿名」

同じネガからの画像を左右に振り分け、
若干の重なる画像を持ちながら、
一つの画面を構成する。
一見すると、連写した二画面かと思うとそうではない訳で、
なんの意味があるのだろうか?
逆に連写の写真だったら、
時間の経過を、尺度として作品に埋め込んで、
現在と写真との距離を感じて貰う、
と、
それはそれでどうなんだろとかも思うのだけど。
まぁ、ホイックニーを参照したらいんだろうけれど、
面倒臭いのでやらない。
写真の内容自体は人間臭さの残るゴリゴリのスナップ。
関西の人はこう言うのを撮る傾向があるなと。
なんかへんな工夫しない方が良い気がするのだけれど。

aギャラリーの人が知人 b 1回

サードディストリクトギャラリー

関薫

2014.11.7 - 11.16「きざはしを超える」

自分はここまでで良い、
との線引きはそれぞれにある気がして、
プリントに対するこだわりは、
自分にはさして強くないなかで、
この作家のプリントと言うものの、
力と言うものは、
自分は自分の作品では求めないけど、
強く引き付けるものがあったなぁと。

a 顔見知り b 5回

関薫

2014.5.6 - 5.18 「眩む日」

最初の五点は、
すごく良かったと思うし、
これからどう展開していくか、
楽しみな一方、
それ以降が、
なんだか平凡に見えてしまう部分があって、
そのきっかけとしてウォーホールの絵と、
マネキンの足元の写真があった気がした。
最初の五点が、
日常でありながら、
非日常に感じれたのは、
作者の視点なり、
頭の中と言うか、
それを覗けたような感じが、
ウォーホールの絵と、
マネキンの足元によって、
一気に日常に引き戻されて、
それを引きずったまま、
最後までいってしまったような。
何もそう言った日常を感じさせるものを避け、
イメージカットを重ねるのが良いとは思わないけれど、
もう少しそこらへんは、
したたかに、
上手くやってもいいのかなぁと。
やり過ぎると、
ごまかしになっちゃうけれど。
とりあえず、
後半の写真が、
もっと活きるやり方が、
何かしらあったのではと思う。

a 顔見知り b 4回

関薫

2014.1.10 - 1.22 「線の記」

今までも一枚一枚はよく纏まっていたのだけれど、
今回はそれに全体としての流れが良い意味で見えてきて、
そのことが一枚一枚の良さが逆に際立った展示だった。

a 顔見知り b 3回

関薫

2013.6.3-6.16 「線の記」

一枚一枚画面構成がきっちりとしてる分だけ、
並べに抑揚が欲しくなる。
淡々とし過ぎて、
途中より息苦しくなってしまう。

a 面識なし b 2回

島根径

2014.11.18 - 11.26「DULL COLOR」

初めの展示からずっと見ているので、
上手になったなぁと言うのはまずあって、
ただ、
ゴリッとしたこの作家ならではと言う部分では、
その個性は前回の方がより出てたのかなぁと。
何やら良い意味での窮屈さと言うか。
ただまぁ、
引き出しを増やしている時なのかなぁとも思えるし、
いずれかの時にまた、
他と差別化していくとかでも良いし。
街で人を撮る人が皆かかえる傾向だろうと。

a 知人 b 3回

島根径

2014.2.18 - 2.26 「DULL COLOR」

被写体に寄った写真と言うよりは、
ひとつの被写体によって、
その後ろが隠れるような、
壁にある小窓から覗いた世界のようだった。
息苦しさと同時に、
細切れな感じによる空白の心地よさもあり、
これがまた距離なりレンズが変わっても同じ感じが出ると、
より良いのだろうなと。
バリェーションの多さという意味で。

a 知り合い b 2回

マヌエルファンダイク

2014.1.24 - 2.2 「Un Places」

線が整っているのは、
どこか海外の作家の特徴で、
この作家でも言えた。
整いすぎてるのか、
一枚で完結しているのか、
流れと言うものも感じづらく、
それが悪いのか良いのかも、
なんとも言えないところ。
とりあえず何回か見ないと、
良く分からないかなぁと言った印象。

a 顔見知り b 初見

元田敬三

2014.12.9 - 12.21「SUNPACK」

自分などは、
声をかけずに撮ることによりある、
緊張感が大切に思って、
で、
そうしてるのだけど、
声をかけて撮る人が持つ緊張感と言うものが、
どう言う風に存在してるのかと言うのが、
やってないから自分には想像がつかなくて、
実際知り合いとかを少しずつ撮ってみてはいるのだけど、
自分ではやっぱりだれてしまい、
ただの身内の写真となってしまう。
その昇華の仕方と言うか、
声をかけてとり、
作品として惹かれるものとする、
そう言ったものが気になってみていた。

a 面識なし b 3回位

坂本陽

2013.12.10 - 12.22 「Flashbulb」

パーティーなりライヴ、クラブ?とかなのかな、
そう言った場所に居合わせた人々を、
フラッシュを浴びせるように写した写真は、
被写体の強さを素直に浮かび上がらすようで、
なんとも小気味良い感じがした。
被写体に引っ張られるわけでもなく、
被写体を作品に取り込むとも違い、
シンプルにぶつかって(撮影する)いくようで、
それもまた作家の個性だろうと。
その意味で僕には撮れない写真だなぁと思った。

a 知り合いの知り合い b 初見

安掛正仁

2014.10.3-10.12 「蛞蝓草紙ー秩父行ー」

敢えてストーリーテリング的な、
分かりやすさでまとめた様にみえて、
当人にいってみたところ、
本を作ったことをきっかけに、
型が良くも悪くも出来て来てしまい、
それを崩そうとしてるとのこと。
アプローチの仕方として、
別方向のでまとめるのではなく、
まとめ方で、
違う方向に引っ張るのはなんだか新そんな感じがしたのと、
あとは、
すっきり見やすい分だけ、
展示する量を増やしても良いのかなぁと、
それもとりあえず当人に。
色んなアプローチがあるものだと。

a 知人 b 20回位

安掛正仁

2014.06.03 - 06.15 「蛞蝓草紙」

昼からでも、
夜の様に酔える、
と言った、
伸びやかさを感じた。
あとは、
光沢紙より、
バライタ調の方が、
なんやかんやで見やすくはあるなぁ。
光沢はそれはそれで、
おどろおどろしくていいけど。
他の人と話していたのを、
横で聞いていると、
変わる切欠になったのは台湾だったのだとか。
変に納得したような、
感じもした。

a 知人 b 19回くらい

安掛正仁

2013.10.8 - 10.16 「蛞蝓草紙」

襖から顔を出す作者の甥なのか子供の写真を見ていると、
どこか作ったかのような非現実感と、
されど実際にあったはずとの信用と、
焼きこみ等を敢えて過剰にしていることが、
逆に写真としての客観を意識させるような。

a 知人 b 18回位

安掛正仁

2013.5.7 - 5.19 「ダイダラボウ- はるのよひ -」

どこか不安なのか、不穏なのか、
おどろおどろしさを纏った写真は、
均整のとれ方なのか、
よくよくみると素直な心地よいスナップだったりする。
そうするとあのおどろしい焼き込みは必要か?
と言うのは不要な意見で、
そこら辺が作家が持ち得る不可侵的な領域だと思っている。
要はそこら辺まで口を出すなら他をあたってと言うか、
目的を違えた状態での意見となってしまうかと。
なんだか説明すればするほどよく分かりづらくなってしまうけれど、
純粋なスナップを求めて撮っている訳ではないだろうし、
あのおどろおどろしい焼き込みも含めてやりたいことなんだろうし、
普通にやいても成立もする位にとどめとくべきなのだろうと。
なんだか怖い感じにやろうとしても人の良さが出てしまう、
または口は悪いけど、人は良いみたいな、
そんな感じの展示だった。

a 知人 b 17回位

third district gallery  グループ展

2013.8.27 - 9.4 「新しい壁」

新しく入ったメンバーの展示。これまでに発表したものを再構成したもの、
新作と色々と。
思ったのは東京ではこう言うグループ展の時、
空間にたいするいい意味での遊びが見れるなと。
通常ではスタンダードな展示方法を強く好む傾向があるので。
盛田君のは新作は五枚くらいだったらしいけれど、印象はまた違った。
こう言う印象の違いがあるのは、視点なり方向を再発見と言えて面白かった。
関くんのはいつもの風景とは違い人のスナップなど、
作家としての降り幅なのだろうけれど、
いつもの風景の方がやっぱり良いのかなと。
スナップはまだしっくり来る感じではないのかなと。
田中舘君のは割りと展示の時との印象のずれは少なく、
展示を見逃した人には良い機会だったのではと。
林さんは知り合い(身内)を撮っていて、
知り合いをこう撮れるのは羨ましいけれど、
知り合い以外を撮ったときどうなるのかなと。

a 顔見知り

牟田義仁

2015.2.10 - 2.22「事物の事日記」

何回か前の展示において、
ピン張りでずらずらっと並べていたことがあり、
今回そのやり方に似ていたのが、
何となく意外だった。
今回は写真上部一点をクリップでとめて、
同様に下部一点を、
押しピンの持ち手部分でとめていた。
事物のこと日記は、
日付を入れながら、
時系列順に並べていく、
その条件下で写真を選んで行くと言う作品で、
並べにおいての自由度は制限されるのだけど、
その分思い入れの強い写真なぞも、
躊躇なく落とせるそうで、
あくまで連なりとしての作品を優先した、
そのことがより明確な作品なのだろうなぁと思うし、
また作者の写真観を、
よく表していると思うし、
核となる部分だろうと。
で、
話を展示方法に戻して、
と、
自分の場合は、
展示方法を決めてからやり始めるから、
と、
変わったやり方をする分、
同じ展示方法は一回っ切りにして、
次にはやらない様にしてるのだけど、
それで、
わりと前回の印象が抜けきれないタイミングで、
何故やったのかなぁと言うことが、
単純に不思議だった。
まぁ、
数を出そうとしたときのスタンダードとすると言うなら、
分からなくもないのだけど、
スタンダードなのかなぁ? さてはて。
ただ、
前回の展示のやり方が新鮮に感じる一方で、
作者自身は昔はこんな感じのも含め、
色々なやり方をしていたと言うし、
変に狙ったわけでもなかったのだろう。
自分が勝手に違和感を覚え、
たまたま作者は今回もこうしただけと言うことなのかもしれない。
ただあまりに気になって、
もう一度足を運び作者に話を聞いたところ、
気をてらう訳でもなく、
事物のこと日記は、
一番合う方法は何かと、
模索としてこの展示方法をしたのだとか。
よくよく聞いてみたところ、
元々は額装をせず、
プリントを剥き出しで展示する方法が常で、
途中より額装をするようになり、
それでここに来てかっちりし過ぎるような印象が気になって、
もっとラフの方が合うのではないかと、
言う流れで試しているとのこと。
逆に自分は、
額装をスタンダードに据え置いているから、
スタンダードに対する試行錯誤と言うのは、
怠っていたのかなぁと反省。

a 知り合い b 18回

牟田義仁

2014.8.15-24  「Yangon!」

ほんの僅かしかない時間や、
フォルムの量で、
よくここまで撮れるなぁと言うのと、
あとはここ何回かの作者の展示は、
いい意味での遊び心と大胆さがあって、
見ていて楽しいなぁと。
変に決めた型にはまらず、
被写体の余白なりをかんじる。
ギャラリー運営の中心を、
後任に移行して、
今楽しんでる部分がよく作用してるのだろうなぁと。

a 知人 b 17回

牟田義仁

2014.6.17-7.2 「福岡 1995,1999」

動機は変わっていく地元を、
記録しておこうと言う衝動で、
で、
実際改めて見ると、
そう言った目的、
俗に言われる叙情性は、
作者自身あまり感じはしなく、
現在との視点の差異を感じるにとどまったとのこと。
会期中二回見に行って、
結局作者には会わなかったけれど、
ギャラリーのblog等で、
様々な意図やエピソード、
作者自身の感想を知ることができたのは、
不思議な経験で、
自分が思うこととの差異、
意見の違いなりを、
会わずに実感できるのは、
なんとも新鮮。
元々そう言った文章等を、
読む前の感想としては、
かっちりとした良質な作品と言う印象で、
読んだあとでは、
今の作品なり作者を知るなかで、
良い意味での若さゆえの初々しさ、
みたいなものを感じるような。
単純にプリントの違いが、
現在の調子を求めて、
この時もやっていたのかなぁ、
(出来てなかったのかなぁ)
なぞ思ったり。
あとはセレクトなり並べとか、
諸々の違いなど。
まぁ、 単なる変化と言うことだけかも知れないけれど。
また、
土地の記録を動機として始めるも、
写真とはその時々の、
作者の視点の記録と言う部分が、
強いんだろなぁと。
ただ、その土地を知る人には、
土地としての叙情は感じるのでないかなとも。
コンセプトが明確で一定の見方に促されるよりも、
こう言った見る人によって様々な表情を持つことが、
写真なりの面白さで、
また記録性も、
意図ではなく自然な結果として、
定着される様な、
そんなことを思った展示。

a 知人 b 16回位

牟田義仁

2014.4.22 - 5.4 「事物の事日記」

上手な人、
と言うのは良い悪いではなく、
個性としてある気がして、
そういう人は往々にして、
自分の器用さにヤキモキするのかと思うのだけど、
今回の展示はその事を受け入れて、
大胆に遊んでいる感じがした。
並べにしても、
他の人が真似ても、
こうも上手くいかず
悪く作用してしまうのだろうかと。
若々しい破天荒さはないのだけど、
自分が知り得ぬその先を見せられた感じがした。

a b 回

牟田義仁

2013.8.6 - 8.14 「事物の事日記」

どこか危うさがほしくなる、
と、
今回は特に感じた。

a 知り合い b 14回位

新山発現

2014.7.4 - 7.13 「CLEAN」

前のと変わった様な印象があって、
と言うのは前はもっとごちゃごちゃ、
塊としてあった様な感じだったのが、
手前側のなめと、
その奥とに、
整理された様な感じがしたからで、
そのことを作家にいってみたところ、
やってることは変わってないとのこと。
ギャラリーの人からは、
最初の方に回帰
していってる傾向が、
あるとのこと。
家に帰って、
昔の作品を見返してみたけど、
そんな印象はないのだけど、
展示作品において、
そのようにそれぞれ違った印象、
ないし、
意見を聞けることは、
展示をする意義として、
大きなことかと思う。
結局誰の意見が正しいかは、
今の時点では分からないし、
それぞれに正しいとは思うのだけど。
とりあえず自分の印象としては、
これまでと変わった感じを受けた。

a 知人 b 回

新山発現

2013.7.26 - 8.4 「sighting」

折り重なる感じ等、
どこか自分と共通するところも感じつつ、
やはり違うのは、それはまぁ当たり前なのだけれど。
聞けば元々は金村さんに影響を受けていたよう。
ただ、真似たとしても同じにはならず、
それは自分が長野さんに影響されていても、
やはり個々人で別のものになるわけで、
そこら辺は気にしても仕方がないものなのかと。

a b 3回

田中舘裕介

2014.10.14 - 10.26「Reverberation」

どこかふとした所での、
抑制なり肩透かし的な部分で、
見せようとしてる印象があって、
と言うのは、
逆を言えば全力の力業を、
経験として、
やってない感じもあり、
個性と言えばそれも個性なのかもしれないけど、
印象としては、
なんだか弱く感じてしまう。
作品の個性は、
選びと並べに起因する所が大きい、
と言うのは、
自分回りで良く聞く意見ではある一方、
あくまでそれを支える部分があっての話で、
撮影する行為をないがしろにすることではないとも聞く。
まぁ、
どちらも大切要素であると思うのだけど、
この作者は編集なりに、
片寄ってる様な、
そんな気がする。
追記
知り合いに聞いたところ、
並べなりに変に力が入っている訳ではないとのこと。
むしろそこにもう少し凝ってもとも。
一番良いのは当人に聞くことなんだろうけどねぇ。
むー。

a 顔見知り b 4回

田中舘裕介

2014.2.4 - 2.16 「微かな羽音」

この作家はフラッシュにより浮かび上がりはしない、
影絵として在する、
残像を暗喩的に提示するのではないかと思いつつ、
それにしても乱雑すぎるような。
もうちょっと練ってからやってほしいもの。

a 顔見知り b 3回

田中舘裕介

2013.7.2 - 7.14 「微かな羽音」

僕個人はどこか纏まりすぎてしまっているような、
全体を見たときのおとなしさみたいなのを感じてしまった。
自分の中で心がけているのは、
中途半端に成功してしまうなら、
大きく失敗した方がいいというところで、
失敗してしまうんではないかと言う危うさは、
むしろ肯定的な可能性だと思っているので、
そういうのを感じたいところ。

a 顔見知り b 2回

隠れ家(喫茶店)

諸星由美恵

隠れ家という喫茶店(?)での展示。
常々、チェーンの喫茶店の飾ってある
写真や絵が嘆かわしいと思っていたので、
さして強い印象とかはないのだけど、
しみじみ空間との一体感があり、
写っている内容も店員さん、近所、店舗の一部と、
お店にまつわるものだったりするので、
行為のあり様としてひかれる。
温度を感じるというか。
逆にここにギャラリーでみてインパクトが強烈に残る様な写真があったら、
とか、しょうもないことも考えてしまうが、
やっぱりここにはあわなかろうと。
壁ごとに、数枚ずつ、リズムを刻む感覚は、
店舗でやるならではの良さであろうし、
こう言う着地点もまた幸せかと。

a 知人 b 3回位

無人島プロダクション

八木良太

2013.4.13-2013.5.12 「Time Parallax」

左右の眼による差異を、
脳内で統合した時に立体と認知される、
その視覚に関する現象を利用した展示。
残念ながら見に行った時、コンタクトを片方なくし、
片目しか見えないでいたので、
分かる所と分からない所とがあったのだけど、
基本的には体験を中心とした、
身体的構造の再認知を促すものとしてあるのだろうと。
構造、科学的な仕掛をみるのは楽しいのだけれど、
誰々の実験教室等の科学体験との差別化は、
どこでやっているのかが自分にはもう一つ見えてこない。
単純に楽しいとは思うのだけど。
ギャラリーからのプレスリリースによると、
見えないもののを可視化することにより、
知覚拡張を試みる、またその知覚における認識を問い直し、
現在に対する見方を変えようといったニュアンスの様。
そうはいわれても、
やはり実験教室との差別化を自分には感じれない。
そしてそこら辺が、
自分の中での現代美術との壁のように思える。

a 面識なし b 2回

ターナーギャラリー

2013.5.9-5.20 "春のカド"

Webで見た時、は、確実に平面で、
現在の傾向なのかどこか小学生の頃みた、
現実からではない、メディアを被写体に描いたかの様な、
イラストの為のイラストの様に見えるものが多かった。
実際に見に行くと、とは言え行く前より予想はしていたのだけれど、
平面から立体へと立ち上がる現実と言うのか、全然別物で、
平面で作品の構成を担っていた線は、
どこか立体の縁へと追いやられ、
それは勿論複数の作家がいるので一概には言えないけれど、
立体作品の様な感じで。
昔クレーの絵をみて気に入って思わずポストカードを購入し、
その違いにがっかりしたその逆、
平面から立体、実物を前にした時の豊かさをみた様な。
単なる絵を前にした、までの感想となるけれど、
点数が余りに多いので作品に対するコメントは控えます。
あしからず。

a 知人が参加 b 6回(知人)

ギャラリー小柳

ドミニク・ゴンザレス=フォステール + トリスタン・ベラ

「Belle Comme Le Jour」

意味がある様なない様な、
でもどこか小気味好い感じの映像は学生の頃好んで観ていた映画の様。
どうも元々ある映画の再現でもあるらしく、
シンディーシャーマンや森村さんと通じる所があるのか、
はたまた似て非なる方向性なのか。
更には中平さんの全てのものはドキュメント(再現)
という観点からは何なんだろうと、
考えれば考える程、興が冷める様な。
昔どこかの女優がキューブリックは
好きな音楽のために映像を作ったのではないかとBGMに耳を傾け想いをはせた、
その方向性の方が感想としては豊かな気がするけれど、
現段階で自分ではそういった感想はできない。

a 面識なし b 1回

ギャラリーQ

小松浩子

2013.5.20- 5.25

地面から天井へと波打つ大伸ばしの作品のうねりは、
写真としてのおどろおどろしさが写真だからこそある気はして、
展示会場の壁を埋め尽くす写真とあいなって、
異様な雰囲気が充満していた。
また、写真単体としての強さもあるのだろうけれど、
とても一枚一枚観る気にはならず、
そうなることは作者も踏まえてのことと思う。
空間を意識した写真表現の一例だとし、
この系統に全体が向かって行くのだとしたら、
自分達がこだわりを持つ部分はどんどん質が伴わなくなりそうな危機感がある。
基本的なベースの部分を保つことと、
こう言った実験的な部分と、を、どう共栄させていくかを、
作者の意図と別の所で考えさせられた。
一枚で耐えられる写真もこの展示に置いてあるのだろうけれど、
それを明確には見つけられなかったのと、
そう言った意見を不要とみなす傾向が、
これからより進む様な気がする。

a 面識なし b 1回

写大ギャラリー

2013.4.15-2013.6.9「肖像 — 視線の行方」

昔、肖像画は好きで、
肖像写真はどうも好きになれない時期があって、
それは枠としてのみ残る先が前者からは見れる気がして、
一方で写真に対し、徹底して線ばかりを求めていたかの様に思える。
昔のままであればスティーグリッツを自分は好んだのだろうなと言うのと、
今、線の先と言うのを見れば、肖像写真もまた個性があるんだろうと。
そう言った個性や緊張感を自分にはまだ出せないなと、
そんな風に思いながら見ていた。

a 面識なしb 初見

YUMIKO CHIBA ASSOCIATES

植松奎二

2013.5.11-6.8 『截接-軸・経度・緯度』

「重力、引力、磁場といった、
通常意識する事のない見えないものを視覚化し感じさせる」という
説明に即してみればある一定の理解まではしやすくなっている。
会場中央にそびえたつ柱は、重力を表す様で、
床と天井に圧をかけた反発により固定され、
逆に会場自体は自立をもとより(柱がなくても)保っているはずで、
会場は柱から膨張した圧力が加算された空間ともいえる。
闇雲にそこにみる構造を羅列しても混乱を促すだけだけれど、
見えないものを見ると言う行為の体験により、派生する、
つまりは日常にその構造を移行し得ることに価値があると仮定をしたとき、
それを実践すべきは誰なのだろう?
そこら辺が、最近とみに感じる、
美術のための美術の様な気がすることと、
そういった意図ではないのではないかと言う疑念で。
ただ、そう言う高まりをどこかで保つ必要性も感じ、
最終的なアウトプットはどこなのだろうとも思う。

a 面識なしb 初見

禅FOTO GALLERY

北井一夫

2014.7.2-7.26 「道 One Road」

特別、
派手さもないし、
すこぶる内容が良かったと言うこととは違うのだけど、
地震の現場であっても、
作者の写真は、
作者らしくあってくれるのだなと、
そう強く感じた展示。
変わらないのは土地なのか人か、
と言ったことにも繋がるのかもしれないし、
最近みた中では、
野尻氏の動物とかと、
似たような印象。
(今回は撮り手が、
野尻氏のは被写体の動物が、
街の変化とは別に、
変わらなく、
またはそれぞれの時間軸を持つ様な)

a 面識なし b 6回

尾仲浩二

2014.5.7-5.31 「twin boat」

twin boatは知る限りでも、
三、四回は写真集ができてからの、
短い間に展示をしていて、
それはそれで幸福な作品なんだろうと思う。
ただその反面、
一回みたあと、
もう一回いく必要があるのかなぁ?と言うのををもいつつ、
会場まで足を運んだ。
実際は、
いい具合に前観た展示の内容を忘れていたのと、
DMに使われている写真等、
覚えている写真より、
作者の視点の軸はここなのかなぁと言うのと、
展示の説明としてあった、
作者自身では選ばなかったであろう、
選び方(写真集制作に辺り、他の人が最初なのか全部なのかセレクトをしたらしい)
と言うものは感じて、
思ってた以上に楽しんでみれた。
ただやっぱりslowboatの方が、
自分には良いなぁ。
蛇足だけど。

a顔見知り b 回

阿斗

2013.6.5- 6.29 『撒馬拉達 Samalada』

素直に力強く、変な工夫がなくて良いなと。

a 面識なし b 1回

アンドーギャラリー

アレキサンダー・ティネイ

2014.9.2-11.29

人を描くも、
人を描く、
その画面の背景部分なり、
回りの部分に個性を感じた。

a ギャラリーの人と顔見知り b 初見

舟越 桂

2014.4.1—6.28

実際は独立したドローイングで、
それを元にした木彫などないとのことだけど、
元々のイメージが強いのか、
人肌と言うよりは、
木の質感、柔らかさを感じた。
元より、
作者自身が求めた何かを、
表すのに木彫があっていた
(共通性があった)と仮定すると、
ドローイングにした時、
木に関連する印象と言うものを抱くのも当然なのかなと。
あとは、
胸の描き方が、
アウトラインで一つのフォルムを表すのではなく、
幹がありそれに付随したものとして感じられ、
そう言った部分も、
どこか自分に木の成り立ちを連想させた。

a 見かけたことぐらいしかない b 初見

グループ展

2014.1.14-3.22

少ない点数で、
作品をよく見せようとする傾向は、
コマーシャル及びコンテンポラリーのギャラリーにはある気がして、
特にグループ展において感じたのは、
流れではなく個(一点一点)を映えさせる方法なのかと。
平面作品においては。
自分達は展示において、
あくまで全部で一作品ととらえる感じがするし、
その展示を表す一枚と言うのを、
選べないと言う前提のもと、
ブックを記録として残すような気がする。

a 受付の人と顔見知り b 回

篠塚 聖哉

2013.9.3-11.30

陶器の端が鮮明に見えて、 そこに個性を見ている作者の視点なのかと。

a 面識なし b 初見

2013.6.4 - 8.10 笹井 青依

たゆたう葉にはなんとなく魅力を感じるも、
つなげる枝との絡みが自分にはどうにも良く分からず、
とりあえず出ていた冊子を買い読んでみることに。
読んでみる前に考えたことをつらつら。
写真において何故その被写体を撮るのか、
と聞かれた場合は、それに惹かれたからと言う、
つまりはその惹かれた被写体を選択した所より
作者の人間像をあらわすと言うのが無難かとおもうし、
ポートレートは、枠(人の輪郭)を固定した中での創作なのかと思う。
そう言った形式の先に何かあるのかと、思いながら見ていて、
そう考えると葉をつなぐ枝の方にこそ意味があるのかなぁと。
枝はある種、無表情にそこにあるのかと。
冊子の説明をみると、枝と言うよりは、
全面を通して網の様な感覚とのこと。
簡略化された木というモチーフの先に、
何かを見ているとのこと。
つまりは作者の見た何かと自分たちの見る側の世界との
境界線としてのモチーフであり、
網と言うことなのだろう。
過去の作品を見てみると木の描写にも様々な変遷がみてとれ、
現在はこの様な形式(タッチ)なのだろう。
どうしても自分は線としての味わいや、技巧的な要素、
またはさし色の入れ方を求めがちで、と言うのも、
自分が持つ絵画の価値に当てはめがちになってしまう傾向は否めず、
まだこの絵にすっと入って行くには時間が掛かりそうな。
理解の外、という意味では、歓迎するべきなのだろうと思いつつ。

a 受付の人と顔見知り b 2回

ギャラリー街道

湯浅 圭太

2014.6.28-7.6 「青空の内臓を水平線へ引き摺り降ろした私たちの脳の裏側の赤く塗られた幽霊の声に関わる」

面となる部分が、
どこかしら意識させられる所があり、
当人に聞いてみたところ、
建物によってできるエッジと、
植物なり影なりとが、
どっちかに片寄るわけでなく、
両方存在する様に、
とのこと。
折り重なる部分はそうだなぁと思いつつ、
また、平面が一つの単位として、
存在する様な。
直線と言うより、
平面と言うか。
また、
フィルムよりもデジタルがしっくり来るらしく、
理由としては、
フィルムは制作行程を全て自分で出来てしまう分、
自分の意思が余計に介在してしまうのが嫌なのだとか。
少しだけしか話さなかったのだけど、
長々と話すと、
色んなこだわりなり、
考えなんかがありそうな。
絡み合いごちゃごちゃするよりかは、
見易さみたいなものはあって、
それは多分複雑になっても、
変わらないのだろうなぁとも。

a 顔見知り b 初見

グループ展

2013.12.26-30「大街道展」

ごちゃごちゃっと、
一杯貼ってある展示という、
なげやりな感想と、
誰が誰だかわかる?と聞かれ、
殆どわからなかったのが、
なんとなくショックだった展示。

磯村昌司・坂巻剛好

2014.3.8,914,15「OKINAWA」

沖縄での会話がかかれた紙、
散らばらすように貼られたカラープリントの中で、
額装された写真が、
ひどくよく見えた。
普通に並べればいいのに。

a 知り合い b 回

坂巻剛好

2013.8.3-8.11「SUMMER SHIRT」

今回はTシャツの展示。
ただ、Tシャツとプリントされたもとカットがセットになっていて、
そのもとカットがなんともよかった。
と言うか、普通の展示もすればいいのに。

a 知り合い b 10回位

本庄 佑真

2013.6.22-6.30 「Nishi Nippon Byway3」

フォーマットが6×6となり、
特に町中のスナップが見ていて面白かった。
また、ここ何回かで、コントラストが強くなっていて、
印画紙の影響だそう。
カラーの人はメーカーの影響を余計に受けるなぁと。
まぁ、コントラスト高いのは高いので良いけど。

a 顔見知り b 4回位

林孝輔

201410.4-10.12 「ワンダーフォーゲル」

上手さと言うのは、
相変わらず際立ってはしまってるけど、
当人はブレる感じがないなぁと、
ここに来てすこぶる感心したような。
街道がもうすぐなくなるので、
どこで発表するのと聞いた所、
メーカーギャラリーですかねぇとの返答。
自分が気になってるというのもあり、
活動・発表の場所、
その中心と言うものが、
メーカー系のギャラリーになってしまうと、
埋もれてしまわないかなぁとの懸念も。
あくまでメーカー系のギャラリーは、
拡声器的な役割に留めて欲しいもので、
中心となる活動は小規模でもいいから、
他にあった方が良いような気はするのだけど。
まぁ、
どういうスタンスでやるかによって、
方法も様々だけど。

a 知人 b 4回

林 孝輔

2014/2/8,9,15,16「contour」

今回は海と山、
山は雪山の木々に積もる白い世界だった。
どうしてまた山と海を?と聞いてみたら、
とりあえず一つ一つ潰してこうとのこと。
被写体何を選んでも、
結局は自分の写真の特徴からは逃れられないのだったら、
思い付くものを素直にとっていこうとのことだろう。
前回のもそうだけど、
元々上手なのはあるのだし、
不確定要素と言うか、
植物なり海の飛沫なり、
そう言った要素があった方が、
見ていて上手さが邪魔にならないようで、
見ていて心地よかった。
海、山と来て、
次は空?宇宙?
と言ったら、
空は景色が変わらないから、
NASAの写真は良いですけどねとのこと。

a 知り合い b 3回

林 孝輔

2013.6.8,9,14-16「 anthology 」

今までずっと上手さばかりが目立って、
もう一つ自分にはピンと来るものがなかったのだけど、
今回はすこぶる良かった。
縦位置のカラーの、
前の一見すると邪魔にさえ思えて来るボケ味の強い植物が何とも良く、
元々上手なことが上手く作用していた様な。
展示空間も月一で出していたメンバーのグループ展がなくなった為、
広くなり、逆に埋めるのが大変そうにも思ったけれど、
他のメンバーのことを考えれば、
月一で出すよりはある程度貯めた方が良いのだろうと。

a 知人 b3 回

ビジュアルアーツギャラリー東京

津田隆志/高木みゆ

2013.5.13-31,6.3-6.22 Split Exhibitions

津田氏は、
公園のベンチや、ホームレスの寝床になる場所を野宿に出来ない様に仕切を作ったり、
オブジェを作ったりする状況を見せた作品。
写真的な文脈からは切り離したいからと、
写真も状況が分るだけにとどめ、敢えて素っ気ない様にし、
もとより、写真を使いはするものの、
写真の展示ではないつもりとのこと。
本人より説明された上でなんとなくは理解出来たけれど、
いなかったらちょっと分からないのと、
諸々の野宿を排他するその先の提示はあって欲しいかなと言うのが感想。
高木氏はプリクラをデジタル処理した後、
ネガを作成し、バライタに焼き付けた作品。
ポラの様な物っぽさによる叙情ではないし、
あえてプリクラを作品として提示する、という行為が売りなのだろうか?
元々二十歳になるまでの自分を撮った作品を制作していたのを考えれば、
その延長やバリエーションとしてあるのだろうけれど、正直よく分らない。

a 顔見知り(津田) b 1回

深川いっぷく

門井幸子 白石ちえこ 大西みつぐ 森利博

白石さんは被写体もさることながら、
印画紙としての質感にひかれ、
また、そう言ったものに振り回されてないのが良かったのかなと。
門井さんが撮るユメノシマは、新木場の夢の島、
ゴミの埋め立て地の上に娯楽・運動施設があるという構造、
一見して必要、不必要の境の曖昧さ等、
諸々に対する暗喩としてのタイトルとのこと。
実際の島の名前を聞いてみた所、
友人の移住先だったので、不思議なもんだと。
現地に足を運ばない状態では、
作品にみる島と、知人の移住した島と、
別々に存在し、その分離がなんとも不思議で。
大西さんは日光写真のシリーズ。ちょこんと、
家に飾りたくなる様な写真。
何より本人が楽しんで撮影してるのが伝わる。
また、20分間の中での時間の変化、
その流れる早さの差異はあるのかと。
何気ない中での気付きみたいなものは、
一枚の中よりまたふとした時に出て来たりもするのかと。
森利博さんのはドタバタして
ちゃんと見れてなかったので感想は見送り。
全体として、グループ展等、東京では余りしないのと、
値段を作品ごとに表記してあるけれど、
自分達がみるのの邪魔になるかと避けるほど邪魔にもならず、
むしろ親切に見える。
コンパクトなスペースの中でも窮屈にぶつかる感じもなく、
中々見応えがあって良かった。

a 知人(門井・大西)顔見知り(白石) b 回

表参道画廊/MUSEE F

宮内雅之

2013.6.17-22 ”4.7m+”から観る都景2012

歩道橋からの眺め、を、
下にカメラを振らず水平に捉えた作品。
4.7Mと言う条件下で統一されているに関わらず、
コレクション的な羅列にならず、
行き交う人が魅力的に映え、見ていて飽きなかった。
TVで歩道橋も段々なくしてしまう方向に動いていると聞き、
考えてみると家の近所の歩道橋もなくなったりしていて、
景観は随分と変ってきている。
よく景観において日本橋の上を貫く高速道路が良くないと言われるけれど、
逆にその風景しかしらない自分にはむしろ親しみさえ感じ、
それに似た感慨が、
なくなった歩道橋からは感じたのを思い出した。

a面識なし b初見

板東 尚武

2013.6.17-22 「苑誘」

光が丘周辺を撮影した作品。
造形的にはひかれず、ただ口を出すとかはなく、
視点なり嗜好の違いがあるのかなと言う感じ。

a面識なし b初見

PHOTOGRPHARSGALLERY

金村修

2013.07.23 - 2013.08.09“ヒンデンブルク・オーメン”

重なり合う電線や雑然とした町並みは、
そこにいる人々を画面上でのみ込んでいき、
ありありとその存在を示す。
どこか自分とは対局にあるような気になる。

a面識なし b 3回

笹岡啓子

2013/07/09 - 2013/07/21
“Difference 3.11”
“Fishing ”

多分見当違いの感想なんだろうと思いつつ、
なんとなくfishingというものが、
実際は釣り人なのだけれど、
釣られる(見つけられる・撮影される)、
そういった写真の構造的な象徴にもなっているのかなと。
震災あとの東北の写真が、
全容ではないのだけれど、
でもその中の一部を納めることの意義と言った感じのもの、
があるのかなぁとか、
勝手に思った。

a 面識なし b 3回位

中村 早

“Flower” 2015/01/20 - 2015/02/08

植物のフォルムによって、
描かれた線なり面の中に、
人の創造でなし得られないのではないかという、
色や階調が複雑に描かれている様で、
被写体と撮影者、
共に欠くことが出来ないと言う、
それぞれがあって初めて成立する、
写真の有り様を、
端的に表しているように見えた。

a 多分こちらのことは知らない b 3回

中村早

2014/2/5-2/23 「Flower」

植物のシルエットから感じる、
表情に反応し選んでいるのか
と思い聞いてみたら、
そうではなく、
植物を改めて見つめ直しているとのこと。
実際その言い方が的確なのだろう。
自分が植物を撮るとしたら、
表情の見え方なり、
構造の成り立ちに目が行き、
植物自体は見てないけれど、
この作者は植物自体を見ているのだろう。
また、外界と切り離しスタジオで撮影しているのは、
環境との関係ではなく、
植物と言う個を見つめるということだろうし、
その意味で感傷的な要素も除き、
ある種理系的とでも言うか、
そんな印象を受けた。

a 一回だけ取材形式で話したことがあるくらい。 b 2回

中村早

2013/06/18 - 2013/07/07 「Flower」

日常の中にみる花ではなく、
花一輪、もしくは二輪に照明をし、
花、及び植物を抽出している。
対峙する花と言うよりは、
花と言う成り立ちと向き合っている様な。
ただ、その始まりと言う感じはあって、
現実の花の先はまだない様な。
自分とて、まだその先は見えないけれど。
気負いはなく、変って来るのかなと言う印象。
出来るならば、
また、花を撮ってみて貰いたい。

a 一回だけ取材形式で話したことがあるくらい。 b 2回

LE DECO

中央大学 理工学部 写真会

2014.3.25-3.30 『卒展』

自分が展示とかを重ねるなかで、
ふと、
今の学生さんは何を撮るのかなぁ、
はたまた自分達との共通点はあるのかなぁ、
とか思いながら見ていた。
一つ大きく違うのは、
作品として並ぶ数が違って、
一点、多くても大小織り混ぜて十何点とかで、
一列に並べて20点とか、
グループ展と言うこともあり、
そこら辺がまず選び方の違いとしてあるのだろうと。
気になったのは野球の硬球の結び目を撮ったもので、
新鮮さはさしてないものの、
素直に良い写真だなと。
ただ、
自分では選ばないかなと。
並べようとしたときに、
変に浮いてしまうし、
一点で飾るからこその作品の様な。
野球のドキュメントとかならまた別だけど。
ちょっと話はずれるけど、
某カメラ店主催のコンペをまとめた本を貰って見たのだけれど、
基本一点で成立するのが前提だから、
撮れないなぁと感心もするし、
撮らないなぁと、
複数枚で並べるときに、
混ざりづらくも見える。
でも恐らくは、
大多数の人は、
写真をこのように、
一点で成立することを基本に、
捉えているのだろうと。
あとは技巧的な習練の結果を出すにとどまっている感じがなくはないのかと。
それはそれで全然悪いことではないのだけど。

a 面識なし b 初見

明治大学写真技術研究部

2014.3.25-3.30 「卒展」

自分達の展示にも混ざりそうだなぁと言う写真を撮る人が何人かいて、
ただちょっとプリントが甘いかなぁと。
あとはグループ展と言う条件のなかで、
少ない枚数にするか、
縦方向に拡がるかと。
ちなみに自分達は個展が基本となっているので、
グループ展に合わせた展示方法と言うのになれていなく、
どう個展と同じ様な印象になるか模索する傾向があるけれど、
グループ展等でこそ活きる、
そんなやり方の追求した人と言うのはどこにいるのだろうか?
もう一つ一点での成立か、
個展には写真が足りないから、
グループ展にすると言う印象があるので、
そう言うものを期待してしまうけど。

a 面識なし b 初見

PHat PHOTO 12J Group Exhibition

2013.7.16-7.21 「tomorrow+I」

基盤となる部分があると見やすいし、
逆にそれだけで終わるとつまらなく、
かといって基盤がないと思いつきで終わってしまうのかなと。
スタンダードなものをいつもやる必要はないけれど、
迷ったときに立ち返る意味や、
スタンダードなものができると言うのは、
どこかで見せておいた方がいいのかなと。
今回のに関してはスタンダードな写真だけに眼が行った。

a 面識なし b 1回

澁谷寫友會 第6回写真展

2013.7.16-7.21 「MOVE」

移動すると言うことをテーマにしたグループ展
その中で仏像を撮る人がいて、
時間軸での流れではなく、
視覚的な山を探す作業なのかなと。
入り口近くの海辺を撮っている人は、
単純に慣れていると言うか上手だなと。

a 面識なし b 1回

HARMAS GALLERY

今野健太

2014.9.13-10.18「にじり出す背 -Back out gradually-」

スタンダードな石彫の技法をもちい、
ドッペルゲンガーの様な像や、
膝と他が組合わさった様な作品。
確かな技術は見易くて、
それはそれで見て楽しいのだけど、
良くも悪くも完結して見えて、
逆にどうみていいものか、
困ったとこも。
うーん。

a 面識なし b 初見

高橋大輔

2013.7.6 - 8.10「絵の絵の絵の絵」

厚く塗られた油画は、
立体ではなく平面らしい。
油絵の具だからか、
混ざりきるその前、
絵の具であった面影をそのままに定着されていて、
それゆえにどこかパッチワーク的な要素も、
自分には感じられた。

a ギャラリーの人と顔見知り b 2回

mujikoubo

小野寺南

2013.8.6-8.18「前期」

被写体への依存がないのか、
はたまた行為としての意味合いが極端な強いのか。
はしないだろう。
かといって被写体が存在しなければ写真は存在し得なく、
レンズは何に対し向けられているのだろう。
強いて言うなら写真行為に対してなのか。
強くフラッシュの光をぶつけられたヌード
立体として複雑に絡んだ空間に、
作品は丁寧に展示され、
変にその場を支配しようとせず、
見ていて心地よかった。
それぞれの展示方法に対し、納得がつくような。
ホワイトキューブでも適切にやるのだろうけれど、
ホワイトキューブはやらない方がいいのかなと、
なんとなく。
むしろ美術館や、
今回のmujikoboのような場所の方がよさが際立つような。

a 知り合い b 4回

gallery 福果

GRAFグループ展

2013.9.2-9.14 「20130401」

今回ゲストとして参加していた、
元街道リぼんのメンバーだった松谷さんと佐藤さんの写真を見ながら、
佐藤さんは最初はスタンダードなスナップの印象が強かったけれど、
日常の要素が増えてきていて、
逆に松谷さんは日常の印象が強かったけれど、
スナップの方の印象が強まっていき、
そこらへんの違う方向性にあったようで、
共通している所があるのだなと。
特に松谷さんの方に対し、
スナップと言う印象が今回は強くあった。
あとは松井君がポラを部屋の雰囲気に合わせ、
上手に展示してあって、
松井君に限らず、
良い意味での遊び心を含んだ展示が上手だなと。
街道近くの人は。

a 知人 b 回

MEM

牛腸茂雄

2013.8.31–9.22「見慣れた町のなかで」

どこか色が強く残り、
色というものが流動的である特性を、
作家が死と関連ずけて意識しているのではという感じもした。 実際違うのだろうけれど。

a 故人 b 2回

bar鳥渡

グループ展

2013.12.16-12.30 「藪蛇」

作品の内容とは少し離れるのだけど、
広瀬さんがやっている鳥渡も、
展示を見る場所としてすっかり馴染んだのかなと。
要はここでしか見れない展示があるし、
出す側も力をいれて展示しているし、
ギャラリーとして認知されているような。
まぁ、何か注文はする訳で、
無料ではないのだけど、
もとい、無料と言うか、
作品の販売を指して目的にはしてないのだけれど。
今回は植村さんがお父さんの大気拳の様子を撮り、
坂巻くん叶さんが町並みを、
広瀬さんがご両親を撮っていた。
植村さんの写真はどこか北野武監督の映画のような武骨さがあって、
それがかえって良かったような。
坂巻くんのは、左下の写真が、
自分には撮れないなと。空間の扱い方と言うか。
叶さんのは知り合いが場所が見ただけでわかるようで、
そう言えば富士吉田市に移住した弟も富士山を見ただけで、
これはどこから撮った富士山だといっていたし、
大学の静岡出身の友達をにたようなことをいっていた。
写真はそう言ったそれぞれが持っていて、
旗から見ると何故この情報でわかるのだろうと言う部分を、
露にもする装置なり、
きっかけになるのだなぁとか。
広瀬さんは植村さんが夜の写真を出すといっていたから、
きっと可愛らしいのが来るのだろうと想定していたら、
大気拳をするお父さんが来たので、
急遽内容を変えたのだとか。
今回も含め、
広瀬さんは幅広く対応出来、
良い意味での遊び心を常に持っている感じで、
そこら辺がこのスペースの良さなのだろうと。
誰かが良い写真かは料理もうまくなくてはいけないと、
割りと滅茶苦茶な理屈をいっていたけど、
広瀬さんを見ていると当たってるなぁと思えてくる。
料理も大事、
と、
思った展示だった。

安部誠

2013.9.1-9.15「暗順応ー闇夜に霧の降るごと」く

デジタルでは全てが移ってしまうと、
敢えてシャドー部をつぶし、
ハイライトの部分のシルエットを強調している作品。
夜の、特に繁華街ではなく地元の商店街とかで見る夜の光は、
どこか故郷の情緒を思わせるなと。

a 知人の知人 b 初見

湊庸祐

good-bay

実力で言うなら自分たちの世代では群を抜いているだろうというのと、
まとめる段階での遊び心、工夫のしすぎで、
逆に良さを分かりづらくしてしまっている印象があるけれど、
今回は前者のみ該当していたような。
死にたいしての、子供の問いかけに対し、
写真絵本のような形式で丁寧に答えていた。
そして同じようにやろうとも、一枚一枚の力強さがあるので、
真似は出来ないだろう。ただ、人柄なのか、ピリピリした、
緊張感みたいなものをこれからどうやって出すかはあるのかなと。
単純な印象として。

a 知人 b 回

Nadar

高梨史生

2014.1.7-1.19「巡々 ~ぐるぐる~」

情緒に流さず、
幾何学的魅力でとらえているのかなと。
あとは、
あの会場には大きいサイズの額はやや窮屈だったかなと。
余白をもっと活かすような配置だと、
もっと見やすかったかなぁと。

a 初対面 b 初見

像の鼻テラス

グループ展

2014.1.18-2.2 みっけるフェス

動画としてみる映像が、
静止画の連続なのか、
動画としてみる人間の視線から、
抜き取ったものが静止画なのか、
なぞ考えながら見ていた。
参加していた鶴田氏の作品は、
静止画の積み重ねの動画のような印象だったし、
植村氏の作品は、
逆に、静止画をこういう視点でとっているんだと言う、
動画から静止画を思い起こさせるものだった。
他のさんか作家の作品は、
イメージに向かって作られていくような印象を受け、
ここら辺が写真家との方向性が違いかなと。
写真家は1枚とったものを、
1枚単位で見直す部分が、
どこかしらで強いのに対し、
他の人のはあくまで連続した流れが、
細かさの違いはあれ最小単位だろう。
楽しみながらやっているのだから、
不要なり蛇足になるのかもしれないけど、
ひとつの基準となる総括なり方向性があると、
より参加作家の個性が際立つのかなと。
良い意味での巨人軍みたいな。
主催者の意図はこうでした。
でもその意図を良い意味で、
どんどん裏切られました、
の、
ような流れと言うか。

冬青社

丹野 清志

2014.1.7-2.1「東京 1970-1990」

どこか、皆が整列してる中で、
はじっこの子がなんの因果もなく転ぶような、
そんなおかしさがあった。
それは一つには画面自体がしっかりし、
小さな不均衡を内包してしまうからだろうし、
もう一つには、
分かりやすさを拒み、
見ると言う行為を、強要するような、
モヤモヤした、
されど魅力的ななにかが溢れているからだろう。
そこら辺がこの展示における強かさなのだろうし、
勇気のいったところだろうと。
自分ならもう少し見やすい方に流してしまいそう。

a 覚えられてはいないだろうけど、搬入を一回手伝った b 2回

Gallery Jy

上野昌子

2013.01.15 - 02.03「cat theater」

ある一定のグリッド感は、
プリントにこだわる人の特有の空気があって、
ただ、内容にはピント来なかった。
飾るための写真に留まるような。
全体としての流れは見えなかった。

a 面識なし b 初見

TOKI Art Space

小松 浩子

2014.1.27-2.2

ギャラリーQと同じ展示、
同じ感想。
東京の巡回って意味あるのかなぁ?
早く新作を出せば良いと思う。

a 面識なし b 2回

DAZZLE

グループ展

2014.01.21- 2014.02.02「デコ トコノマ」展

掛け軸と言う方法を、
様々な作家にやってもらうと言った感じ。
ただ、
掛け軸の斬新をどう考えているのだろうなぁと、
と言うのが、
自分は他の場所の展示で感銘を受けた口なので、
そこら辺が少し寂しい感じがする、
と思っていたら、
掛け軸ではなく、
床の間を飾ると言うことだったよう。
でもやっぱりお題としてで、
床の間なり掛け軸の話で盛り上がれなそうなのが、
やや寂しい。

a 面識なし b 初見

床屋ギャラリー

床屋ギャラリー

2015年1月9日(金)~31日(土第11回モノクロ展 「2014年」

グループ展と言うのを、
さして見る習慣がない中で、
ちょこちょこ挨拶がてら来たりして思うのは、
一般的に浸透してる写真技術の現在と、
グループ展ならではの作家っていないのかなぁと言うところで、
とりあえず、
グループ展だから活きると言う人は、
今のところ見ないかなぁと。
展示自体は、
昨年亡くなられたギャラリーオーナーのお母さんが、
オーナーと旦那(要はオーナーのお父さん)とそれぞれに撮られた写真が、
何とも印象的だった。
うちの祖母と亡くなった年齢が近く、
会ったら気が合うのかなぁ、
やら、
なんやらかんやら思った。

a ギャラリーの人と知り合い b 3,4回

田嶋雅己

2014.6.6-6.29(金土日のみ)「炭坑美人」

炭鉱で働いていた女性のポートレートと、
インタビュー。
苦労や状況を嘆くのではなく、
生きるために、
その労力を費やした、
前を向いて生きた人は、
かくも生き生きとした表情を、
残すのだろうか、
といった、
流れが、
写真とそのインタビューとの、
関係性として適切なのかなと。
写真集を展示に置き換えたときの、
その形式とも、
言えなくもないけれど。
インタビューもすべて読みたかったけれど、
量が多かったので、
途中より断念。
まぁ、
写真集を買えばいんだろうけど。
こういうポートレートが、
自分でもとれたら良いなぁと、
そんな風に思った。

a ギャラリーの人と知り合い b 初見

武田貞子

2014.7.11-7.20「鬼子母神の猫」(金土日のみ)

鬼子母神に住みつく、
猫のいる風景。
前にみた写真集では、
そこに介在する人や生活が強く出てた印象があったけど、
今回は猫が主役。
猫にとってここは溜まり場なのか、
はたまた住みかなのか、
なぞ考えながら見てた。
若干点数を絞った方が、
見映えするのかなぁと思いつつ、
猫はやっぱりいいなぁと染々。
一人・気ままに伸びやかで。
あとは、
作者ならではの、
と言った枕のつく、
そんな特徴が出てくるといいかなぁと。

a 知人 b 2回

武田貞子

2014/2/14-2/23 「マルのいた夏」

下町やお墓に犬を散歩させている人を撮る視線は、
変に肩肘張ることなく、
作家自身の温和な人柄が出てるようだった。
恐らくは写る被写体も、
何かしらの知り合いなり、
親い関係の人だったり、
声をかけたりとかなのだろう。
アクセントとして、
光の中を横切る猫や、ナメクジ、
セミの脱け殻なんかのは入方がよかった。
強いて苦言を言えば、
お墓でまとめた辺りを、
もう少し、
くどいくらいに、
たんたかたんたんと、
メリハリを効かせた流れにしても、
良かったのかなぁと。
起承転結ではないけど、
そういったシンプルで分かりやすい組み立てかたと言うか。
並列的な要素を抜かして。
多分そうした方がより見やすいのかなと。

a 知人 b 初見

森美術館

アンディ ウォーホール

2014.2.1- 5.6「永遠の15分」

しっかりと作品を見たことがなかったのだけれど、
改めて見ると、
職人的、
デザイナーとしての基盤があって、
その上に成り立っている感じがした。
写真を元にしたペイント一つとっても、
その技法の新鮮さと言うよりも、
持ち得るものの扱い方が優れているのだろうと。
同じ技法を他の人がとっても、
他よりも魅力的なのだろうなと。
あとは、
合間合間に書かれている言葉が、
展示の中ではスッと入ってくるのだなと。
作家の言葉と言うもの、
あとはキャプション何かだと、
展示を見ることに対し、
変な先入観が入ってしまいそうで、
展示の最後に見たり、
距離をとりがちになるけれど、
今回のような形は良いのかなと。

a 故人 b 初見

Galaxy-gingakei

2014.3.14-3.23『ex.resist vol.2』

どこか大きく枚数を増やすなかで、
損してる人がいたような。
写真のない空間が、
良い意味で生きるように、
要は狭かったら、
空間が拡がって見えるように、
広かったら、
緊張感が保つ(間延びしない)様、
なっていたらよいなぁと。
空いている区間を無駄に削ってしまっていた感がある。
適切、と言うか、
その意味で見やすかったのは星氏と奥田氏だったかなぁと。
内容的にはそれぞれ楽しめた分、
そう言ったところが勿体ないような気がした。

a b 回

ガーディアン・ガーデン

2014.3.24-4.17 第10回写真「1_WALL」

性的自我や、
社会風刺や、
マイノリティ等、
色々テーマはあるけど、
単純に好きだから(ひかれるから)
撮影してるんでしょ、
と。
テーマを前面に出すと、
浅くなってしまわないかなと。
基本的にテーマは後付になるものだと思うのだけど。
(まぁ、空間として限られた条件の中の判断でしかないのだけど)
寧ろこのコンペと言うものは、
自分が素直に反応したものを撮影した行為を、
又は作品を、
それを社会と結びつける為に、
その訓練として、
あるのではないかかなぁと。
コンセプトは忘れて、
壁に掛かってるものだけで判断するなら、
若山氏以外は、
写真ぽくはないけど。
地震の人は、
スタンダードなプリントで額装だけど、
ミニマルに見せてるにしては、
画としてひかれないし、
女性をとった写真は、
飾り方が今っぽいなぁ、
に、
留まり、
この人ではないとと言う感じはない。
コードやら布やらが組み合わされていると、
一枚の写真として見せることは放棄して見えるし、
擁護的に言えば写真と言うものの概念を
方法論から作り直そうとしているのかなと。
、 ただ、そう言うのであれば、
もっと分かりやすく、
あとを引く感じに、
したたかに皮肉も利かせなきゃダメだと思うのだけど。
敢えて賞を与えると言う観点で見ると、
若山氏のでは、
決め手にかけ、
作品が欲しいとは全然思わないけど、
水島氏がとりそうな。
まぁ、
審査員がどういう意向なり考えを持っているかも、
良く分からないけれど。
自分だったら若山氏のを買い、
水島氏に賞を取らせる。
もしくは、
該当者なしと言う風に、
他の審査員をどうにか説得させる、
の、
そこ二つに一つかと思う。
飛び抜けた印象があるものはなく、
選ばなくてはいけない、
そこに説得力を持たしやすいのであれば、
水島氏選んだ方が作りやすい。
ドキュメントとして始まり、
(作者が被写体に出会い、被写体を撮影することのドキュメント)
画として奇妙キテレツに落とし込む流れと言う点で。

a 知人(若山) b

クロスロードギャラリー

2014.4.8-4.13 レジストー中
泉原延幸/伊藤 藍/大島由紀/小原龍樹

お墓、の、ある場所を撮った作品が、
何とも見ていて気持ちが良かった。
お墓はあるのだけど、
バリエーションなのか、
条件に引っ張られ過ぎてないのか、
お墓を見ながらその周りを見るのが楽しい。
お墓と言う題材から入ったけど、
写るものはお墓ではなく、
と、
伸びやかに続くような感じだと良いなぁと。
椎茸は、元々は裏側を見ていると気持ち悪かったそうで、
撮りながらだんだんその意識は変わり、
生命なり何らかの、
崇高な部分を感じるようになったのだとか。
そのとらえるものの程度は分からないけれど。
鹿の骨を使い花の彫刻を作る人の作品を見たことがあったけれど、
その時に感じた、
造形的に魅力的であると同時に、
実際の骨に対する畏怖、畏敬なりと
にた感覚なのかなと。
後はそれがどう拡がっていくのかなぁと。
椎茸に固執するべきなのか、
そこを軸に被写体なりの選択を拡げるべきなのかとか、
あとは当人が飽きないのが大切なのかなぁと。
個人的には発表するしない別にして、
同様の印象を受けるものも、
探しながらやってった方がよい気がするけど。
結果的にそれが椎茸に還元されたらそれはそれでよいのだし。
配達員を撮っていた人のは、
どこか散文的にやりすぎて、
印象としてまばらな感じがしてしまった。
軸となる部分がある程度分かりやすく提示されてないと、
見辛いかなぁと。
居酒屋の店主を撮っているポートレートは、
その被写体と作者との距離が近くに感じられ、
ポートレートはそう言った部分が分かりやすく表れるのだなぁと。
あとは、
ゴールデン街の店主なり店員を撮っているみたいだけど、
全部網羅してからの先のことを考えるとよいのかなぁと。
そこからどう展開するのかが、
もう一つ見えてこない部分もあり、
もし記録性に重きを置くのなら、
被写体との心理的距離の近さは、
やや危ういような気もするし、
その距離の近さを優先させるなら、
ポートレートにこだわらなくても良いのかなぁと。
引越し屋の人を追った作品は、
並列的に並べられて、
テーマとするところが見えてこなかった。
芯となる流れみたいなものは欲しかったところ。

a 一部知人 b 初見

こどじ

加藤典子

2014.5.1-5.15 「1980 竹の子族」

最近は自分の撮影でも、
意識するところではあるのだけど、
色、を、意識したとき、
自分は赤に時代性なり、
諸々の思い入れを重ねるところがある様で、
どういうわけか濃い赤を観ると、
時代なり郷愁を感じる。
多分それは、
どの時代にもあるからで、
回りとの関係性で、
その赤が同じにして違って見えるからなのだろうと。
同様に目についた紫や黄色を見ても、
何故か印象に赤が残る。

a 知人 b 2回

ツァイトフォトサロン

北井一夫

2014.4.25-5.31「村へ」ーヴィンテージプリント展ー

自分が知る村へは、
どちらかと言えば冬青社より出ている、
写真集のイメージが強いのだけれど、
それよりも良い意味で荒く生々しい。
変に固まってないと言うか。
時が経ったことを、
どこか実感するようで。

a 面識なし b 5回

東塔堂

佐久間元

2014.5.19-5.31「そこへゆけ」

作者のモノクロは見過ぎているからか、
なんか自分の見え方が多分、
おかしくなっているのだろうなぁと。
何度見ても昔と変わらない感じ。
ギャラリー小部屋?みたいなところに、
わーっと貼ってあるのは、
窮屈な感じがして良くないのかなと。
しばらくはモノクロのは意図的に見ないようにしようかと。

a 知人 b 17回

Locker room gallery

牛垣嶺

2015.2.17-3.8「気吹」

街のスナップから祖父の自宅まで、 様々な作品を出すなぁと思う一方で、 作者の視線からのもれていった様な広がり、 要は意図せず画面の中に定着した部分が弱いのかなぁとも。 言えば全部をコントロール出来ている様な気もするし、 作品も魅力的ではあるのだけど、 もう少し投げやりな感じでも良いのかなぁと。 その一方で知り合いとかは、 スクエアフォーマットであるならば、 画面の垂線とかにもっと気をつけてほしいとも言うし、 見方は色々ではあるのだけど、 写真て勝手に否応なく写るもんだし、 そこら辺をもっと楽しんでも良いのかなぁと言うのを、 個人的には思う。

a 面識なし b 3回

牛垣嶺

2014.10.21-11.9「時のなごり」

前回は人が入っているのが、
何やら縛りとして存在してる様な 印象があったけれど、
今回はなんとものびのびした印象で、
一枚一枚の画としての良さが、
際立って見えた。
そうすると今度は、
プリントにもう少しスタンダードな階調性が加わると良いなぁとか、
そんな所も気になったり。
まあ、
無い物ねだりの程度だけど。

a 面識なし b 2回

牛垣嶺

2014.6.24-7.13『地景』

"派手さはなく気づきにくくとも、
都市部ではない住宅街などは、
急速な変化をしている"とを受けて、
その変化を持つ土地と、
その土地に暮らす人とが描かれていた。
大胆に土地を前面に捉えつつ、
ピントは人へと合わしている。
律儀に人を全部に入れなくても、
土地や風景だけでも良いのかなぁと、
そんなカットが複数あった。
逆に良い写真が映えなくなってしまうような。
良い写真がすこぶる良いだけに、
なんかそこが残念。
あとはプリントにもっと意図を持ってやってもいいのかなぁと。
均等に綺麗に焼く感じで、
もうちょっと良い意味で遊んでも良いのかと。
やりすぎはくどくて良くないけど、
もうちょっと位は。

a 面識なし b 初見

The white

タカザワケンジ

2015.1.16-1.17「 CARDBOARD CITY 」

DMの写真にひかれたから、
足を運んだのだけど、
DM以上の感慨はなかった。
写真が悪かったとは思わないのだけど、
アプローチなり、
写真に対しての求め方が、
何か自分とはまるで別の所で、
大きく伸ばされた二点と、
四切りか大四くらいの、
何段かに並べられた写真は、
ステートメントの素材にしか見えなくて、
写真が主役にはなってないなぁと。
一点一点をもっと映えるように見せていたら、
好きな展示だったろうになぁと。
あとは自分には、
大きく伸ばしたからと言って、
細かいところに眼が行くと言うのは、
何か違和感があって、
と言うのは、
キャビネ位で、
写っている情報は十分見れる気がして、
大きく伸ばした作品に対しては、
必然性を求めたくなるし、
今回のは少なくとも、
DMの方が、
実物よりも良かったと思う。

a 面識なし b 所見

外久保 恵子

2014.6.24-7.5「 ことの中途に 」

街、生活の中の、
幾何学的造形といった感じ。

a 面識なし b 初見

Roonee

伊藤藍

2014.9.23-10.5「日本で生きる」

日本にあるお墓のある情景を撮り歩いた作品。
コンセプト的なのは明確にあるのものの、
それが変に目立ちすぎはせず、
写真としてひかれるのは良いなぁと。
情景の中でお墓が主張しすぎないと言うか、
えらく馴染んだものに見える。
近い印象を抱いたのは関口氏の、
JUSCOで、
あちらもコンセプトどうこうよりも、
画としてひかれるのと、
ジャスコがうるさくないのと。
どちらもこの次はどう展開していくのかなぁと言う、
疑問はあるけど、
展示としては強くひかれたなぁと。

a 2回ほど会場であった b 2回

鷲尾和彦

2014.7.29-8.10 「To the sea」

海に写る人々は、
例外はあれど、
顔は海を向き写らず、
漠然とした何かを、
見る視線なり情景なのかと。
変にくどくはなく、
見やすかったのはあるけど、
逆にもうちょっと構成として、
明確な狙い、
ぴりぴりした部分があっても良いのかなぁと。
コンセプトなり地震に近づけるのでは決してなく、
画としてのしたたかさと言うか。
まぁ、
さじ加減は難しいけど、
大人しい印象は若干。

a 面識なし b 2回

Gallery photo/synthesis

平賀淳

2014.9.13-9.28「花街2013」

ずっとタイトルで使われている花街の、
その範囲と言うのは決められたりはするのか、
要は写真としては良いのだけど、
花街としては合わないから、
外すと言う流れはあるのかなぁ? と、
聞いてみたところ、
生と死のうねりと言うか、
そんなニュアンスで撮ってるらしく(うろ覚え)

特にこう言うのは避けてるとかはなく、
出たとこ勝負とのこと。
大きく伸ばした三枚は元々のイメージにはなく、
花街はある種の仮想の街を構築してるのかなぁ、
なぞ思ったり。
分からないけど。

a 知り合い b 回

グループ展

純粋な写真としてと言うよりかは、
動的・身体的な表現とを、
介する部分としての写真なのかなぁと。
天井が高いのを活かすかのように、
どの展示も段組になっていたのだけど、
ちょっと横に緩く広がってしまっているような印象はちらほら。
もう気持ち横方向につまっていても良いのかなと、
緊張感と言うか。
空間的なあそび(余白)が何だか気になった。

poetic scape

原芳一

2014.9.27-11.3「光あるうちに」
poetic scape

SMやストリッパー、
そう言ったもののが、
日常に昇華されると言うか、
溶け込む、
日常として当たり前に在して見えるのが、
この作家の基調となるのかと、
個人的は思っているのだけど、
何かその逆を、
今回の展示ではしてるような感じが。
セレクトはギャラリーの人がしてるそうで、
そう言った部分もあるのかなぁと。
そんなことを考えながら、
写真集を改めて見るといつもの印象。
展示のセレクトもそこまで偏ってる訳ではない感じで。
それでもなを、
何がしらの違いはあるのだろうし、
その部分に、
ごじごじ固執しているのだろうなぁと、
我が身を振り返ったりした、
そんな展示。

a 顔見知り b 7回位

国立新美術館

日展

2014.10.31-12.7

知り合いからチケットを貰ったのが、
そもそものきっかけではあったのだけれど、
見馴れていない系統の作品を、
これだけ大量に見ると言う機会も貴重で、
自分がどう言うものに反応する傾向を知ると言う意味でも、
何とも面白かった。
まず絵画なのだけど、
洋画、
日本画関係なく、
具象的なものが相容れなくて、
と言うのは、
どこか写真として見る傾向がある様で、
写真と見ると画作りが、
くどいか平坦の二極化された感じがあって、
何が描いてあるのか一見すると分からない、
抽象に近く見えるのはすんなり楽しめるのだけど、
他のは何か見づらかった。
何も写真の画作りの方が優れているとかではなく、
写真として映える画作りと言うのは、
ある気がして、
絵画には絵画特有の傾向と言うものがあるのだと思う。
描かれるテクスチャーとか含め、
本当によくぞここまで、
と、
素人目にも圧倒される部分は、
それぞれにあるのだけど、
何やら写真を見る感覚を引きずって、
そこに目がいきにくい。
あと絵画で思ったのは、
滑らかに、
写実に近い感じの絵は、
逆に現実感を削ぐのかなぁと。
何らかの不純物が、
そこにリアリティをもたらす、
みたいなことは、
知り合いの音声さんが先輩に言われたらしいし、
自分でも思うこともあるので、
多分そう言うものなのだろうと。
全体を通してひかれた、
または単純に楽しめたのは、
彫刻で、
写真を撮るときと同じで、
人と言うものをみると言う感じで、
渋谷のスクランブル交差点、
よりかは少ないけれど、
会場を埋め尽くした彫刻の人々(像)は、
それぞれに個性的で、
同じ様に彫刻で、
あとは視線の端にみる像は、
実際見にきた観客との区別がつかなくて、
そう言った意味でも面白かった。

a 知人の知人の作品が一つ b 初見

bankart

グループ展

「Group Exhibition Vol.2 HAKKA」 12.4-12.9

知り合いが参加していたグループ展示。
若山氏のは、
段組で塊で見せるよりは、
スタンダードに並べて、
一点一点見せた方が良いような。
飾りっ気ない中での作品の様に思うので、
ごちゃっと見せると、
良さが見えづらくなってしまうような。
松下さんのは、
何かその先があるのかなぁと、
勝手に思ってみてた。
春日氏は何やら改名してた。
主催者の人と少し話して、
何がしらの目標、
目的として、
展示があれば、
写真活動にも良い影響があるのではと、
これからも三年に一度やるとのこと。
気持ちもよくよく分かるし、
頑張って貰えればとは思うのだけど、
こう言うグループ展に関しての、
温度差と言うのは、
参加者それぞれにあるだろうし、
どこに合わせてやっていくのが適切なのかなぁと。
他で個展してる人もいるだろうし、
ここでの展示だけの人もいると思う。
展示の意義を考えるなら、
そう言った(ここだけでやっている)人の為にあるような気はする一方で、
展示全体としての向上もなくてはならなくて。
組織としての活性を考えたとき、
どうするのが良いのかなぁと、
そんなことも考えたりした展示だった。

a 知り合い・顔見知り(若山・松下・春日・蔵~敬称略~) b グループ展自体は初見

横浜美術館

ホイッスラー

2014.12.6-2015.3.1
「横浜美術館開館25周年 ホイッスラー展」

母親の肖像を描いた作品が見たかったので、
それがないのは少々残念だったけど、
あまり意識してなかったエッチングやドライポイントなどの線描がすこぶる良く、
特に画面構成とか単純に格好いいなぁと、
そう言ったものが下地としてあるのを意識してみると、
柔らかな、
輪廓の曖昧な風景画も、
すこぶる良く見えて来るのは、
不思議なもので、
期待のものとは違った(と言うか母の肖像を見たいが為に行ったのだけど) 何とも見応えがあった。
音楽が音の詩であるように、
絵画もまた何らかの主張を代弁するものではなく、
色や光の調和そのものが、
そこに存在としてある(うろ覚え・意訳) と言うのを、
芸術のための芸術としてしまうのは、
何やら違和感と言うか、
閉塞感があるようで他の言葉が必要ではないかなぁと、
個人的には思うのだけど、
まぁ、
何らかの代弁の道具ではなく、
絵が絵として自立しない限りは、
描き手の手を離れたら、
価値がなくなってしまうと思うので、
そこら辺は写真と同じかなぁと。

a 故人 b初見

studio sori

小谷野真有

2015.2.7-2.15「胎内潜り」

前回同じ場所で他の人の作品を見ながら、
展示が難しい場所だなぁと思っていて、
どういう風にやるのかなぁ、
と、
思っていたことを忘れるぐらい、
空間とよくあっていた。
いやはや上手だなと。
展示に対するこだわりも人それぞれで、
写真の場合、
これだけの写真を用意すればどうにかなるだろ、
と言う言い方は乱暴だけど、
展示方法を前提に、
作品を構成すると言う人は少なく思う。
あくまで空間構成は、
主たる作品の添え物、
と言う扱いの様な気がする。
主体となるもの、
その根本となる源流は、
なんやかんやで多くの人は、
本なのかと思う。
一回知り合いが人に見せるからと、
bookを作って渡した所、
展示風景がなくて、
展示が良く分からないと言われた。
それ以来展示風景は残す様にしているのだけど、
写真の場合であれば、
bookは作品(写真)だけで充分と言う認識はどこかあるし。
自分が出来そうになく思える分、
この作家が作った空間を見るのは、
何とも楽しいし刺激になる。
自分ならどうするかなぁと、
そんなことを考えるのが楽しくなる様な、
そんな展示だった。

a 知り合い b 6回位

佐久間元

2015.1.24-2.1「のすり」

前に見たときより、
プリントが濃くかたかったのと、
新作が数点あったけど、
今回の印象の核にはなってないなぁと言うのが、
率直な感想。
どんな人に見て貰いたいのかによって、
これでも良いかとは思うけれど、
前に見たことある人が来た時の想定はしてるのかすら? あとは、
空間に対してプリントや構成をどうすると良いかと言う所が、
甘いのか考えてないのかはてさて。
同じ作品でも場所が変わったら見てみたいと言う人もいるけど、
今回のは違うかなぁと。

a 知り合い b 18回

本の感想

古本屋が知り合いに多いのに、
本は殆ど読んだことがなかったです。
30過ぎてから少しずつという感じです。
だから素人がグタグタ言っていると思ってもらえれば
本が好きな友人に進められたのが多いので、
組み合わせが変な感じです。

吉本隆明

わが転向

元々、知り合いの古本屋さんに読んだことある?
とよく言われていて、
他の古本屋さんで見つけてみたので真偽を読んでみて、
読みやすかったので読んでみた2冊目。
あとから聞いた話だと、
読みやすくなったのは後期からで、
元々代表的なのは難解だったのだとか。
まぁ読み始めの選択としては間違ってなかったのだろう。
真偽を含めるところで、
読んでみて惹かれたのは、
物事にはすべて良い面悪い面がある、
と言うどこか当たり前のよな主張ながら、
それを読み深め提示してくれるところで、
マルクス主義等について語られると、
自分が右も左もよくわからない(右翼や左翼の違い)ので、
どこかポカンとしてしまうけれど、
自分との生活の中で活かせれそうな、
イメージ的なリンクもあるので面白かった。
あとは誰でも分かりやすいのは、
水を売るようになったことに対する考察とかなのかなと。
あと、第一次産業(農業、漁業)、第二次産業(工業)
より中心が第三次産業(サービス)となっている現在、
全ての大衆が節約に走ったら経済を破綻させ、
首相を降任出来るという内容の下りは、
クーリエジャポンで一回特集していた、
フェイスブック等で呼びかけて、
大手企業にその姿勢批判する力を
大衆が持ちうるという話とかに通じるのかなと。
(大手銀行の口座を一斉に信用金庫に移し変えるキャンペーンを
大学生か誰かが呼びかけ、企業の運営姿勢を批判したらしい)
今の所読みやすい。

福永武彦

忘却の川

ひたすら重苦しい内容の中で、
現在と過去を明確な区切りもないままに、
時間軸を行き来する。
ただそれでも混乱することはなく、
どこかテロ・アンゲロプロスのようだなと思いながら、
何の希望もないまま話は進み、
最後に提示されるわずかながらの、
安堵によって全て救われたような。
絶望的な状況の中にも、
希望と言うものは必ずあると言った読後感で、
時間をおいて何回も読んでる。

保阪和志

草の上の朝食

元々ドラマ等の枷と言うものが駄目なたちで、
変な事件なんか起こさなくて良いよと、
上手く行けばそれでいいじゃない、
と、
昔より何も起こらなく順調なものをみたいと思っていたけれど、
そんなドラマあるはずもなく。
全て順調に行くドラマなんて、
人の惚気話を聞くのが退屈なのと同じなのかもしれないし、、
逆に自分が惚気話とか聞くのが
全然苦にならないからなのかも知れないけれど、
草の上の食卓はそんな惚気話の様な話。
されど読んでいて飽きることもなく、
どちらかと言えばエッセイ的な要素も強いのだろうか?
先を読み進めたいというよりは、
ずっと読んでいたい様な、
不思議な心地よさがあり、
基本的には読むものがないと
忘却の川と草の上の朝食を、
永遠とループさせて読んでいる。

アルベール・カミユ

異邦人

本を殆ど読めない中で、
何とか読みやすいものはないかと探して、
自分ではじめて買って読んだ本。
昔読んだからよく覚えてないけれど、
文体が読みやすかった様な。

庄野潤三

静物

準備中

夢野久作

瓶詰地獄

瓶に詰められた手紙の中には、
無人島で二人で遭難した、
兄妹の手紙が入っていて、
時系列はさかのぼるように手紙が読まれていく。
シンプルな構成の中に、
人間の成育に伴う業的な葛藤が描かれ、
最後の小さな頃の手紙に寄って結ばれる。
人間が成長とともに余分なものが増え、
終焉に近づくとともにそぎ落とされる人生の流れが、
青年時の手紙を基点に、
三椏に分かれる様に進む様な。
(肉体的には遡り、精神的には終焉と誕生へと近づく)
ドグラ・マグラを読む前に、
その世界観に触れる入門書としていいのではないのかなと。
ドグラマグラは途中で挫折してしまっているけれど。

ケイトモス

KATE MOSS -

昔知り合いが、
よくこの人のことを話題にしてたなと、
懐かしさ半分、
単純に知らないからと読み始めてみた。
自分は疎いから良く分からなかったけれど、
この本の中ではモデル業界の転換期からのアイコンとして、
長い間第一線で活躍し続けている人の様。
自分はリュシアンフロイトの描いた、
絵画のイメージが強かったけれど。
冒頭に薬物スキャンダルに触れ、
それから半生を振り返っていく中で、
諸々の両面を描きつつも、
最終的には今もなを活躍していることにおちつくなかで、、
(出版当時。現在もそうなのかもしれないけれど調べてない)、
薬物を含めた影の部分を、逆説的な肯定として描いている。
マネージャーか誰かビジネス的に近かった人が、
”荒れた生活のことは知らなかった、
仕事に対する姿勢はきちんとしていて、
少なくとも見える部分は完璧にこなしたいた”
みたいな旨の内容が自分には印象が残っていて、
目的が達成されるならその過程は意味を成さない、
(暗に達成された内容にその過程は全て繁栄されるから
最後に対して判断すると言う感じでもあるけれど)
と言うのが自分の中であるので、
ゴシップ的な内容はさしてどうでも良くて、
まぁ一人のモデルの伝記というかんじ。
さらさら読める。

中平卓馬

なぜ植物図鑑か

自分が学生時代に考えていた内容とテーマが近かったからか、
わりとサラサラ読めた。
自分が考えていたのは報道についてだけど。
大学では報道写真部と言うものに所属していたので、
報道か否か、という議論が発表する写真に対し、頻繁に行われていた。
そしてその議論の末、発表されない作品もしばしばあり、
そのことに対する反発も強くその反動で、
自分たちの代になってから急に緩い感じにもなった様な。
部の中で報道写真を規定する中で、
非演出、人に伝える意義、客観性など、
現在メディアにおける基本的な条件があり、
ただ発表する写真においても、、
焼き込みや、トリミングと言ったものは当然のように行われていて、
目立たなくしたとしてもそれは演出に思えてならなかった。
つまりは完全な非演出ということはありえなく、
また、どこまでを演出とするかと言う線引きをすることも無理なのではと考えていて、
たとえ現実を湾曲しないようにと言う観点からであれば、
まず現実はモノクロではないし、
カラーとて、現実の色と寸分たがわぬとは言いがたく、
もとより人間の眼の個体差で考えても、
同じ色と言うものは存在し得ない。
結果的に学生時代に自分のだした結論は、
情報を伝えることにおいて明確にその役割を示せるものが報道となり、
それは今となってもさして相違はない。
ただ今になって思うのは、
非演出、客観と言った条件はあくまで、
報道における信用性をどう保つかという意味において重要視されたのかと。
だから信用を保てるのであれば主観的でも演出しようとなんら問題なく、
むしろ情報伝達の意義こそが重要であろうと。
そう言う個人的な経緯もあり、
本に記述されていた中平さんの作品の基本姿勢、
”全ての映像は(劇映画であろうとも)全てドキュメンタリーである”と言う内容は、
ものすごく分かりやすい気がした。
ちなみにドキュメンタリーとは事象の再現を意味し、
一般の人は記録映像とドキュメンタリーを混在しているがゆえ、
やらせだなんだと過剰に騒ぐのだろうし、
そう言った説明を現在の報道機関がきちんとしているかと言えば、
していると言う印象はあまりない。
また、本の中で、特に強い共感を覚えたのは、
”表現が現実と乖離し、表現の為の表現となり、
その行為の意義、つまりは目的の欠如がある・意訳”との内容で、
それは表現を仕事にも置き換えも出来、
”仕事が現実と乖離し、仕事の為の仕事となり、
その行為の意義、つまりは目的の欠如がある”とも言える様な。
(要は生活費を捻出するだけに固執する、その先がない)
本の中では表現に携わる人全般の課題として扱われていたけれど、
自分には、社会に生きる人全てに共通した課題として、
また、表現と社会への関連を見つけ得る要素も、
(筆者の意図とは違うのだろうけれど)往々にしてあるかに思われる。
またウィキペディアにて、
”1960年代後半から1970年代前半の日本の写真評論を語る上で、
欠かすことの出来ない評論集”とある中で、
書かれた内容の実践が行われず、
むしろ批判された行動を現在も続けている人らがこの本を語るとき、
一体何に対し欠かすことが出来ないといっているのかが不思議。
それは中平さんの写真を良いといいながら、
結局はその内容の本質的な部分が伝わらない、
作品における扱われ方の不遇さを見る資料の一旦としてもあるのかと。
基本的には中平さんの制作理念を表した本、資料であり、
作家としての説明責任として、あえて出した本だという感じがする。

地方と都市の考察

ここは基本的には、
西脇に移った後西脇と東京を比較しながら、
出来ること出来ないこと、
いい面悪い面を西脇で考察する為の内容です。

行く前に考える地方へのイメージ

西脇に移住しようとした時に、
現在との生活と何が変わるのかと言うのを考えたりしていて、
まぁ結局は住んでみないと分からないということもあるのだけれど、
とりあえず思うことを、履歴として。

あと、よく勘違いされるのだけど、
移住をしようと思ったのが311の震災より1年くらい前なので、
放射能を避けるとかでの話ではないと言うのと、
漠然として田舎に対する憧れ、
要は自然豊かなスローライフ的な生活を求めてではない訳で。
基本的には都市部集中型の「状態」があまり好きではなく、
好きなところに住めばいいんじゃないかと言う中で、
それを東京にいながら考えても限界があるとか、
まぁ思うなら思う人がやってみるべきかなと。
それと行って駄目ですぐ東京に戻ってしまうのも良くないかと、
のんびりのんびり準備をしてきてるわけです。
西脇にはあくまで永住が目的。

とりあえず諸々分野別に。

食事
正直、地元でとれた物を地元で食べるのが一番美味しいと思うので、
味自体は東京よりも美味しいと思います。
前いた会社の福岡の人に話を聞いたところ、
東京の味の悪さに驚いたと言ってました。
美味しい物はあるのだけれど、値段が高いとか。
要は東京はいろんな種類を食べれるのだけど、
環境を無視しているのだから味は落ちるような。
あとは美味しくしようとすると高くなりますな。
あとは僕はぜんぜん気にならないけれど、
西脇は醤油が鹿児島と同じで甘口のものです。

写真
自分の場合は写真を撮っているのですが、
東京では殆どヨドバシカメラでフィルムや印画紙も買いますが、
多分ヨドバシかメーカーから通販で取り寄せることになるかと。
もともと印画紙やフィルムは中を見るものではなく、
使いながらどの印画紙を使うか検討するので、
大して影響はないかと。
ただ、撮影やプリント中になくなった時、
若干の時間差はあるのかなと。
ただまぁそれも東京もコンビにみたいにあるわけではないし。


東京だと池袋の額屋さんにいつも頼むのだけど、
そこら辺は見つけないといけないのかなと。
ありものではなくこちらの任意のサイズを作ると、
逆に高くなるのかも。


割と無難な内容になってしまうのかと。
徳島から東京に来た本屋さんに聞いても、
あまりにマニアックな物は売れないというのと、
知り合いの出版とかの人も、
サンプルだけボロボロになって返品されるだけだから、
と、遠くまで卸さないと聞いています。
売れないものに場所をとれない、
誰にでもそこそこ売れる物と言う感じで、
癖のあるものは中々扱えないのかなと。
ただ、癖のないものはやっぱり味気ないとも思います。

展示
東京ではふらふらと展示を見て回ってますが、
その数は減るのかなと。
毎週毎週新しい内容に更新されるギャラリーが、
これでもかと言うほどある東京の状況が特殊なのかと。
ただ東京だからと言って質が高いかと言うとそうでもなく、
あくまで展示している人の問題のような気がします。
発表で考えると、
どんなに仲の良い人だとしても、
気軽にほいほいとはこないかなと。
ましてや期間が1週間2週間では行きたくても行けないような。


東京では干渉しないことが礼儀とされがちなのに対し、
地方なのか、西脇や関西がそうなのか、
その範囲がわからないけれど、
基本的に行動で示してくれる感じがします。
あとは東京は街中では知らない人が殆どだから、
価値観の統一が難しく、
距離をとりがちな気がします。
逆を言えば誰でも受け入れるけれど、
助けてはくれないみたいな感じかと。
酔っ払いが道端に倒れていても、
声をかけないで素通りする人が大半かと。
知り合いなら勿論声をかけるなり、
助けたりしますが、
基本他人だらけなので。
あとは東京では物や情報があふれているので、
自分でどうにかしようと言うより、
自分の求めるサービスを探しに走る傾向があるような。
ちょっと工夫すれば自分で出来ることも、
人に頼みがちの印象が強いです。
習慣として乏しいからか、
工夫するアイデアにオリジナリティや見事さはあんまり感じない。
逆に西脇の人は自分で工夫するのと、
仕上げが綺麗だなと。

メディア
西脇を訪れたときテレビをあまり見てなかったから、
なんともわからないところも強いのだけど、
紹介されるイベントの多くが、
関東周辺になっているイメージがあるのだけれど、
あんま見たことないからよくわからない。

他に実際地方に住んでいる人に話を聞いたところ、
地方に住んでいると知りたい情報は自分で調べないと入ってこない。
逆に要らない情報も入ってこないとのこと。
あとはコンテンツのバリエーションが少ないと言うところはあるのかもなぁと。
ただ質の部分はその土地その土地の問題で、
東京故の質の高さと言うものはないような気がします。
ただ、人口の多さから、
マニアックなものや、お金のつぎ込める額は大きいのかなと。
あとはイベントの多さなのかなと。
今のところの印象として。

観光業に対して

NHKの朝のドラマの海女ちゃんを見ながら、
町興しの為に登場人物達は観光業に力をいれていて、
主人公がそのアイコンになるのかなと、
知らんけど。
町興しの為の観光業と言うのに、
自分はどこか懐疑的で、
観光業は観光業で全然良いのだけれど、
観光業だけでどうにかなるものなのかな?
と言うところをよく感じたりする。
知り合いが島に一年移住しようとして、
観光業の盛んな夏場は良いのだけれど、
冬場には働き口がなく居候のようでいづらいからと、
帰ってきたのを考えたとき、
観光業とともに、
その土地に住む人の環境と言うものにももっと、
眼をむけるべきなんだろなと。
と言うか本当はそういうことを分かっていて、
その前段階として観光業があって、
そして観光業で手一杯となり、
住むためのコンテンツも増えず、
結局住人は増えないみたいなイメージが、
自分の中ではある。
おそらく実際は違うのだろうけれど、
そこら辺はやっぱりこっちからは良く分からない。
強いて言うなら住宅を無料で貸し出す場所はあるんだろなと。
あとは住めば都と言うけれど、
暮してみるとどこでも現状で過ごしやすいものなのかと、
多少の不満はあれど。

住む場所と行く場所

たまに知り合いに声をかけてみてみると、
旅行などでいないことがしばしばあるのと、
もとより知り合いの写真家さん等、
知り合いの誰かしらが、
いつも住んでいる場所以外の所にいるのではないのか?
みたいな感じがする。
でも気がするだけで実際はそんなことはないのだけれど、
休暇がとれると旅行をするわけで、
住んでいる所が良いから絶対離れたくないというのは稀な気がする。
つまりは住みたい場所と旅行に行きたい場所とは違うのだろうと。
また自分が西脇に住みたいです、と、地元の人に言ったとき、
旅行でくるのと住むのとは違う、その認識はした方がいいとも、
間接的に言われ、
それは至極ごもっともな意見だと思う。
関連したところで、
昔長崎に行ったときに地元の料理が美味しかったのに、
何故か東京ででも食べれそうな凝った料理が出てきて、
それもしょうがないような気もするのだけれど、
水をさされた気になったことがあった。
逆に地方の人が東京に来たとき地元の料理が出てくると、
がっかりすることも多いのだろうなと。
知り合いの香川の人はうどんについてやたらと文句を言っていた。
あとは粟島に行ったとき、特にこれといった施設や場所がなくても、
すごく楽しかったりもした訳で、
何かコンテンツを求めていくのではないのと、
旅先では不自由さというものがさして苦にならなく、
それはおそらくは、
旅に求めるものが非日常であるからなのかとも思う。
だから凝った料理、を、東京で食べているわけではないけれど、
長崎のときはどこか日常に引き戻されたのかもしれない。
ただ、非日常を求めるだけでいいのであれば、
観光客と言うものはどんな過疎の村にでも足を運ぶのかと言えばそんなことはなく、
不便さを気にしないとはいっても、
不便さを求めていくわけではないわけで、
必要最低限のものと言うのは求めているのかなとは思う。
旅館とお土産、あとは最低限の交通機関位は欲しいのかと。
というよりかは無数にある街や村や都市の中で、
あえてそこを選択するアイコン的なものは必要なのかと。
ちなみに自分にとって西脇は行きたい以上に、
住みたい気持ちが強かったので移住しようとしているけれど、
京都や奈良は旅行先としてとっておきたい街として存在している。
勝手だけど。

案内所

知らないと土地に行った旅行者が、
と言うと漠然としてしまうのだけれど、
たとえば写真をやっている人が関西に行ったとき、
どこを回ればいいか、または、
誰に聞いたら一番自分の得たい情報を得られるのかと。
理想で言うなら同じようなこと(写真展巡り等)をやっている知り合い、
なのだろうけれど、全国どこにでも知り合いがいるはずもなく、
そう言うところで無難とは認識しつつも無難なコースを回るのかと。
地元なのに地元を知らない、
と言うのは往々にしてある気がするのだけれど、
意外と地元の施設に足を運ばないことがあって、
むしろちょっと離れたくらいの場所の方が詳しかったりする様な。
ちなみに自分は家の周辺よりも、
清澄白河とかの方が詳しいと思います、
少なくともお店とかに関して言えば間違いなく
本と近所だと言えかえって自炊してしまうので。
まぁ、そんな自分のことはさておき、
たとえば自分が知らない土地へ言ったときに、
現地の人があすこいってここ行って、ここ行けばいいと、
とりあえず一日の予定をさらさら答えてくれたら、
わりとどこに行くのも苦にならないのだけどとか。
名古屋に行った時はギャラリーの人が周辺のギャラリーを案内してくれて、
すごくありがたかった。
まず一人で行ったとしても殆どが見つけられないと思う。
教えられても迷子になったわけだし。
だからくまなく知っていて欲しいとは言わないけれど、
誰が一番詳しいかというの位は全員認知して欲しい所で。
とりあえず西脇に行ったら、
来た人のスケジュールの提案がさらさら出来るように、
ひたすら街を回ろうと。

完結した基盤

知り合いとの会話の中で、
地方において、
地方で完結しないが故に、
東京へと身をおこうとするのかと、
言うのがあって、
特に表現の世界において。
東京はある程度完結してしまう、
要は逃げ場のなさ、
東京でここまでならば、
自分の状況はここであるのだろうと言う、
良い意味での諦めを持てるのに対し、
比較としての状況、
反応なり展示の先の展望が表れやすい印象が、
東京の吸引力であろうし、
地方のよさを見逃させている原因だろうと。
地方でやろうと、東京でやろうと、
大差はないと思うのだけれど。
ゆんぼくんという漫画の中で、
自分の家が貧乏なのかと、
不安がる主人公に対し、
母親が、
今食べるものに困っているか?
雨風を防ぐ家がないのか?
と言った否定を前提とした問いを投げ掛け、
それだとしたら、
もし現状として自分達が、
貧乏であったとしても、
何が困るのだろう、
と言うやり取りに似ている。
東京でやっていても、
自分が望むほどの人は来ないし、
作品も売れたりはしない。
地方より憧れた高嶺の花は、
東京でも等しく高嶺の花で、
手にしなければ同じであると言うことの認識を、
どこかで拒むところに起因するような。
個人的に完結した、
一つの理想の形は、
地元の人に足しげく来て貰える、
小料理屋だと思うのだけれど。
あの人たちは不特定多数多の人ではなく、
目の前のお客としっかり向き合い、
そこで完結している、
完結していると言う言葉は、
ちょっと違うのかと思うけれど、
変な憧れも卑屈さもなく、
自分の料理に自信を持ってやっているように思える。
そう言った完結した基盤があるものが、
ふとしたとき、
遠く、
多くの人を魅了する、
と言う意味での拡がりが良いと思うのだけど。
ただ、
自分はまだ東京しか知らないので、
それだけでは終わらない、
何かがあるのかもしれないし、
青臭い理想論なのかもしれないけれど、
現状の印象として。

在るもの

この間、西脇に場所を借りに言ったところ、
地元の人に、
何にもないですよ。いんですか?
と言われた。
実際何にもないなんてことは全然ないのだけど、
これは地方の人、特有の口癖なのかと思う。
他では知り合いが山梨で、
街おこしをやっているのだけど、
そこの人も何にもないですよ、
と、
言うらしい。
言う後ろに見えたかは知らないけど、
富士山があるのに何にもないなんておかしいねぇ、
と、
知り合いは思ったそうな。
まるでどこぞの俳優が、
でかい自宅のリビングから、
トロフィーを置く場所がもうないんだ、
と言っているかのようだ。
さて、
何もないと言うのは、
何があったら解消されるものかと考えると、
一つはテーマパークと、
もう一つはそこにしかないショッピング施設の様な気がする。
観光スポットとも言えるのかも知れないけど、
旅行ではなく住むために来たので、
ニュアンスとしては前者なのではと。
その仮定のもとに考えると、
まずテーマパークなんか住んでいるとこにあったら騒がしいし、
テーマパークはあるべきものではなく、
出掛けていくのが丁度良いと思う。
また、
欲しいものが手に入れば、
別にショッピングスポットなんかいらない、
と、
言うのが個人的な考えで、
実際ないものは、
ネット通販で買えばよくて、
(自分の場合は印画紙や薬液)
自分が求めるものは大体揃ってる、
ので、
地元の人に、
本当にいんですか?
と、
聞かれる度に、
不思議な感じがする。
あと、よくテレビで地方に越したらこうだった、
みたいなネタのなかで、
服を買ったときの被る率が高い、
と言うのがあるけど、
それだったら自分でアレンジしたらいんじゃない?
とかも思う。
あとは逆に遠くに買いに行くのが、
旅行みたいで楽しそう、
…と言うのは、
僕があまり遠出しない習慣からなのかなと。
毎回だと面倒なのかもしれない。
あとは買い物に関して総じて言えることは、
都心部は直接、
その商品が見れる状況が大きいのかなというのがあって、
それも人工の多さゆえ成り立っている部分なのかと思う。
個人的には、
現物をみて、
ネットで買うと言う習慣が、
少しずつ幅を効かせつつあるのだから、
マニアックな内容のもの、
安定して売れたりはしないものは、
ネットで買うのをメインにして、
そのサンプルをおいているお店と言うものが、
あれば良いのではないかと思う。
在庫は一つだけで良いし、
場所は元々広大だし。
届くまでに時間がかかるのが難点だけど、
そう言ったものを行政がやれば良いんじゃないかと、
常々思ったりする。
ただ、実際やってみると、
思いの外品揃え等と、
管理なりは大変なのかもしれないし、
ジャンルを絞って試していけたらなぁとも。
ただ方向性として、
そう言ったものがあったら面白いなぁと思う。

会う場所

さて会おう、
と、
二人の人が決めたとき、
一方は東京で、
一方は名古屋だったとする。
兵庫でも岡山でも、
鹿児島でも構わない。
で、
どこで会うか、
と言ったとき、
東京で会うことになるのが多い。
考え方として、
お互いが一番近くに用があったとき、
会うのが一番互いの負担が少なかろう、
と、
言うのであれば、
互いの用事、
と言うことでは、
用事のある可能性として、
東京が強いのかなぁと。
一つにはギャラリーでの展示なり、
見たい展示なり、
仕事の打ち合わせなり、
なにがしらの用事。
なにもないまっ皿な状態であれば、
一回目は東京、
二回目は名古屋、
と言った状況が望ましい。
もしくは東京と名古屋の間が、
公平なのかと。
お互いの出向く労力としとは。
実際、
東京にそんなに用事があるのか、
名古屋にいく用事はないのか、
は、
特に問題ではなくて、
自分を振り返ったとき、
東京で知り合いと会ってることが、
圧倒的に多く、
その引け目みたいなところが、
なんだかなぁと思うわけで。
そうも良いながらも、
東京のメリットと言うところでは、
自分の中では、
圧倒的にそこが、
遠くの知り合いに、
自分の住んでいる所近くで会える、
と言うことが、
利便性なんかより、
最大のメリットとしてある様に、
思う。
個人的には、
東京の名所と言うところは、
元々あまり興味がないので、
観光としての部分は、
どこの土地でも、
おんなじ位かな、
と言うのがあって、
自分にとっては、
光林寺と、蒼穹舎、
位なものかと。
代用できないと言う意味では。
だから、
どこかで会おうとなったとき、
東京から離れるのを面倒に思うのは、
東京の驕りだと思う。
いく用事があるから、
いく場所で会おうと言うのなら、
良いのだけど。
あとは東京の中でも、
新宿で会おう、
と言った場合、
似た印象を受ける。

地方から言われる地方の特徴

西脇に移住すると言うのは、
割りと早めより公言していたので、
地方とは、
こう言うものだよ、
と言うのはちょこちょこ言われていて、
一つは情報が自分で調べないと、
入ってはこない、
というのと、
もう一つは人間関係がよく言えば密、
悪く言えば大変、
とか、
なんとかだったりする。
逆に東京の良さは、
ある種の無関心による気楽さと、
自然と情報が入ってくることなのだとか。
ただ、
要らない情報やらも含め、
余りに大量に入ってくるので、
それに疲れてしまうと言うのもよく聞くし、
逆に地方にいると、
自分で調べる必要はあれど、
必要な情報だけを得られるのが、
良いとも聞く。
あとは生活をすると言うことだけを考えれば、
受け入れてしまえば地方の方が、
暮らしやすいとも。
仕事とかしてなければ、
こんな騒がしく世話しないところなんか、
住みたくはない、
と言うのは、
東京の人からも聞く。
自分の回りだけなのかもしれないけど、
人がごちゃごちゃいるとこなんか、
行きたくないとの意見は、
わりに多い。
仕事とかあるから、
仕方なしに東京で生活している人と言うのは、
意外と多いような気はする。
とりあえず、
現時点での、
自分の印象や知識はそんなところで、
実際は移ってからまた考えようと。

在るもの2

名古屋に昔住んでいた知り合いに、
地方の人が言う、
地元には何もないと言うことは、
どう言ったニュアンスなのか聞いたところ、
地方で時間をもて余した時に、
埋めるための、
ある意味無駄となる部分がない、
またはバリエーションが乏しく、
必要最低限のものしかない、
その繰り返しが、
何もないと言う言葉に繋がっているのではないか、
と、
言われて、
何だか変に納得がしたような。
なるほど、
地方にないのは、
無駄であり、
東京および都市部にあるものは、
必要不可欠ではない、
余剰としてあるものかと。
一見すると無駄、
されど必要なものとしての言葉として、
あそびがある。
車の百キロ以上時速が出る部分も言うし、
(日本で許されている法廷速度は百キロ迄) こどもの成長の過程であれば、
学びの場だろうし、
一般認識における、
芸術や作品も、
該当しなくはないのだと思う。
地方において、
芸術やら学びの場がないかと言えば、
違うかなぁと思うけれど、
都市部においてより多くあるもので考えれば、
無駄なこと、および、
それが成立する環境が、
豊かさの象徴としてあると言われたら、
それはある種納得する。
まぁ、
割合的な部分ではあるのだけれど。
あと品揃えにしても、
人間の心理として、
売れるだけのものよりも、
売れはしない余剰があった方が買いやすいとも聞く。
松竹梅の中の竹が買われやすいらしいのだけど、
竹だけ売っていても売れないとかにも似ているような。
だから逆を言えば、
必要なものは、
揃っているのだろうし、
質においても、
都市部に劣ると言うわけではないし、
そう言うことではなかろうと。
だからあるもので自分の考えていたことは、
甚だ的はずれだったのだなぁと、
思った。

東京の印象

地方と言うものに興味を持つ一方で、
自分が住んできた東京の印象を聞くと、
地方から出てきた人は、
東京の人は変にガツガツした感じがなく、
すかしたような印象があるとのこと。
そう言えば東京出身のおぎやはぎのことを、
一番を目指している感じがしない、
と、
芸能人の分析が上手いと言うキャバクラ嬢が、
そうコメントしてた番組があって、
そんなところに通じるのかなぁとか。
自分もふりかえりみても、
ガツガツしてる様な気はしないし、
向上心がないわけではないけど、
他の人よりも、
と言う意識はないし、
何か個人で完結してしまう傾向はあるのかなと。
そう考えると、
東京の人の特徴って、
他人に対して無関心な部分て強いのかと思う。
そう言えばWebの仕事をちょこっとやっていたときの、
福岡の人に、
東京の人は冷たくていまだに馴染めないとも言われた。
それなら地元に帰っても、
いんじゃないと思っていたら、
また別の人にこうも言われた。
東京なりその周辺に、
転勤とかは除き、
出てきた場合、
地元に戻ろうとすることは、
回りなのか自分なのかは、
実際は曖昧だけど、
東京にでて上手くいかなかったと言う回りの視線がある(様な気がする)。
だから、
自分が東京から離れることと、
地方より東京にでて来た人が地元に戻るとでは、
ニュアンスとして全然違うとのこと。
正直発想としては、
全くない考えだったので新鮮でもあり、
また、
如何に自分が浅はかな捉え方をしていたのかと思った。

想像と現実(極初期)

西脇に実際移ってみて、
予想していたこととのずれと言うのは、
ちょこちょこはあって、
まずは観光業に対してだけど、
観光業だけでどうにかなると言う意識はなくて、
それよりも観光業というのは、
何か共にその土地で生きる上での、
シンボリックな何かなのかと。
実際街を活性化させようとしている人達は、
観光と言うよりも、
もっと具体的に動いているように思うし、
実際政治的な部分も、
より生活と密接にあるのかなと思う。
まだまだぼんやりとしか見えては無いけれど。

あとは生活をする上で、
意外と知り合いにばったり会うことも少ない。
まぁこれからなのかも知れないけれど、
ハイツで生活をする中で、
仕事とかのタイミングが同じだったりなら、
まだ違うのかもしれないけれど、
家に入ってみると、
さすがに他の家の人が訪ねてきたり、
その逆と言うのも中々ないし。
ただ東京にいた時に比べて、
人に会う機会としては、
知り合いがお店をやっていたりとか、
そういう部分では会いにいける、
言えば東京の時の、
ギャラリー的なスペースとして、
普通のお店などがあるのかなぁと。

あとは写真に関して言えば、
知り合いに言われたことの通りで、
テレビもないと言うのもあるけれど、
写真の情報は自分で調べない限り、
全く入ってこない。
木村伊兵衛賞とかも、
そう言えばと思って調べてみて、
初めて誰が受賞したかを知ったという所で。
諸々事情などは知っているから、
調べた時にそれがどう言ったものかなぞは、
振り回されたりはしないけれど、
もし何も知らなくて、
色々写真のことを調べようとした時、
やっぱり雑誌に重みが出てくるのかなぁとも思う。
SNSとかで知り合いがいるのであれば、
その人に聞けるけれど、
(実際それが一番信用が高いけれど) 何も知らないとネットよりかは、
紙媒体を信用するのかなぁと。

生活に関して言えば、
やはり車を想定している部分で、
何かほしいとなった時、
やや距離はあるけれど、
東京であっても、
買い物には電車やバスなり、
交通機関を使わない限り結構な距離があるし、
食料品や本当に身近な生活雑貨等は、
すぐ近く(特に自分の場所は恵まれていると思うのだけど)にあるし、
不便と言うことはないし、
むしろ撮影しながら少し歩いた範囲に諸々あるので、
交通費がかからない、
と言うよりかは、
むしろ距離的には近いのではないかなぁとも思う。
特殊なもの、
たとえば写真用品とか、
珍しい本とかを求めた時、
本当に遠くには行かなくてはいけないと言うのはあるけれど、
それは東京も同じような。
車を前提としない、
交通網の発達はあるのだろうけれど。

あとは繁華街と言うか、
飲み屋が何件も軒を連ねてと言うのは、
横浜の野毛に行った時、
西脇ではないかなぁと。
殆どの人が車を使うわけだから、
駅前とか、
あすこまである一つに集中させてメリットのある場所と言うのが、
余りないような。

まだまだ気付いてないところも、
ここに来ても勘違いしている所も、
多々あるとは思うのだけど、
とりあえずの、
最初の感想。

メディアと現場の関係性

昔より現場の意見を汲みあげられていない、
と言うのはよく言われることで、
かといって現場にこういう風にやって欲しいという
公平性に基づいた案がありもしないと思います。
メディアが現場を理解しきれないと同時に
現場もまたメディアを理解しきれていないと言うすれ違いはあるのかと。
そこら辺で考えたことをつらつら書いてます。

2013.4.2 批評家と作家の関係

今回試しに書いてみて思ったのは、
この内容に対し書かれた作家はどう感じるのかという所で、
ここの場合は感想であるわけだから、
別にそんなことを気にする必要はないのかもしれないけれど、
これが批評とするならば、
作家がそれは違うんじゃないかという場合、
批評家がその意見を聞く機会はあるのかということ。
意見が同じ必要ではないけれど、
もし見誤った前提があった時、
それを見直す術を持ちえているのかどうか?
あとは作家が批評家に求めるものがなんなのかが、
もう一つ作家に対してもよく分からない。
自分の場合は自分が思いえなかった視点だけれど

評価は誰が下すべきか

仲の良い古本屋さんと話す中で、
写真をやっている人は批評家に対し文句は言うけれど、
他はなにも言わないですね、
と、言った旨のことを言われて、
批評家を評価するのは誰なんだろと見てみると、
日本写真家協会だったりする。
逆に写真家を評価するのは誰なんだろと思うと、
批評家だったりする。
元より批評家の必要性ってあるのかなと思って、
何故かと言えば意見として為になるのって写真やっている人のだし、
それで昔からお世話になる知り合いに聞いたところ、
場を提供する意味で批評家は必要とのこと。
なるほど、一理ある、と。
ただ場を提供できているかもそうだけれど、
誰に対し場を提供するか、
その審美眼みたいなものを求められるべきなんだろ、
と、
そしてその審美眼を評価するのは写真家協会か?
と言うところに疑問が出てきて、
ついで写真を一番分かっているのは誰なんだろとか、
と言うのも疑問として出て来たりする。
写真に限らず一番長く触れている人が、
そのもののことを分かっている気がして、
それだと本来批評に対し評価するのは写真家なんじゃないかと。
じゃあ写真家が批評家もかねればと言うと、
そういうもんでもない気がする。
写真家は作品を撮るのが仕事でしょとか思うし。
批評家が写真家より優れているのは、
というのは規定が難しいけれど、
多く時間を費やしているのはなんだろうと考えたときに、
展示や作品を見て考えることなんだろうと。
安直だけど。
それと知り合いに言われた場を提供する労力、経験なのかと。
今小林秀雄の文芸論評を読んでいるのだけれど、
冒頭にて写真にも通ずるのではと思うことが書いてあって、
”自らの趣味趣向で評価するのは簡単で、
尺度に即し、評価することもまた容易。
常に生き生きとした嗜好を持ち、
常に毅然とした尺度を持ちえる事だけが容易ではない”
とのこと。(思い出しながらなので文章は適当)
基本的な考えとして、
自分は批評家が評価するからと言って
写真家より立場が上とは思わないし、
だからと言って写真家の方が上とも思わないけれど、
評価なり何らかの監査的要素は、
自らが有しては行けないんじゃないかなとか思う。
批評的立場の人が、批評家を評価してはよくない気がするし、
写真家が写真家の評価もするべきでは本来ないのかなと。
あくまで三竦の関係であるべきだと思うのだけれど。
でも本当は大衆が評価する様、
お膳立てするのが一番正しいような気がするけれど。
あとはどこかで共通認識を持つ場みたいなのは必要なのかなと。
学芸員の方で、
写真家の定義と言うものを
素人が持ち得ないような写真技術があり、
と切り出したので、
商業写真と作家を混在してるなぁとか思ったことが。
それは個人の嗜好以前の話しだなと。

対象は誰に対してか?

難しい経済番組を見ているより、
週間こどもニュースでも見ていたほうが、
分かりやすいし良いのではないかとか思っていた時期があって、
とにかく本や調べ物を昔よりしなかったから、
引用や難しい言葉を並べられるのは苦手なままで。
でもきっと分かった人同士は、
極力言葉を短く端的に話したいだろうし、
時間の無駄もないだろうと思うので、
まぁ仕方がないのかなと。 そうなってくると難しい経済番組は、
自分には向けられていない、
自分には聞く必要のない話じゃないかとか思えてくる。
いやいや勉強すれば分かるのに、
と、
言うのは発信者側の勝手で、
発信に伴う負担は発信者が負担すべきだと思うので、
結局のところ自分に分からないものは、
無理してみたりはしない。
ただ、これが人との対話では別で、
分からないことがあっても、
質問出来るなら分かるまで聞くようにして、
質問に答えてくれないなら聞かない。
どうしてかと言えばつまらないのだから。
では、
小難しい文章で書いている人は、
自己満足のために書いているのかと言えば、
そうは思ってなくて意外と擁護する感じで、
分かった人がいる時の為に本にして残しておこうと言う感じかと。
作品として難解なものも、
今わからなくてもいつか必ず分かってくれる人がいる、
と言うスタンスじゃないんだろうかと。
知らんけど。

メディアと言う概念

webの勉強にてサーバーとなりうるには
アパッチと、24時間体制の安全性と、
と言うのを聞いたのだけれど、
メディアは何を持ってメディアになる得るのか?
みたいなことを考えることが多くて、
とりあえず今の所の結果で言うならば、
公共性(集客力も≒)と信用を持ちえているものが、
俗にメディアとなのだろうと。
正しい情報を提供しても、
誰にも見られないのであればそれはメディアではないと思うし、
ものすごく多くの人に見られていても、
その内容が正しいと思われないと
それもメディアとは言えないのじゃないのかと。
そしてメディアは往々にして
その責任と言うものを負わされ、
批判にさらされ意見をぶつける中で、
信用性を獲得するような。
また、新聞社は監査的な役割を、
それぞれの他の新聞社が担っているような気がする。
映画とかの自主規制と同じで、
報道の専門外の警察等に介入されぬ様に、
同業者同士でその信用性を高めようとしているような。
では、
ブログ等はメディアとなりえているのかと言えば、
信用するに足る背景があればメディアではないのかなと思っていて、
あとはメディアである利用する側のメリットによってと言う気が。
乱暴な感じはするけれど、
広告料をとれるか否かと言うのが、
指標としてあるのかと思うけれど。
いずれにしろここで書くことは、
個人的範疇を抜け出さないとは思うのだけれど、
メディアの責任として公共性と信用性を保つのが、
企業努力としてあると思うので、
報道におけるあざとさも、
いいとは思わないながらもかまわないと思っている。
と言うより元々が自分で見たもの以外は、
作り話と同等に捉えているので。
よく現実とバーチャルの線引きを混在するのはよくないと言うけれど、
自分の場合は現実はほんの狭い範囲で。
だからメディアに騙されていたとしても、
元々信用もしていないので、
さして不満に思うことはない。
倫理観とは別に現在の印象として。

メディアとの関わり方

ふと思うのがメディアに対しての信用性、
と言うよりかは、
他人の情報をどの程度信用して良いかと言うことで、
テレビやラジオ諸々で流れてくる情報の大半は、
自分でウラをとることが出来ないので判断しづらいかなと。
自分で観た展示の論評とかは、
書かれている内容に対して意見なり感想、
書き手に対しての意見は言えるけれど、
知らないものはああそうなんですかと言うことに留まり、
正しいかどうかなんて良く分からない。
理想で言うならかかりつけの医者じゃないけれど、
かかりつけのメディア関係者というものが、
いれば良いんじゃないかなと思っていて、
自分にはたまたま知り合いでいて、
その人の意見は信用したりしている。
報道において嘘は言っていないけれど、
言わずにいることはあるとの内容は、
メディアと言うものを分かりやすく端的に表しているなぁと思うし、
限定された紙面の中での必然も感じる。
自分はメディアをほとほと信用はしていないけれど、
不信感は一切持っていない。
不甲斐なさは感じるけれど、
必要な所だけ聞けば良いと思うし、
自分のメリットとしてあるのならば有用だと思う。
地震以降しばらくメディアに対する批判をする人がいたけれど、
そういいながらもテレビで天気や諸々の情報は得ていて。
単純に災害等の被災者を数値化することで、
実際の人を想像することが出来ないと同じで、
メディア批判もそこにいる人を想像せずやる点に、
おぞましさを感じるのであって、
”情報を信じていたのに裏切られた”
と言う意見をもし言う人がいるならば、
単純にその人が物を知らなさ過ぎたのだと思う。
話がだらっと広がってしまうけれど、
基本的には諸々の役割と言うものは大なり小なり、
全員が有しているはずで、
その中で分業と言う形で職種として区別されると言うのが、
自分の中での基本的な仕事の捉え方なので、
すごく小さな規模で良いから、
理想を言えば全ての職種の役割と言うものを
実践するべきなのかなと思う。
あとはさらにだらだらっと広がってしまうけれど、
不満を持っていた対象者の苦労を知ったからといって、
口をつぐむのも違うのかなと思っていて、
不満を言っていた頃の自分を想像して、
その自分を説得することの出来る言葉を探すべきではないかと。
そう言うことがないと風物詩みたいに、
文句を言う人が減ることはないだろうと。

ブログ等の感想

つらつらと展示の感想とか書いていながら、
昔知り合いが感想とか書かれるのが嫌だといっていた気がして、
あとはブログ等の意見というものは、
あんまり読むもんでもないとの意見もあったり。
あとは”偉そうに”とか、
”分かっていないくせに”
とかがブログに対して
出るとしたらあるであろう批判の語彙かと。
基本的には展示の感想というものは自由に書かれるべきだろうし、
批判的な内容の方がむしろためになると思うのだけれど、
ふと思ったりするのが批判と肯定と両方あるならともかくとして、
批判だけしか書かれなかったりするようだと、
知らない人はこの展示は悪かったのかなと思えてしまうような。
まぁそれも仕方がないといえば仕方がないと思うけれど。
あとは陰口っぽい感じになるとよくないんだろうなと。
さすがに本人に感想をメールで送ったりとか、
いなかったから電話したりとかはしないけれど、
(ちなみに自分が展示の時には
上記の両方の形で感想を貰ったことがあった)
陰でこそこそ言われるくらいなら直接言った方が健康的だと思うけれど。
自分の場合は言える限りは、
直接言うようにはしているのと、
会えなかったりとかで言えない時用にここでは書いてるけれど。
あとはとりあえずは見たのはいい悪い関係なく、
全部かいてます。
どちらかといえば他のに対しどう書いているかで、
無視していいかどうかとか判断してもらえばと思って。

評価は批評/感想の中にあるのか?

どこか自己弁護的にもなってしまうので、
心苦しくもあるのだけれど、
ここで書く展示の感想等に対して、
懸念されることとしてあるのが、
所先輩方の展示に関するところで、
下が上のことを良いだ悪いだ書くのは失礼に当たるのではないか?
と、言われそうなところで。
まぁ気にしなくても良いような気もするのだけれど、
書いてはいる中での説明責任と言ったものも、
蛇足かも知れないながらも、必要を感じて。
基本的には意見を言うのは往々にして自由だと思うし、
逆に言えないというのはおかしいと思う。
また、知識を有した人が特有の視点を持つように、
持ち得ない人もまた、
知識を有した人が持ちえぬ視点を持ちえるのだと思う。
それに近似したところで感じたのは、
大学のときに戦争を扱った知人の作品に対し教授陣が、
”君たちは戦争を語るには早すぎる。知りもしないのに”
と言った内容を口にし、
結局の所これからも自分たちは戦争を幸福にも経験し得ない状況がある中で、
知識等の有無においてその資格が認められるのであれば、
若人はいつ戦争について語れるというのか、
そして自分たちの次の世代に対し、
何を語れるというのかという風に思い、
あまりに愚劣なコメントに呆れたこと言うことがあった。
今となり若干教授陣を擁護するならば、
様々な人とかかわる中で、
戦争を語るにあたり当事者が有するストレスを介するときがあり、
先人たちへの敬意を払う必要性を言っていたのかもしれないが、
とてもそんな感じには思えない老獪の愚考であるし、
もとより若人が戦争に対する諸問題を浅はかに捉えているのだとすれば、
それは口にして(作品にして)、初めてまわりに認知されるものだし、
その資料としてもまた貴重なのではないかと。
話が大きく外れてしまったけれど、
それぞれが持ちえる環境と言うのは、
それぞれに尊ぶもので、
たとえ筋違いな意見を言っていたとしても、
それもまた貴重であると言う前提の元、
展示の感想を書いていることはわかってもらいたいところ。
ただその上でも自分の中で気になるところはあって、
まず感想に存在するのは意見であって、
評価をしていると言う意識はない点である。
基本的には純粋な評価と言うのは、
作品の購買、または所有したいと言う欲求のみで、
それに準じて観客に対し、
なんらかの変化をもたらすことなのかと。
いくら観客に良いと言われたとしても、
それは考察の資料であって、
評価と言うことには成り得ない気がする。
それは批評や感想も含め全てにおいて共通かと思う。
基本的に評価というものに価値が有するとき、
評価する側に何らかのリスクが伴い、
逆にリスクを伴わないものは、
価値はない様な気がする。

知人の意見

内情を知れば知るほど人との繋がりに寄る影響が多い中で、
たとえば質問として”誰が写真の中で誰が一番良いと思いますか?”
と聞かれることがあったなら、
やっぱり知り合いから挙げてしまうと思うし、
そこら辺は戦略的なところを除いても仕方のないことなのかとも思う。
単純に見てないものを薦めることは出来ないし、
よくよく知っている所から上記の質問の場合は答えてしまう気がして、
そうなるとどうしても知り合いになってしまうような。
では知人に対して評価するとしたら甘くなるのか否かというところで、
そこら辺がいまいち自分でもよく分からないところで、
知り合いだとしても良くなければ良いとは言えないし。
まぁそれだとしても知人の意見というのは
血が通った感じはあるとおもうけれど。
離れていればいるほど見当はずれな意見にもなるような。
途中

制作者側の説明の範囲

近しい間柄の人の中で、
写真にさして関わっていない人に、
齊藤さんの写真は誰にでも撮れる感じがする、
といったことを言われた。
さらには自分が撮影した写真を混ぜても、
おそらくは気付かれないとも言われた。
別にそれに対してそういう風に思われるのだという意見として、
むしろ中々聞くことの出来ない意見だったと思ったので、
別に癇癪を立てたりは一切ないのだけれど、
実際おごりでもなんでもなく、
混ぜたら絶対分かるだろうというのがある。
まず写真の知り合いに聞いたとしたら、
出てくるはずのない意見かと思う。
これはたまにある、
コントラストをあげたらプロボーク周辺の写真家の写真と同じになる、
という、ほとほと稚拙な解釈と同じ様な気がするのだけれど、
まずコントラストをあげたからといって彼らと同等の写真になるはずはないし、
そういったコントラストの高さばかりに眼が行くというのが、
もとよりおかしな話だと思うのだけれど、
いずれにしても諸々そこら辺の意見の相違に対し、
制作者側としてどこまで反論すべきなのかというのがある。
それは違うと理解している側が伝えない限り、
誰が撮っても同じだという意見は変わらないだろうし、
制作者側の責任でもあるような気がする。
ここでは敢えて過剰に反論を書いておくのだけれど、
あくまで考察の資料として書くのと、
言った人に対する不信感はないのでそこら辺は一応断りとして。

「まず、写真をやっている人たちに言われるのは、
むしろ自分の様な写真を撮る人がいないという風によく言われているし、
同じ様に街中で人物を撮影している人には、
自分の様には撮れないと言う風に言われ、
2013年の3月に行った展示に関しては、
東京特有の視点で切り取られていて、
地方から来た人が撮影した写真ではこうはならない、
とも言われた。
ここら辺に関しては個人の意見であるから、
そういう意見というのもあるのだなという程度でもよい。
ただ、自分の写真に混ざるというのであれば、
それは自分の代わりにゴーストライター的に、
写真展を提示出来ると言うことと同等の発言に思えるのだけれど、
実際やって貰わない限りはその検証は出来ないし、
十中八九再現出来るはずはないかと思う。
それは自分自身でもまた昔の作品と現在とで同じ再現は出来ない、
というのは自身の興味なり反応するものが変化しているからで、
同じ季節に同じ被写体を撮影したとしても、
似て非なるものであり、
諸々の背景を通過した上で、
作家なり作品個性というものが形成されるわけで、
そこら辺の理解をされてない感じがする。
もとより技術的なアピールとして作品は提示してはいなので、
写真の本質というものを理解せず、
関係のない部分で判断されているのかと思うので、
そう言った意図を理解していただいた上で発言をして頂きたい。」

と、上記のように書くと、
どこか窮屈な気がするし、何より不快な感じがする。
誰にでも撮れると思ったのだから、
それはそれでいいんじゃないかとも思う。
あとはやってない人への説明として、
やってみたらわかるよ、というのが一つには、
一番正しいとも思うのだけれれど、
わざわざそんな検証を要求なんてまず出来ないかと思う。
それぞれにやることがある訳で。
ただ何も言わないと本当に誰でも撮れるものだと、
特に第三者に伝わったときそう認識されてしまうだろうし、
そこら辺は訂正をしなかった側の責任かと思う。
そういった時に、上記でも書いたように誰々にはこう言われた、
と言うのもどこか違和感があって、
結局のところは言った人に対し、
実際やってみたらわかりますよというのと、
絶対無理だからと言うのに留めるくらいが無難かなぁとも思う。
ただ解釈として写真をやっている側からは、
あまりに納得できない考察が、
辺に浸透してしまっている所もある気がして、
ただそれに対し自分たちの意見を押し付けるのもどうなのかと、
むしろそこら辺がつくづくどういったらいいのかというところでもある。
考察なり議論、批評と言うものが、
作者の意図を表すために行われているなら、
作者にそれは違うと言ってもらえるだけでいいので簡単だけれど、
実際そういったものではないような気がするし、
作者の意見が絶対でと規定してしまったら、
拡がりと言うものがなくなってしまう気がするし、
もとより作者自身が認識していない面を、
作者自身が気付かされる場合も往々としてあるのかと思う。
あとは他の人にプロであるならば、
説明する責任と言うものがある。
写真をやる人は頑なに見れば分かるといった態度をとり、
説明を拒む傾向があるとも他の人に言われた。
そこら辺は”写真についてのあれこれの「キャプション」”
の項で書いたところにも通じるのだけれど、
見れば分かると言うのではなく、
見る中で解さない限りは本質にはたどり着きづらい、
見ることの邪魔になる部分が往々にしてあると感じるから、
展示にはキャプションをつけたくない、
というのと、
作者の意図を解することが作品を提示する目的ではない、
と言うのが写真の中ではあるのかと思っていて、
意図を聞かれたら説明はするけれど、
まずは見てもらって自分の中で考えてもらう、
そしてその全てが正解だと言う感じもする、中で、
説明が必要と感じるところはありつつも、
どこまでが適切なのかと言うのがよく分からないし、
反論もどこまでするのかが適切か分からず、
まだまだ結論と言うものが出ないなぁとも思う。
もとよりプロとしての説明に対する責任、
と言った意図が自分の解釈で本当に正しいのかが、
もう一つ曖昧なので、
今度あったときに改めて聞いてみようと。
あとは写真をやる人に対し、
どういった改善を求めているのかを、
具体的に聞いてみれたらとか思う。

客観性

報道等において客観的な事実に基づき、
とかあるのだけれど、
その一方で人間が関わる中で完全なる客観はありえない、
と言う内容もよく聞く中で、
おそらくは”絶対が絶対ない”と言う矛盾を内包した上での、
報道の姿勢として”客観”というものを示しているのかと思う。
ただ、ここら辺の矛盾と言うものを拒む人も多いようで、
普遍と客観をセットにして主観を否定する傾向もあるような気がして、
そこら辺に対して思うこと。
基本的には普遍や永遠と言うものはないと思っていて、
結果として普遍的な価値を有しているものは、
あくまでその時代時代に変化し対応しているものかと思う。
映画の中で、きっと忘れないだったと思うのだけれど、
好きな台詞と言うものがあるのだけれど、
”わが偉大なる祖先は時に間違いを犯すこともあった。
しかし彼らは間違いを改める術をしていた。”
と言うのがあって、
なんか引用の仕方としては尻り切れトンボではあるのだけれど、
要は間違いは避けられないというところがあり、
それが自分の中では絶対的客観と言うものは存在しないし、
もし普遍性を求めるのであれば”間違いを改める術”、
こっちの方が重要ではないのかなと。
また客観と言うものはある基点なりをどこかで決める所より始まるもので、
その基点と言うものは時代時代によって、
変化するものではないのかなと思うのだけれど。
そ言う意味で、
しょっちゅう訂正を出し更新してる、
ためしてガッテンはえらいなぁと思う。

テレビ・新聞・WEBの違い

むかし某報道機関にいたことがあって、
実際テレビ等の裏側とかもテレビでやったりしているので、
一般的に認知されている部分も強いのかと思うけれど、
報道機関と言うものは、同業者の動向と言うモノに、
注意を常に払っていたりする。
自分の中でとりわけ如実に感じたのは、
新聞社で記事を作るときにテレビのニュースを良く見ていて、
当たり前のことなんだけれど、
テレビは情報がリアルタイムで発信されものだということ。
浅間山荘の頃は自分は生まれていないけれど、
突入した瞬間、視聴者もそれを知る事となると。
まぁ、生中継されていると言う前提での話しだけど。
つまり情報がどんどん更新されていくのだなと。
それに対して新聞と言うものは紙媒体のメディアなので、
最新の情報と言うものを出すには限界があるわけで、
夕方届く新聞の場合、
その日の午後2時時点の最新の情報が基本的な限界です。
例外的に新聞の配布を遅らせたり、号外を出したりもしますが、
基本的には配送等物理的制約があるので、
2時までの最新の情報が夕刊では配られるわけですし、
印刷所から遠い地域であれば配送時間も寄りかかりますので、
さらに前の最新情報となります。
では新聞よりもTVの方が優れているかと言えば、
一概にそうとは言えません。
TVでの最新情報と言うものは、
得た情報をリアルタイムで流すわけですから、
間違った内容を流す可能性も高い訳です。
また、新聞の方が精査されている時間の分だけ、
信用度が高いとも言えますし、
なによりも紙面に印刷された時点で、
アーカイブとしての保存性が読者が手にした状態で有する訳で、
あとで検証することが容易だともいえます。
ただ、あくまでここら辺の話は概要としてあるわけで、
精査すると言う行為の中で、
内容が捻じ曲げられる可能性と言うものもあるわけで、
佐藤栄作は新聞社の内容が捻じ曲げられるとの不信感より、
TVだけを残し新聞記者を会場から出した上で辞職会見を行いました。
信用性というものを得る事と言うものは、
あくまでそれまでの積み重ねの上に成り立つもので、
たまにあるやらせ等に対する非難は、
その信用性を保持しようとするが故発生するものだと思います。
ただ報道において、信用性とともに有用性、
正しいことを言っていてもそれを見る人がいないと、
またその内容が役に立たないといけないわけですから、
そこら辺の双方の条件を満たす上でやっているとの認識の上で、
自分は新聞やTVを見ています。
そして最近よく言われるのが震災以降の独自メディア、
要はwebを使っての情報発信というものが取り上げられている気がします。
新聞やTVでは間違った情報はつとめて発信しないようにしてきましたが、
物理的にも、その影響を考えた上でも、
伝えられること伝えられないことが存在し、
逆に視聴者や読者はその内容をも知りたい、
と言うよりかは、
情報隠蔽のイメージを持つ事により信用性の低下が言えるのかと思います。
それであればwebの方が良いのかと言うと、
webに言えば、信用性を得る為に積み上げると言う行為が、
決定的に不足しているのかと。
(随分webサイトが身近になったとはいえ、せいぜい20年位かと)
ないとは言わないしそれぞれに努力もしているのでしょうけれど、
一般的な認知としては、か細い信用しか持ち得てないでしょう。
例え革新的な正しい内容が書かれていたとしても。
また数が多すぎてどれを信用していいか分からないと言う点も、
webにおける信用性が高まらない一つの要因かと思います。
webにおける信用性は主に運営者、発信者の信用性が主だったものだと思います。
その次に内容に対してかと。
率直な感想で言えば、
知り合いよりも知らない人の方が信用できると言うことは、
自分の中ではない感じがします。
特にwebにおいては。

曖昧さと断定

基本的には曖昧さを前提に、
自分の場合は考えているのだけれど、
逆に断定しないことによる負い目と言うものも、
常に感じるところではあって。
と言うのは断定はある種の責任を負う明確な姿勢であり、
その際たるものは値段をつけることだと思っている。
また、断定をしない内容に対し、
どうして賛同を寄せることが出来ようかとも。
ただ自分の場合は責任を取りたくないとかではないのだけれど、
目的が指定されて初めて断定は出来るとの考えで、
複数人を対象とした、
それぞれの目的が知りえないwebと言う状況で、
あくまで自分の場合と言う枠内での発言と、
その目的という所により状況は変わるというのを暗に示す為に、
曖昧さを出さざるを得ない、というのが、説明として。
自分が出来る断定は、あくまで条件として自分はと言う枕がつきまし、
その枕をつけた条件においては、
ここに書いている内容と言うのは、
本当に思っていることしか書いていません。

リアリティ

小説が映画化されたり、
アニメが実写かとなったりするときに、
原作のファンだった人が文句を言ったりすることとかあると思う。
一つにはそれぞれにジャンルに対し、
それぞれの現実として許容する範囲と言うものが存在して、
その範囲に即して変換をしていかなければならなく、
言わばそれぞれの言語を有している様な気もする。
一時期、映画が非演出の方向にむいたとき、
某映画監督の人が、”照明を当てれば画として綺麗に写るのに、
何故か非演出と言う言葉に縛られて、何もやろうとしない。
非演出と言う形式だけなぞるだけで、その本質というものを見失っている”
と言った旨のことをトークショーで言っていたのだけれど、
前提となる装置が違うわけで(映画はフィルム、日常は眼球)、
日常に近づけたとしても、
リアリティは生まれないと言ったことだろう。
そんな中で、映画に演劇の尺度を持ち込んだのが、
ラース・フォン・トリアーのドックビルを初めとした、
アメリカ3部作だったような。
知り合いと観にいったのだけれど、
とりあえず慣れるまでの違和感がすごくて、
最初の30分はつらくて仕方なかった。
でも不思議なもので慣れてしまえば頭の中で、
壁なり諸々を補完してくれるようで、
後半は全然苦にならなかった。
あとは2.26事件とかも、
実際の音声で聞くと緊迫感がないとも聞くし、
いずれにしても
リアリティは日常や現実に近づけるのではなく、
現実を喚起させる力なのだろうなと。

重複

つらつらと思ったことを書いていると、
書いたという自己認識より自分の興味を意識するようになるのか、
自分が思ったことは他の人が既に言っていることが、
往々にしてあるのだなと気付く。
まぁ、自分の場合は自分の認識の経過記録と思ってやっているので、
誰かがやっていると言うことはどうでもいいのだけれど、
自分が書いた意見に対し、
反応がない等はよくないのかなと。
単純に反応がないと、自分の意見と言うものの、
位置と言うものが分からなくなるから。
とりあえず他の人の意見も加味した上で、
おそらくそうなのだろうなと言うのは、
写真が閉鎖的で、創造性にとんだ批評・写真論がないと言うのは、
恐らくは多くの人が認知しているところなのだろうと。
なにもそれは写真に限らず、
美術や文学でも似たようなことは起こっていると聞いているけれど、
”雑誌の低迷””評論の不在””閉鎖”…は、どこにでもアル現状なのかな。
あと思うのは反応の悪さ、
ものの言わなさ、なのか、直接言う環境のなさと言うのはあるのかなと。
webで文句は言うけれど、
コンテンツが多すぎて殆ど無視しちゃうような。
知り合いが言っていたけれど、
ディベートは相手を論破することではなく、
お互いの意見を出し合うことにより、
より良い提案を作り出すことなのに、
何故か、いがみ合うか、馴れ合うかの二極化になっているとか。
また、自分の思いついたことが既に言われているとして、
それに一定の期間気付かないで入れると言うことは、
そこら辺が如何に浸透してないかと言うような気もする。
あくまで自分は末端にまで浸透して、
状況は変わると思っているので、
やっぱり初鰹的な、誰がやっているとかがどうでも良い。
あとは新しい、誰もやったことのない、と言う価値観が、
如何に保守的で古臭いかと言う矛盾を言及している人はいないのかな。
その先の展開をもし考えているなら聞いて見たい。

更新作業

間違いを犯すことのがないと言う前提の中で、
間違いがあった場合更新することが、
情報の信用性を高める唯一の方法だと思ったりしている。
かといってあとで更新すれば良いから、
間違えても良いやと言うのも違うかと思う。
”悔い改める”と言う言い回しがあるが、
更新は”悔い改める”でなくてはいけなくて、
”改める”と言うだけでは無責任なのかと思う。
前向きなのはいいかもしれないけれど。
ちなみに”改める”のも”悔い”ることが出来るのは、
ある意味健全だと思う。
”改め”も”悔い”もないのはよくないのだろうと思う。
批評の中で、どこか普遍性を求めて、
言う内容、提案か何かの、擁護的な要素を加えるのが、
自分は甚だ違和感を感じるのだけれど、
と言うか、
自分が思うほど擁護的な要素が批評の中にあるのかは、
批評をさして熱心に読んでないから分からないのだけれど、
そう言う偏見を持ちえている自分の嗜好と言うもの位は認知出来る。
ただあくまで行動をしながら考えるべきで、
身動きがとれないのが一番不健康かと。
水と同じで、ある種の循環がないとどんなに綺麗に保とうとも、
澱むのかと思う。

情報の獲得

PCを前に調べ物をしていると、
だんだんと刺激がなくなってしまうことは度々あって、
それは如何様にも原因はあると思うのだけれど、
一つにはきれいにまとめられ過ぎているからかもしれない。
言い換えれば予定調和的な怠惰とも言えるような。
理路整然と並べられた道徳とか、
俗に言う正論を正論として言うことが、
如何に正しく如何に退屈かと似たような感じで、
利用するには便利だけど、
自分の場合に限ってはPCだけではちょっときつくて、
意味もなく外に出て行きたくなってしまう。
本を読むようになってから思ったのは、
本に夢中になると電車の中の景色を見てないなとか、
何をやるわけでもなく周りを見ることにより、
様々な事に気付くことが土台としてある様な。
本を読まなかったり、意味もなく散歩をこれまでしてきたので、
その傾向は顕著にあるような気がする。

途中経過(2013/5/17)

とりあえず2ヶ月弱位、
自分が観た展示の感想を書いてきて見て、
思ったことをつらつらと。
webを見て行く中で、同じようなことをやっている人は多数いて、
その内容と立ち位置の曖昧さと、
拡散している状況は否めないのかなと。
twitter等で自分の展示に対してのツィートを拾っているのとか、
個人的にはドキュメンタリーでの街頭インタビュー位、
事実をつかった作為的な印象を受けるのだけれど、
でも、そう言った取り上げ方やまとめ、
前提として肯定否定の双方の意見がないととは思うものの、
まとめたりする行為はあってもいい、
というよりかはか、あるべきなのかと。
特に個人の意見がこれだけ拡散している状況だと。
基本的には書かれるとして肯定的な意見が多く、
そればっかり読んでもなぁと言うのがなんとなくあって、
それでなかったら、誰の意見と言うところが明確ではないと、
ほんと感想の駄々流しと言う気もする。
あとは意外と客観的というよりかは主観的な内容も多いのかと。
読み深める為の背景、または資料として、
批評家等は情報を書いているけれど、
たまにその資料だけ記述して、
意見と言うものがまるでないものもある。
いずれにしても、
どこかしらに生ずるズレを、
なくすのではなくどう許容するかを考えるべきなのだろうなぁと思う。
とりあえず自分の中での検証として続けて行こうかと思います。
どれくらい自分が展示言っているかの検証用の資料にもなるし。
あとは感想を媒体とした、
自分の考え方等の資料とかで。
広告の要素は一切ないです。

途中経過(2013/6/10)

感想を書いている中で、
同じ展示を見た写真の知り合いの人に、
自分が気にしていないところを指摘されることなど多々あって、
自分の見方が甘いのかなとか思うときとかよくある。
ふといわれたのは、
自分がある程度手放しでいいと思った作品に対して、
"視点はいい。あと一歩近づいたり、横にずらしたりする、
その一歩が甘い”と言った感じのこと。
自分は画作りといったところまでは口を出さないようにしていると言うか、
そこまで具体的には自分が気づいたりしないと言うか、
はたまたこだわってないのかよく分からないけれど、
そういった画作りには眼が行かない。
あからさまにこうした方がいいというのは別だけれど。
どちらかと言えばある一枚を絶対に出したいなら、
その前後に持ってくる写真によってそれが弱まってはよくない等、
組み合わせ方なのかもしれないし、
雑多な印象の方を優先しているのかもしれない。
一枚の画に対する探求と言うものは弱いのかなと。
それが自分の特性ともしれないし、
自分がやっていないことに対しては特に敬意を払おうと。
必要ないと切り捨てることだけは避けたいと思った。

写真家のWeb

知り合いの近況を知ろうとした時、
写真家であればWebサイトがあるだろうと見てみると、
思いの外更新されてはいなく、
結局人伝に話を聞いて知ることとなる。
更新してる、近況を知ると言う意味では、
Webサイトよりも、
blogや、SNS(twitter 、Facebookなど)の方が、
今のところ役に立っているような。
単純に特に何を書いていても、
大丈夫なので、
更新しやすいと言うのがあるのかと。
巡回展とかがあるわけでなしに、
Webサイトにおいて、
展示の情報を載せるだけだと、
作家個人では、
そもそも無理があるのかなと思うし、
更新と言うものも滞りがちに、
なるべくしてなるのかなと。
新作などポコポコ作れるわけではないし。
逆に定期的に見てもらえるとしたら、
ギャラリーの方が、
見てもらえるような。
写真家個人のWebに関して言えば、
現状は展示なり作品を見たあとに、
Webは見られる仕組み、
要はアーカイブとしての役割としてあって、
告知の意味をなしてないのだと思う。
少なくとも、
作家のWebサイトで展示を知ったことは、
少なくとも自分はない。
強いて言うなら、
他のツィッターやFacebookでの告知の上で、
その詳細をのせる意味で、
掲載している様な。
Webに特化した作家は別として。

話せること話せぬこと

よく行くギャラリーで、
一時期ラジオをやろうと言う話があった。
理由としては、
ギャラリーでお客さん兼写真家さんの話す内容が面白く、
こういった内容を写真をやっている他の人にも、
聞いたもらいたいとのことだった。
しかしながらそのラジオは実現化していない。
正確には一度やったらしいのだけれど、
話せない内容が多かったらしく、
Webから下げてしまったとのこと。
他の人の悪口とかではないと言うのは、
内容を知るわけではないけれど、
まず断りをいれておくのだけれど、
普段話すなかの何気ない会話の中でも、
話せないことと言うのは、
多分にあるのだと言うことなのかと思う。
直接から間接へ、
その範囲が拡がれば拡がるだけ、
話せない何らかの影響があって、
メディアと言うものは、
そう言ったもろもろの話せないことから、
こぼれた(話せる)ことで成り立っているのだと思う。
自分では問題ないと思う内容でも、
もしかしたら誰かに迷惑がかかるのかなと思うものとして、
製作の内訳なぞはあるのかなと。
例えば写真集の製作費の内訳、
ギャラリーの運営費用、運営形態、
特に家賃とか持ち出し料は、
直接会う人には聞かれたら教えるけど、
Web等で具体的に書くことはまずない。
あとはそれぞれの立場によって、
言うことが出来ないこともあって、
たまたま聞いた話では、
某有名コマーシャルギャラリーのギャラリストさんは、
作家に対し、
いつ作品が売れなくなるか分からないのだから、
やっている副業はやめない方が良いといってるらしい。
直接会って、
その人との関係、
言われた人の立場を考慮して、
問題ないからそう言ったのだと思うのだけど、
あくまで個人としての意見で、
ギャラリーとしての発言としてしまったら、
売り出している作家の作品が、
いつか無価値になる可能性がなくはない、
と、
示唆をするようで、
やはり言えないし、
言ってはいけないことのように思う。
あと、
公共のメディアに載る時点で、
わずかな可能性の話をしていたとしても、
積極的に伝えようと映ってしまう気がするので、
否定的な意見と言うのは、
売る立場の人は、
早々言えるものではないと思うし、
何よりも買い手に失礼かと思う。
諸々そう考えると、
幾らWeb等が発達したとしても、
結局は何らかの直接的な関係がない限り、
そのものの本質と言うものは見えてこないわけで、
ともするとやっぱり足で情報は稼がなくてはいけないし、
物理的にそれが無理であるならば、
足で稼いでいる人と、
知り合いにでもならないといけないのだと思う。
あと最近思ったのは、
新宿界隈の話でも意外と、
自分は当たり前に知ってるけど、
他の人はしらないと言うケースがあるようで、
またその逆も。
それはそれぞれの背景が、
完全には同一ではないからで、
当然なのだろうけど、
ましてや
関わってない人には、
全然実情は伝わらないのだろうと。
勘違いやすれ違いか起こるのも、
ある種必然かと。

数の話

新しく雑誌か何がしかのメディアが立ち上がった時、
その価値を高めようと、
出来るだけ多くのものを扱おうとする。
それはそれで当然の流れかとは思うのだけど、
質はどこで高めるの?
と言うところで、
どこかに委託し、
結局雑誌の立ち上げた人の見る目は、
関わる人の伝聞によって、
鍛えられる、と言う仮想のもと、
雑誌は訳のわからない方向に、
奔走するのかと思う。
アマナが出しているIMAと言う雑誌が、
メディアにおいて今一番勢いがある写真誌に見えるのは、
間違いないし、
そこを否定する気もない。
"見える"と言う意味において。
海外の同行を取り上げ、
上質な紙で印刷をし、
六本木にはSHOPを構え、
Webコンテンツでは、
様々なジャンルの人に書いてもらい、
このご時世に贅沢なことこの上ない、
と思うけれど、
立ち位置が非常に分かりにくい。
考え方なりやり方は、
写真と言うよりは現代美術的だし、
まぁ、マーケットが写真として確立していないなかでは、
ある種仕方のない部分もあるのだろうけど、
むしろ美術手帳の写真特集の方が受け入れやすい。
アート、写真の双方を併せ持つメディアだと言うなら、
昔からある写真の現場にも足を運んで欲しいものだし、
それでなければ、
徹底して現代美術系の写真を扱わえばいいのにと。
そうした方が全然読む気になるのだけどなぁと。
多分そこら辺で、
全てを網羅しなくてはいけないと言う、
変な縛りで、
IMA で扱うなら見てみよう、
と言う気が、
現時点では、
自分は更々起きないのだと思う。
活動としては、
誰かがやるべき所なのだとは思うけど、
その役目を成す感じが、
今のところない。

情報ソース

誰かから、
にわかに信じられない、
又は自分と意見の異なる内容を言われたとき、
その情報をどの様に得たかを知り、
その内容の信頼性を考察する、
と言うことは、
往々にしてあるのかと思う。
言い方を変えると、
受け手側が真偽の検証を出来るよう、
発信側がその素材を提供すると言うことだと思う。
ちなみに自分の場合は、
情報ソースと言うのは、
不完全なものでしかないと思うので、
あまり聞かないし、
重要視もしていない。
信頼するかどうかは、
話す人次第で、
結果的にでも、
(話す人の勘違いもあると仮定して)
騙されても構わないと思えば、
信頼するし、
騙されて腹が立つなら、
話半分にしかきかない。
極端なのは重々承知の上で。
例えばWikipediaに出てくる情報ソースとしても、
本からの引用、
と言うことが度々あるけど、
その本に書いてあることは、
信用できるのかと言う検証も必要となるし、
結局は自分が何らかの形で、
直接的にその事象を知らなければ、
本当の意味で検証などできない、
と言うのが、
まず自分の中の価値観としてある。
そう言う意味では、
展示の評などは、
直接見てしまえるので、
その内容の真偽、
及び、
その言っている人を、
信用できるか否かは、
検証しやすいのかとも思う。
ただ、一方で、
検証といったとき、
全体をいきなり正しいかどうか、
判断するのではなく、
部分、部分を検証して、
その構成を加味して、
判断するわけで、
そう言う意味では、
情報ソースによって、
部分、部分の検証は、
出来るのかとも思う。
本にこう書いてあった、
と言う内容が実際書いてあるかどうかは、
その本を見てみれば、
分かるわけで。
ただ、
あくまで近づけはしても、
核心には辿り着けないと言うのは、
絶対的にある気がして、
それは雑誌等で知り合いのことが書かれていたとき、
直接関わって知る内容と、
大分誤差があるなぁと言うのを、
日々感じているからで、
あくまで情報ソースは、
内容を検証すると言うよりは、
自分がそのテーマに関して、
考察するに当たっての資料なり、
一つの道筋、
その一例を作る素材として存在していて、
やっぱり自分には、
興味の対象とはならないのかなぁと。
元より言う側を全く信用してなかったら、
情報ソースがなんであろうと、
結局なにも役にはたたないのかとも思う。
もっと言えば、
信用を得るためには、
情報ソースの、
その先に何らかの形で、
踏み込まなければいけないのだと、
思う。

監査

メディア、
と言うよりは、
言うことに対し、
信用を得るには、
得るために、
内容を正しくあるよう、
つとめなくては、
と言うのかがあるけど、
個人では限界があると言う、
話もある。
はじめて聞く人を想定するのであれば、
なおさらで、
第三者に見てもらうと言うのは、
ジャンルを問わず、
良くやっていることなのかと。
写真も自分の良いと思うようにやっていると、
ふと疑問に思ったとき、
良いんだか悪いんだか、
分からなくなる。
少なくとも、
自分には良いとしか思えないし。
そう言う想定のもと、
作品は作ってる訳で。
さて、
その監査的な役割を、
写真家の場合、
批評家に委託するものなのかなぁと思いつつ、
その批評家の監査は誰になるのだろう?
と言うのが、
ここ何年かよくよく考えるところで、
個人的には批評家の監査は、
写真家であるべきだ、
と言うのは、
お互いが監視しあい、
一方の意見が強くならないと良いな思うからなのだけれど、
しかしながら、
それであるならば、
もう一つ、
何らかの職種が必要なのかなぁとも思う。
分かりやすいのは、
立憲、行政、司法の様に、
どれか一つが、
変に権力を持たない様に、
と言う仕組みは必要かなぁ、
と思いつつ、
写真家、批評家、で、
評価機構として、
誰がいるんだろう?
アマチュア?コレクター?
デザイナー?編集者?
まぁ、一つ言えることは、
写真家は面倒くさがって、
批評家の評価なぞやらなかろうし、
写真家を評価する審査員なんかも、
写真家、批評家、デザイナー、編集者と、
なんともごちゃ混ぜなので、
現状として、
写真家の評価も、
批評家の評価も、
誰の基準によって成されているか、
非常に曖昧で、
訳がわからない。
そして監査と言う捉え方で行くならば、
その監査した内容を、
誰がどういかすかも、
よくわからない。
少なくとも、
すぐに結果は出ないだろうけど、
写真家の審査、評価する中より、
写真家をはずしてくれないかと思うのだけど。
そうしたら批評家、学芸員の責任も重くなり、
そのこと(賞の選び方が駄目と言う場合、批判の対象は批評家達となる)により、
選ぶ側の監査的な役割をなすと思うのだけれどなぁ。

写真についてのあれこれ

写真をやっている同士で話される内容が、
あまりに狭い範囲にとどまり、知る機会が少ないのかなと。
ただ断っておけば、
そう言う場にいたときに言うだろうあくまでも自分個人の意見で、
写真をやっている人の代弁ではありませんので、
その点だけはご理解を。

東京におけるグループ展について

アップフィールドにてやっていたグループ展が、
場所をPLACE Mに移して行われていた。
交流の場として複数人の展示をすることを含め、
やること自体はいいのだ出けれど、
むしろ必要だと考えてはいるけれど、
それに伴うやり方がいかんせんどうなのかなぁと。
一つに型にはめ込むような気がして、
新たに参加する作家の意向に伴い、
その展開方法と言うものも柔軟に変わるべきではないのかと。
作家のコンセプト的なものを言うこともそうだし、
評論家にコメントを貰うのも含め、
元々やっていた色というものが強すぎるような。
一つの方法にはめることにより参加作家の新たな側面を出す。
そういった視点で見ればいいのかもしれないけれど、
それだったらレギュラー的な人はもっと減らすべきだし、
新しく加える人もコンセプトやトーク等を
他でもやってこなかった人に限定するべきなのかと。
企画者自体も成長してもらいたいような。
展示者、批評家だけ変えていったも、
企画自体の成長にはつながらないような気がする。

トークショーについて

自分も一回だけやったことのあるトークショー。
毎回思うのが誰を元々の対象としているのか?
そこら辺が不明確なのがどうもなと。
実際来ている人は写真に関わる人ばかりで、
それだったら毎回繰り返される前提としての話、
多くの枚数を撮る中、プリント段階で再認識をし、
と言う関連の件を省いてしまえばいいのにと。
逆にそこら辺の話をするのであれば、
写真になじみのない人に対象を限定したらいいのではと。
なんかそこら辺を曖昧にしているから、
トークショーよりも直接話を聞いたらいいやとか
思ってしまう。
なんか惰性でやっている様で発展性がないような。

アートフェアについて

知り合いがアートフェア東京やソウルフォトへとだしたり、
その流れ自体はいいのだとは思うのだけれど、
それに伴う思うこと感じたことを。
一つには写真が複数点で構成するのに対し、
そういったアートフェア関係では一点でやること、
あとはアート自体が本を買う習慣があまりなく、
作品を買いに行っている場と言うところで、
写真は中々かみ合わない部分は多いのだろうと。
ただまずは知って貰わないことには始まらないのだから、
長期的な投資としてはいいのだろうと。
ただ人がたくさんいるから作品が売れるという期待はしない方がいいのかと。
そういった状況の中で、
どれくらいまでなら負担できるかという所で動くのが、
現状としては良いのかと。
知り合いにいわれたことで、
東京フォトでコレクターを案内していたところ、
写真はどれを買ったら良いか分からない
と言った旨のことを言われたらしく、
これはもっと噛み砕いていえば、
どれがこれから先、値崩れしないか分からない、
と、同じことなのかと思う。
現状としてはこれからどんな駄作をだしたとしても、
その価値が暴落することはないような人は売れても、
若手はこれからどうなるかは本当によく分からないと思う。
作品のよしあしと別に写真でやめる人は本当に多いから。
販売を目的にするなら特装版の写真集を売るか、
ブックアートフェアに出す方が良いのではと言う感じ。
あとはあくまで投資。
自分のギャラリーに来そうにない人に、
自分の作品を見てもらう機会を作る為に、
いくらまでなら出せるかと言う感じかと。

現場での印象

写真の表現というものが、
どこを活動の場としているかという点が
現在は曖昧になっているのかなというのがあって、
それはよく言えばコンテンツが増えたといことだろうし、
悪く言えば拡散し全容が認識しづらくなったということかと。
昔は雑誌およびメディア媒体が、
活動の主な場として規定されていたような気がする。
つまりはどんな写真にかかわる人であろうとも、
写真雑誌に出入りをしさえすれば、
大なり小なりはあれば現在の写真における動向は、
リアルタイムで得られたのであろうし、
多種間(報道、広告、純写真、等)での議論もあったのではないかと。
展示にしてもメーカーサロン等発表の場が限定され、
そこを押さえていさえすれば、
ある程度は写真におけるその時分の全容を見るように出来たのかと思う。
しかし自己表現の追及を求めて、
自主ギャラリーなりさまざまな表現の場が生まれ、
それぞれの活動をする中でその全容を把握することが
困難になったのが現在なのかと。
また、
名取洋之介を中心に広まっていたリアリズム主義等、
報道や記録性と言った役割の中で
写真は議論されていた時があったのかと思う。
ひとつの権威としてドキュメンタリーがあり、
そこに対する議論がなされていたような気がする。
しかしながら現状としては、
ドキュメンタリーと写真表現の主流となるものが分かれ、
言わば写真行為における既存の社会的意義を放棄し、
写真と言う行為の純粋さを追求するようになったような。
自由を求めたが故に、
社会に対しその意義を示す責務をも負うこととなり、
そしてそういった意義を示せない限り、
人はお金など支払うことはない様に思う。
つまりは娯楽や趣味とみなしたものに、
経済的な援助をする気はなく、
そういった認識が故、
写真雑誌の巻頭を飾る様な作家でさえ、
副業を強いられるような状況にあるのだと思う。
(作品制作を本業と仮定し、雑誌仕事も副業と考えた場合)
そういった中写真は、
作品を売るよう考えたときに、
画廊からの発展として来た、
現代美術に同調するような形で、
社会的意義を見出そうとしているような。
現代美術はここ何年かで見始めたから、
分からない部分も多いいけれど、
基本的な考えとしては同時代の世相や、
問題を可視化するアイコンとしての意味合いが強いかと思う。
3.11の地震以降の写真作品の論じられ方を見ても、
焦点は写真行為がどう社会の中で意味があるかと言う感じで、
写真本来とは違う流れになっているかのような印象がある。
その象徴的なのが木村伊兵衛賞の様な。
現代美術の人に、
”木村伊兵衛賞の作家はアートの意義を分かっている”
との旨の内容を言われたことがある。
逆に自分周りの写真の人からは、
木村伊兵衛賞の傾向に対しいい評判をまず聞かない。

また、写真をしている人自体が、
一般に対する発信を怠っているような。
作品制作に没頭し、
受け皿を探すばかりで。
また、
副業をやりながら続けられてしまう状況も、
一概に良いとはいえないような。
本来ならば自分たちのやりたいことをやると同時に、
環境も自ら作っていかなくてはいけないかと。
基本的に純粋なものほど脆いものだと思うし、
そういった選択をしているのだという認識はするべきかと。

写真系学校の教育

ふと、絵画をやっている知り合いと、
新宿のギャラリーでばったり会い、
作品制作を続けるにあたる問題なんかを聞いたり、
話したりしていた。
その中で学校でこの状況を教えることがあるのか、
なぞ昔からある疑問がポロポロと。
自分は映像の大学だったのだけれど、
カメラマンの場合、機材会社に身を置き、
知り合いを増やしながら現場に呼ばれ、
と、すごく雑多な流れは教えられていた。
ただ、殆どの人が大変だからやめたほうが良い、
みたいなことを言っていて、
そっちの道に進まないんだったら、
なぜそんな学校を作るんだろうと不思議に思ったりしていた。
写真の場合は、
まず作品を売る市場と言うものが存在しないのは、
もう20年以上続く中で、
作品を売りたいなら自分で全てやらなくてはいけないし、
そう言う状況を伝えているのだろうか?
と、ふと思った。
もとより学校の役割と言うものは何なんだろうと?
学問を学ぶと言うのもあるけれど、
通常それに伴い社会へ出る為の知識、または下地を、
身につける気もして、
その仮定の上、写真や映像は写真業界、
映像業界につながると考えたとき、
写真作家コースと言うものがある中で、
作品制作以外の面は誰がどう教えているのだろうかと。
いまだに状況を全く知らないような人をしばしばみるけれど、
結局現場で覚えるしかないからと、
学校ではそう言う状況を伝えるのを投げているのかなぁと。
まぁ結局は自分で調べるしかないのだけれど、
学校側の姿勢としてどういう状況なのかが不思議。

展示を見に行く基準

ギャラリーの事情を知ってはいたりする中で、
どこまで言っていいものかなと言うのにも留意にしつつ、
とりあえず行く側と呼ぶ側に対する所。
まず呼ぶ側として思いつくのは、
個人へのDM、他ギャラリーへのDM 配置、
メール便、facebook、twitter、HP上での告知、
雑誌上での告知、あとはあった人に渡すとか、
まだありそうですが自主ギャラリーでやっているのは
これくらいじゃないでしょうか。
逆に自分が行く基準は
'作家かギャラリーの人が知人’’近所’’見たい’かの3つで、
上記二つが殆どです。
正直DMを貰ったからと言って行くことはないです。
元々見たい人のを知らせてくれる為にDMがくるのは、
見逃すのを予防してくれるのでありがたいですが。
あとは僕の場合はあまり関係ないですが、
行ったついでがないところには行かない、
との傾向もあるような気がします。
あとは行かない基準としたら知らなくて、通りがからなくて、
前回の展示が次を見たい感じじゃない、ギャラリーの人または作者と仲が悪い、
と言った感じでしょうか。
最近は無理なく行けるとこだけ行ってます。
たぶん西脇に行ったらその傾向は強まるのかと思います。

webサイト

知り合いに表現をやるなら、
名刺とwebサイトは必須だと言われたことがあって、
要は来た人が展示に興味を持ってくれたとして、
それっきりにならない様に、
興味の先を作ると言うことなんだろなとか。
あとは広告的意味もあるんだろうけれど、
正直名刺をもらったとしてもwebサイトまではわざわざみたりしないから、
実際の効果としてはそこまでではないのかなと。
広告と言う意味ではtwitterやらfacebookになって行くのかなと。
今の所。
それで実際人のサイトを観てみると、
殆どの人は更新を殆どしてなくて、
というかそんな更新するような活動(展示)が、
ポコポコ出来るものなのかか言うのもあるけれど、
基本的には作品を紹介するスペースなんだろと、
アーカイブと言うか。
でも基本的には、
全部をみて貰うのなんて中々ないような気がして、
自分がまず一回ぱーとみたらそれっきりなのもあるし、
逆に直接あったら否応なしに話とかもろもろ聞くようになるわけで、
可能ならすべて直接あったりする方が効果的と言うか、
強いところがあるなと。
そう言うところで、
出来ないところの補助と言うイメージが、
自分の中ではまだまだある。

webにおける作品売買

なんだか水をさしてしまうようで、
よくないのかも知れないけれど、
写真作品の売買をwebでやっているサイトを2,3見たけど、
結局徹底できてない所で印象を弱めてしまっているような。
要はすべての作家が一つのサイトから買えると言うのであれば
webにおける有用性を多くの人が認識するのだろうけれど、
扱う作家が現状としては少ないのと弱いのだろうし、
そうでなくとも偏りがあるのかなと。
それであるならギャラリーごとのweb販売サイトの方が、
まだすっきりするし、
というよりはやっていることが
コマーシャルギャラリーの廉価版みたいになっているような。
不特定多数の顧客を対象にするにあたって、
中途半端に品質の高さをアピールするべきではないと思う。
たとえ本当に質が高かったとしても。
コンテンツが揃いきらず形式だけ固まっている所はよくないのかなと。
なんだか危うい。

キャプション

作品発表をする人は、
大なり小なり考えるところかと思うのだけれど、
展示に関して発表者側の説明をどこまで掲載するかと言うのが、
ウダウダウダウダと考えられている。
自分の場合は最低限の説明、
一応の方向性だけは示しとくべきかなと、
ただ展示は好きに見てもらえた方が良いかと思っているので、
意図を知りたい人のために、
展示のHPとかにのみ書くことに最近なんかはしている。
でもそれも展示の説明と良いうよりは、
撮影のとき暑かったですよと言う位の意味合いで、
あってもなくてもいいとも思っている。
特に会場に自分がいたら聞いて貰えば良いやと思うので。
キャプションについてよく言われるのは、
全くないと訳が分からない、不親切であるというのと、
あればあったで見方を狭めてしまうというところで、
なんとも歯がゆいものなのだけれど、
基本的には作者の意図を読み解くことが、
自分は展示の楽しみ方ではないと思っているので、
考えるきっかけになって貰えればとか思う。
ただ、
難しいと思うのは、
キャプションにこうだと書いてあるにもかかわらず、
全く別の仮説(前提)を立てはじめ、
見当違いな批判をする人もいる訳で、
それを良しとするかとするか否かで、
自分が発表する側では全然かまわないのだけれど、
それはそれで新鮮だし、
ここら辺に批評家が混ざってくるとなんだかややこしくなっている様な。
そして批評家への不満の大半はここに集約されると思う。
まぁ、批評家と言うよりは評価が絡んでくるのかと思うのだけれど、
基本的には筋違いな批判は受けたくないと言うのがある気がして、
最低限の意図は理解した上でモノを言ってくれよと言うのが、
発表側の求める所なのだと思うけれど、
その最低限の意図をどう提示したものかとも。
キャプションも作品の一部かと言うと、
人それぞれなのかもしれないし、
メーカーギャラリー等で必ず書かなきゃいけないのは、
割とわずらわしい慣習だなとか思う。

最良の着地点

具体的に誰の作品なのかは分からないけれど、
知り合いが誰かの作品が売りに出されたことについて、
中途半端にばら売りするよりも、
しかるべき時迄とっておいて、
美術館等に買い上げてもらうほうがいいのではないか?
みたいな事を言っていて、
おそらくは作者は故人であって、
もうその作品が制作されることはないのだろうと。
ここ何年か作品がどうあることが、
作者にとって望ましいのかと、
ウダウダ考えることが多くて、
一つは売れるのがいいのだろうと。
ただニュアンスとしては売れて作者にお金が入ることよりも、
作者の手から作品が離れることが大切なんじゃないかと。
あとは今回の場合で考えると、
良質なものは長く残る環境に置かれるべきと言うことで、
そして一番よくないのは誰の眼に触れることもなく、
いつの間にか廃棄されることなのかと。
個人的には大切に保管されるよりは、
ボロボロになっても良いから、
人の眼にさらされる方が良いと思っていて、
それも見るともなくみるような、
いわば壁画のような立ち位置が自分としては理想。
作品を子供に例えるような人がいたりするけれど、
それは作品がどうあるべきかも示唆しているような気がする。
自分はネガを含めて最終的には全部手放すことが出来たらと思っていて、
多分それは自分がいなくなったあとの状態を考えているからで、
死んだあと自分の作品を見せる機会は自分では作れないわけで。
それで自分の場合は美術館に収蔵されるのもいいのだけれど、
(収蔵されもしないだろうけれど)
見て貰う機会を得ると言う意味では、
美術館より生活の中で見てもらえた方が嬉しいし、
あと単純に例え一人であっても回数としては多い気がするので、
西脇に行ったら東京で作った作品は全て地元の店に、
飾ってくれることを条件に譲ってしまおうとか考えてる。
基本的には自分の作品を東京に残す気はなくて、
ただ欲しい人がいたら譲りますよと言うのが、
現在の自分にとっての展示の意味なのかと。

現代アートとの関係

冊子では現代アートは同時代の社会との関連性を重要視した、
逆に写真は写真のみでの純粋性を、と、書いていたけれど、
うすうす該当しない所も多いなとは思っていて、
改めて自分からの印象をまとめてみる事に。
冊子で書いた後人の話を聞いて気付かされたのが、
ソウルフォトに関する意見からで、
韓国では写真(ここでは自分たちがやっている様な)の文化がなく、
写真はアートに内在するものとなってしまった。
逆に日本はアートと一定の距離、分断があるからこそ、
写真の文化が継続されているのではないかと言う話。
元々は現代アートとの分断を嘆いている感じがしたのだけれど、
それによるメリットと言うモノもあるのだなぁと言うのと、
結局は経済的な面が作品の内容に影響を多く与える点も否めなく、
ただ、現代アートの文脈に影響されるというのは、
はじめた時点で現代アートと写真が混在されていた人位だと思うのだけれど。
あとは現代アートの人に話を聞く中で、
写真に対し現代アートは可能性を感じつつも、
結局元々日本にある独特な写真文化からは距離をとっていて、
現代アートの中に写真というジャンルを新たに作ろうとしているのが現状だろうと。
写真について勉強しようとする人が、
志賀理恵子氏や赤々舎を参考にしようとした話をふと知り合いから聞いて、
結局は現在求める結果を得ている人だけを取り上げていて、
写真自体を理解しようとはしないのだろうなとか思った。
要は元々国内にある写真の良さを知ろうと言うわけではなく、
現代アートの中にある写真から探そうと言う感じで、
それでなければあくまで自分たちの文脈に組み込もうとしていて、
こちら側を分かろうと言う感じはなく、
逆に現代アートに歩み寄る形の作家、雑誌が増えてきている傾向も、
そこら辺の現状を分かりづらくしているのかと。
個人的には木村伊兵衛賞なんてその際たるものだと思うけれど。
あとはメディア近くにいる批評家等が、
浅く広く文献だけで、
足を使わずにやっているのがよくないと思うけれど。
あとはそれぞれの違いを知る上でも、
交流はしないといけないとおもうけれど。
お互いのことを分かっていないという認識と、
そしてどう分かっていないかも分からない状態で、
どうやって歩み寄りをするというのかなと。
現代アートの展示等の感想もこのサイトでは書いているけど、
基本的にはやっている人には、
的外れなことを言っているのだろうと思うし、
それは的外れな感じで見られているという為の
資料になればと背伸びもしないけれど。

写真内での分断

自分と違う写真を撮っている、
または、そう言った作品を中心に見ている人と話す中で、
良く言われたりすることなどをつらつらと。
まず複数人から言われるのは、
閉鎖的、頑なに自分を変えない、説明の不足と言った内容。
他の人のブログを読んだりする中で、
”日本の写真は感覚的な部分を重視し、
それ以外の方法を認めない、
海外での評価後、逆輸入する形でやっと認める”とありましたが、
納得する部分と納得しない部分とがあって、
まず海外で評価されたからと言って、
意見は変えないような気がします。
”海外で認められた自分たちの理解の外のもの”として認知され、
結局の所海外で評価されたからと言って、
個人レベルでは何も変わらないと思います。
受け皿として雑誌社等では若干の違いはあるのかもしれませんが。
また、ユーストリームを見ている中で一番驚いたのは、
”大阪にはオルタナティブスペース(若干違うけど、ざっくりとは自主ギャラリーが)
がたくさんあるのに、東京にはなぜ全然ないんだ”
ということを言っている人がいたこと。
その言っていた人自体は現代アート近くで活動をしているので、
たまたまその人が言っているだけなのかもしれませんが、
東京だと新宿から四谷周辺にこれでもかと言うぐらい沢山あります。
むしろ大阪とかの方が駅から離れていて、
ギャラリー巡り等をさしてしないと言う風にも聞きます。
いずれにしてもまず、
頑ななのと、閉鎖的と言うのはよく思います。
そこはもっと開放的に勤めるべきだとは思うのですが、
だからといって作品に対する姿勢と言うものは、
それと別途にあって、と、言うところも頑なと言うことなのかとも。
もとより意見の相違と言うよりは、
交流と言うものがない中で、
言わば食わず嫌い的な感じで距離をとっている所が、
そもそもの問題なのかとも。
要は”他の写真はこうだ。だから、自分には合わない”と関わりを避け、
その割りに”他の写真はこうだ”と言う前提の部分が、
往々にして頓珍漢な感じなのだろうと。
一つ知り合いが言う中で、
意見として自分が納得できるものとしては、
”コラージュ等、写真自体に手を加えるアプローチをするのであれば、
あえて写真を使う必要性を感じない。”と言ったもので、
言った人は美術の人なのですが、
要は自分立ち回りの写真の人と言うものは、
素朴な写真自体の可能性に対し作品制作をしている中で、
まぁ感覚的なことを重要視していると言うのにも、
反論する部分は一切ないですが、
自分たちが一番重要視しているところを、
ないがしろにされている様な印象があれば、
それは拒否するのかと思います。
多分それは他のジャンルにおいてもそうなのかもしれませんが、
特にそこら辺に自分たちが過敏になっているように思います。
あとはそれぞれを認めたとしても、
その主流と言うものの定め方、
そう言う所での争いもあるのかもしれませんし、
なんとも難しいとは思いますが、
少なくとも相手がどの様に考えた上で、
お互いがいがみ合っているのか、
その場と言うものは必要だと思います。
往々にして勘違いやすれ違いというものがある。
あとは単純に写真に限らずですが、
諸々のジャンルに対して、
一番偏りのない中立的な意見を、
それぞれに対しある一定の理解を持っている人と言うのは誰なのか。
そこら辺が気になります。

写真の可能性

最近になって、
美術を扱うギャラリーでも、
写真の展示が増えていると聞きます。
写真に対して可能性を感じて、
とのことらしいのですが、
具体的に写真のどの部分をさして、
可能性を感じているのかがよく分からない所でもあります。
パリフォト、東京フォト等のイベントやコンテンツの増加、
美術館や第一線のコマーシャルギャラリーでの取り扱いや、
森山さん・中平さん・石内さん・荒木さん・須田さん・
北島さん・尾仲さんと言った、
海外での再評価、写真集とかを出してくれる所が多いですね、
そう言った動きに対しての事なのでしょうか?
いずれにしても写真の扱われ方に対し、
向上を求めて努力していた人たちの活動が、
眼に見えて分かるようになってきている状態でもあるのかと。
あとは絵画等に比べ、
展示サイズの変更も梱包と言ったものの容易さ、
あとはエディション等の複数制作が出来ることも、
メリットとしてあるのかもしれません。
しかし、その一方で写真は売れないとの声もよく聞きます。
いずれにしろどの人の作品がどれくらい売れているとかは、
そう言った情報は入ってこないし、
やっている自分たちでも殆ど知る機会がないので、
分からない部分も多いです。
あとは写真に対して可能性を感じているのが本当であったとして、
それは内容にまで踏み込んで、
可能性を感じるものなのかも知りたい所で、
もとより北島さんや石内さんは美術の方面からでも、
ある程度の分かりやすさはある気はしますが、
須田さんや尾仲さんと言った人たちは、
本人が作品の説明なり読み解く文字としての資料がさしてないのの、
どこに対して海外の人や美術の人は反応しているのだろうと?
単純に須田さんも尾仲さんの作品は、
ざっくりと同じ系統(昔ながらの独特の日本の写真のジャンルかと)
のものですから自分は良い作品だと思いますが、
写真をやっていない人はどこに反応しているのかがいまだに不思議。
叙情性やジャポニズムと言ったらそれまでなんでしょうけれど。
今評価、活躍している人の次に誰が活躍するのかは、
本当によく分からない。
良い作品を作るだろう人は予想は出来るけれど、
その人が現在活躍する人の次を担うかは別のベクトルのような気が。
基本的には今活躍する人は雑誌に活気があった時に、
取り上げられていた人だと思うけど、
現在の雑誌はなんか良くも悪くも柔軟すぎるのか、
人間像が見えない気がする。
あと川内さんやホンマさんとかは、
上記の人とかとはまた別の流れのような気もします。

作家はギャラリーにいるべきか

端的に考えるなら、
礼儀としていた方が良いというのと、
実際はいないほうが良いとなる。
と言うのは、知人の展示にはいて欲しい気もするけれど、
知らない人であれば作家がいると見づらいという所がある。
もとより展示の目的を何と捉えるかによって、
話は随分変わってくるような気もする。
まず自分のことで考えたとき、
展示は自らの作品を媒介とした、会話なり交流の場というのがある。
しかしそれはあくまで提示する側の視点とも言える。
つまりは提示する側としては、展示する作品をいいと思っていて、
これが自分にはいいと思う、と言う提示に対し、
来た人がいや、これは良くないと言ったり、
写真の被写体に付随した話をしたり、
そう言った話し合いを楽しみたい、
と、いうのが、自分の目的の一つとしてはある。
ただ、分からない部分は質問したいけれど、
作者の意見が強くなる不均衡は避けたい気がするし、
もし作品を気に入らなかった場合、
ひたすら気まずい気もする。
基本的には作家はいなくて良い気がして、
むしろ知人であれば連絡いれてから、
作家も一緒に自分の展示会に足を運べばと。
むしろ作家は自由に身動きがとれるほうが良いのかなと。

グループ

美術の人に話を聞く中で、
現在の写真の美術における大きなものとして、
ベッヒャー派と言うものがあるのかと思う。
そのグループの中で活躍した人が多数いたからの、
結果としてある呼称かとは思うけれど、
信念なり思想、方法なのかもよく分からないけれど、
何らかのそう言ったものを共有する中で、
一つのブランド化(ブランドに対する信頼が、その所属の評価をも保障する傾向)、
を、形成するのかも知れない。
そうすることにより、
受けて側が全ての作品を見る負担を軽減、
ある種の指標を提供し、
求めるものを探しやすくすると言うことがあるかと思う。
(ただ本来は全部見るべきだと思うけれど)
また、TVにて、小説家のエージェントと言う職業がとりあがられていた。
これは現在の日本文学の窓口がばらばらになっていることや、
翻訳者の絶対的不足が海外への進出において壁となり、
求められているのに翻訳が進まない、
と言った内容を受けて出来た職業らしい。
確かにそう言った役割は必要なのかも知れない。
ただそれの取り仕切りと言うものが写真において、
困難なのだと思うし、
その原因としては写真のコンテンツの拡散と、
写真自体が作家個人の感覚なり意見を重要視する日本特有の傾向、
またその閉鎖的な写真の世界に対し正面から向き合うことのない、
関わりのなさかと思う。
現在俗に言われる”日本の写真”というものが、
実際さすものは他の所でも書いたように、
カメラ毎日、写真時代と言った時期の、
雑誌を媒体とした写真が基盤となっていると思う。
その上で美術の文脈も加味した作家も出てきたのかと。
現在の日本のメディアにおける状況が、
カメラ毎日の時代のままだったら、
海外の人は雑誌社を数件回るだけで、
日本人写真家の特集などは簡単に出来たのではと思う。
やるかどうかは別として。
(現在は無数のギャラリーや写真家に対し個別に連絡が来るのかと)
最近の傾向としては、タカザワ氏の名前を美術誌に見もするし、
そう言った諸々の繋がりをとる役割を任されているのかなと。
勝手な推測だけど。
けれど一個人だけに任せては限界はあるだろうし、
もとより対象となる写真家の意識が変わらない限りは、
かわらなかろうし、
この状況はしばらく続くのだろうなと思う。

空間

展示において、
作品と作品との間隔をどれ位とるか、
また、
何段がけにするかによって、
印象と言うのは大分かわるし、
また、
その傾向によって、
写真ぽかったり、
美術よりだったり、
はたまた写真愛好会のグループ展とか、
系統分けが出来る気がして、
そこら辺を意識した上でやることは、
あざとさではなく、
当然の礼儀としてあるのかと思う。
まず写真、
特に東京での展示では、
1段がけで、窮屈にならない程度の間隔で並べることが多い。
ここら辺は写真集が、
どこかしら意識されているのかなのか、
写真と言うものはある一定の連続性で見るものだ、
と言う意識があるからではないかと思っていて、
それゆえ流れ、並べと言うものに対する比重が大きいからだと思う。
それに対し、
美術、
と言うよりはコマーシャルギャラリーでは、
一点一点を見せるように、
作品と作品の間は、
大きく離れるような。
あくまで作品の連続性と言うよりは、
空間における位置作用であって、
それをブックにまとめても、
あくまで作品の羅列であって、
連続性によるものは、
そこまで重要視されてないような気がする。
写真愛好会の展示は、
あくまでグループ展で見やすければ良いのと、
あとは一点で成立するように写真が作られるので、
作品同士の間隔は、
殆んどなく、
あえて言うなら、
作者と違う作者を区別できるよう、
間隔はあけられるような。
だから段組も特に意図はなくされるし、
写真を見やすい位置に据え置いた結果として、
その間の空間が形成される様な。
最近はコマーシャルギャラリーのような、
空間を大きくとり、
大きな作品を並べるのも多くなった気がするけれど、
単なるコマーシャルギャラリー等の憧れなのかなんなのか、
そう言った短絡的な、
あえてそうすると言う意図がないような展示も多々見受けられるような。
もし自分なら、
と言うところでどう展示するかを考えるとき、の、基準は、
まずスタンダードに並べるか、
そこから外すか、
そして外すなら、
見やすくするか空間演出の方に流すか、
その上で何を見てもらいたいかを意識するけれど。
壁を埋め尽くすのか、
大きな塊として空間に据え置くかでもやり方は大分かわると思うし、
あとは見る人が疲れないよう、
だれないような流れは、
意図するけど。
例えばどう見たら一番見やすいですか?
と言う質問には、
一応は答えれるようにはするなぁ。

撮影本数

意図を明確にしても、
作品は良くはならない、
と言うのが写真の考え方のなかにはある気がして、
要はこういう写真を撮りたいと、
それに近付けようとした写真は、
つまらないから、
むしろそれが偶発的にとれる、
状況に追い込もうと言うのが、
写真らしいやり方なのかと思う。
その為に数をひたすら撮ると言うのがあるのかと思う。
そう言った中で、
数を撮ることは、
多分端から見る以上に重要視されている部分はあって、
内容が良くないとき、
"数が足りない"との批判の語彙は、
昔の根性論の様にある種妄信的に、
けれど確かな結果として、
写真の中に存在しているのかと思う。
少ない数で良い作品を作ると言うのは、
職業カメラマンとしての能力の高さであって、
作品作りの姿勢としては、
敬遠されがちのように思う。
無駄うちすれば良いとは思わないけど、
圧倒的な数の先にある価値観と言うものを、
追い求める傾向はあるのだろうと。
ただそれでも、
撮影本数が少ない人もいなくはないし、
そう言った人は往々にして、
編集や構成能力が高い傾向にある様な。
そこに依存した人の作品に魅力はない気がするけれど。

モノクロからカラーへ

元々モノクロで撮影していた人が、
カラーで撮る、
と言うこと、
その変遷等を目の当たりにすることもしばしばあって、
たまたま自分の場合は、
モノクロ→カラーはあるのだけど、
カラー→モノクロと言うパターンは、
覚えている限り観たことがない。
元々併用している人は別として。
実際、
モノクロからカラーをやる人にしても、
流石にカラー暗室までやったりはしてないことより、
暗室作業を両方やる人は珍しいし、
モノクロをお店に出してやる、
と言うとこの目に見えない抵抗感が、
作用してるのかなと思うのだけど。
で、
モノクロをやっていた人のカラー作品と言うのは、
何となく特徴があって、
比較してと言うところにとどまりはするものの、
何となく色よりも形に反応していて、
モノクロの作品に、
色がついた感じがするので、
わりと観るとすぐわかる気がする。
逆、
カラーからモノクロと言う場合においても、
きっと何らかの特徴があるのかとは思うのだけど、
如何せん観たことが少ないので、
良くわからない。
大学の時、
カラー写真研究室の人が、
モノクロを焼いたら、
他の人がモノクロでも色が見えると言っていて、
そう言えばレイジングブルと言う映画は、
それに似たような印象をもったなと。
はたまた、
昔から写真をやっていた知り合いは、
モノクロの方が、
色がごっちゃにならないように、
逆に気を使うといっていたので、
多分カラー、モノクロと言うよりも、
違うところで線引きされる、
特性と言うものがあるのではないかと。
そこら辺で、
モノクロからカラーに変わるところで、
その特徴を改めて確認する人もいれば、
そこで変わっていく人もいるのだと思うけど、
知る限りではそうそう変わる人はいないのかなと。

                   

質の上げ方

コマーシャルギャラリーや、
美術よりの人に良く見られる気がするのだけど、
解像度やシャープさ、
要は35ミリで撮るか、
中判にするかで、
共に撮影に不都合がなければ、
より鮮明に写るような選択をする傾向にあるし、
疑うところではないのかと思う。
商品として考えるのであれば、
自然な流れにも思えるけど、
わりとここら辺も色々自分達が引っ掛かるとことしてあるのかと思う。
自分だけなのかもしれないけど。
あまりにキレイなカラーはつまらない、
この粗い感じがなんともいいね、
と、
知り合いが展示をしたときに言われていた誉め言葉で、
粗さが若干目立った知り合いの写真を、
ギャラリーの人が良いと言っていて、
逆に他の人には、
その粗さを指摘され、
そこが焦点にはならないでしょうと、
苛々したとも聞く。
正直自分も、
幾ら写真がシャープに鮮明になったとしても、
作品に力がなければ、
それらのものは邪魔にしかならないし、
そこにお金なり労力を、
作品の内容に負担が掛かるほど、
掛けすぎるのはおかしな話だと思うのだけど、
その一方で、
変に開き直ってしまう傾向は、
良くないなぁとも思う。
自分が中判でやっていた時のメリットって、
上下の煽りが抑制されていることや、
ピントのシビアさや携帯性の悪さ、
窮屈さによって、
逆に気づくことが多いとこだと思うのだけど。
むしろ解像度なりシャープさは、
魅力にはならなかったなぁと。
だから変に階調だったり解像度、
シャープさを指摘されるのは、
誉められてもけなされても、
なんとも煩わしく思えてしまう。
最低限のシャープさは、
欲しくなるけど、
多分思うより、
全然その位置付けは低いと思う。

知る場所と知らぬ場所

海外等、
初めて行く場所には、
新鮮さがあり、
それ故に自分が振り回され、
まともに撮れることはない、
と、
言うのはわりとよく聞く話で、
実際自分で考えてみても、
いつも通る場所など、
見飽きてるはずなのに、
撮ってしまうし、
寧ろ、
見飽きてからが本番なのではとも思う。
実際、
最終的に残るものは、
そう言ったものが多い。
逆に見知らぬ場所でも撮れる、
または撮らざるを得ない状況で、
結果を残せる人を羨ましくは思うのだけど、
そう言うものは往々にして、
自分の得意分野に落とし込む感じで、
それはそれで核たる部分に、
ブレがないことでもあるのだろうけど、
出来ることをしてしまう、
危うさも多分にあるような。
その核たる部分の枠組みをも、
変える切欠に出来るなら、
旅をしながら撮影してることが、
プラスにもなるのだろうけど、
自分は多分良い方向には作用しない感じが強く、
そう言うのもあって、
旅先ではなく、
永住を目指しやっているのだと思う。

日本の産業における写真の傾向

某ミニラボに勤めはじめてよく思うのは、
日本において写真に関わる職種が薦めるのは、
撮ることであって、
他者の作品を買うことは愚か、
見ることは基本的に薦めないと言うことかと。
あくまでも産業としての部分では。
まぁ、作品が商品には不確かであることと、
高価な要素が多すぎてまだまだ時間がかかるのは確かだけど。
自分だけの作品を、
自分だけのオリジナルフォトブックを、
と、
結局のところ、
個人ないし個人の繋がりで完結するものが現状の写真なのかと。
そして写真集においても、
極一般的支流は、
購買層が真似できそうなもの、
とかがメインのような。
図書館の蔵書を見ると、
現状が分かりやすく出てるのかと思う。
逆に自分回りの人とかは、
自分には出来ないなぁと言うものは買うけど、
自分で撮れそうなら自分で撮れば良いやとまず買わない。
基本的にデーリースポーツの人が全員タイガースファンではない様に、
写真にかかわっているからといって
写真好きというわけではないし、
詳しくもない。
あくまで知っているのは仕事の役に立つ知識に限定されるし、
それは至極全うでもある。
だらだらかいてしまったけれど、
要は撮影するお客は応援するけれど、
作家は自分たちの範囲外ですよと言うのが、
一般的な写真屋のスタンスなのかと。
そしてそこらへんが、
写真作品に馴染みのない人、
また、作家側の一般への偏見、
要は動物自然笑顔が絶対的な優位性を持つ、
と言ったようなことに繋がるのかと。
と言うか、作品と言うのは、
派手さはむしろ敬遠される傾向にあるのかなと、
写真作品を扱う漫画、物語なりを見ていても感じる。
特にそう言ったものでは変換がきかない感じがするやね。
表情やら、技巧、タイミングに逃げ込む感じはする。
むしろ変換し得ない部分が、
自分たちの言う写真の魅力なのかなとも思う。
写真を仕事にする、
と言う内容がちらほら観ることがあっても、
現在製作している作品を、
商品として認知させると言う感じはしないし、
あくまで技術なりサービスを商品として扱う、
仕事にさせようとしていて、
そこら辺で自分との方向性の違いを感じる。

記録性

記録以外の写真の役割を見出だそう、
みたいな内容が、
雑誌の複数名での対談か何かに書かれていて、
この話し合いのなかで、
どう言う位置付けとして、
記録性はあるのかと言うのが、
なんとも気になった。
まず自分個人の印象として、
写真は何らかの記録の範疇を出てはいけない、
との思いはあって、
それはなにも報道・ジャーナリズムとしての写真を求めてるわけではなく、
あくまで何らかの記録に過ぎないことにより、
写真が持ち得る良さと言うものを感じているからで、
そこは、
言葉が無力であるがゆえ、
救いと言うものが存在すると言うのに似ている。
また、
作者の視点の記録、
と言うのが、
範疇のギリギリの様な気も。
あとは、
作者不在時点での価値こそが、
写真の本質ではないかと、
自分が思うからだったりする。
さて、
話を戻し記録以外の役割を、
と言うからには、
記録と言うものは、
誰しも認めうる写真の価値なのだろう。
あとよく言われるのは報道性で、
誰かに伝える為のツールと言うことだろう。
まぁ、
写真に限らず、
表現と呼ばれるものは、
基本自由だと思うので、
自分個人は、
記録の範疇を出るべきではないと思いながらも、
その範疇の外をやりたいなら、
それはそれでご自由に、
と、
それで良い気がするのだけど、
一つだけ気になるのは、
この対談をしている人達が、
記録なり報道に対し、
どれ位考えての発言なのかと言うことで、
単に既存の価値観の否定、
むやみやたらに新しい価値観を見いだそうとしているのなら、
それは軽率ではないかなと思う。
新しい試みや挑戦は歓迎するべきだと思うけど、
あくまで既存の価値に敬意を払った上での話かと。
過去の否定による、
安易な新しい価値観は、
何も魅力を感じないのだけど。
で、
記録性と言う中で思うこととして、
最近一つ思ったのは、
いつの間にかなくなってしまう、
(変わってしまう)地元の風景を、
記録しておくことは、
ある一定の価値観を共有できるのではと。
ただ、
単純な記録であるのなら、
Googleのストリートビューで良いと思う。
ただ、
そうも思いながらも、
自分の地元を撮った写真をたまたまWebでみて、
さすがにこれだけが残るのは嫌だなぁと、
もっと魅力的なもので残しておきたい、
と言うのは、
ただ記録するだけでは、
満たされることのない、
ものが、
写真として、
画としての強度なり、
そして個としての視点が、
必要なのかと。
ただ漫然と記録するのではなく、
一人の人間が何かにひかれ、
シャッターを切ったと言うことが大切で、
意識下か無意識かと言うところが、
作品としての記録か否かかに思う。
知り合いの知り合いに、
動画として写された中より、
一枚を選ぶと言う方法を言われたけれど、
それが可能な技術の向上は、
今現在あるとも言われたけれど、
そこに明確な視点と言うものは、
ないと思う。
写真家が何らかの記録として、
写真を提示するとき、
やはり個人としての意識、志向が、
そこに写り込む気がして、
そう言ったものが、
記録と同時に作品としての昇華を、
満たすような。
言えば確かに一人の人が、
そこに魅力を感じ心動かされた、
記録が自分における写真なのだと思う。

肖像権

森達也の放送禁止歌と言う、
ドキュメンタリーが、
YouTubeに上がっているのを見ていて、
ふと、
写真における肖像権の話と似ているなぁと思った。
ドキュメンタリーの内容としては、
放送禁止歌は誰が禁止してるかを調べて行く中で、
実のところ誰も禁止はしていなく、
抗議等を警戒するあまり、
実像のないタブーが生まれ、
数々の曲が、
テレビから消えていったとの内容だった。
実際、
他の人と何らかの印刷物に載せる写真を選ぶ中で、
何回かそう言った過度の警戒から、
顔が写っているから、
これははずした方がよいのではと、
言われたことがあった。
個人でやっているときは、
人がどんなにバッチリ写っていても、
DMとか気にせず載せていたし、
トラブルになったとも聞いたことがない。
実際トラブルになったことがあるのは、
写真を実際撮影していてで、
それもよっぽどではないと、
なかったと思う。
街中でのスナップを撮りづらくさせているのは、
写真関係者、
特に雑誌なり印刷媒体に関わる人の、
過度の警戒心だと思っていて、
また、
トラブルがあったときの為に、
説明出来るようにする、
その準備への怠慢で、
むしろそう言った説明出来ることが、
課題としてあるのではと思う。
自分は職場や知り合いにも、
全然写真をやっていることは、
いっているけど、
人によっては相当理解のある人以外は、
引いてしまうと考えていて、
言わない人もいる様。
(町中でスナップをしている人に関して) 実際そこまで拒絶することはないと思うのと、
あるとしたら、
どこが問題ないかを、
意識して取り組むことも必要なのかと。
追記 芸能人が無断で撮影され、
ツィッター等にアップされたのを、
やんややんやいっている。
はて、
こういう事象に対して、
自分達はどう対応すべきなのかなぁとか、
疑問に。
自分達は有名人でもない普通の人を街中で撮影している訳で、
芸能人なんかはまず撮らないのだけど、
このことは、
撮影する自分達と被写体(街中の人々)、
と、
撮影するファン(なのかな?)と芸能人と、
同じ図式になるのか否か。
自然な仕草を撮りたいと言うのが、
こちら側の一つ譲れない部分ではある。
声をかけてしまうと、
自分が撮りたいものにはならない、
また、
街の記録として写真が存在した時に、
人が全くいない状況は不自然である、
との内容を知り合いがいっていたけど、
それは至極当然なのかと思うし、
やはり自分達は撮らなくてはならないと思う。
また、
撮れる状況を確保することも、
写真家としての役割に含まれる気がする。
芸能人がいっていることも、
わかるのだけど、
それをそうですねと言っているのでは、
益々自分達のやりたいことは出来なくなってしまう様な。
写真から人がいなくなると言う、
危機感を、
作品を通しアピールする、
そんなアプローチが必要なのではと。
ただ、
やり方を間違えると、
益々自分達の首をしめそうだけど。
そんな話を知り合いにしてみたところ、
          最終的には、
肖像権と表現の自由との中で、
考えていくべきなのだろうとのこと。
実際大きな事件としては、
デコルシアでの裁判で、
訴えを起こした被写体に対し、
肖像権よりも、
優れた芸術における表現の自由の権利の方が優先されるとの判決が。
うろ覚えだけど、
(あくまで`優れた芸術`と言う前提がある訳なのだけれど) こうなると、
撮影する側は表現の自由を主張すれば良いのかとなるけど、
そうではなくて、
人としてのマナーの問題の方が、
個人的には優先されるのではと。
何か不信感を持たれたときに、
表現の自由が、
といわれても、
撮られた側は納得はしないような。
裁判沙汰になり、
実際表現とかが勝った事例が一杯出てきても、
解決の要素にはならないような。
あくまで人の有り様、
礼儀としてどう対処するかなのかなぁと。
知り合いで撮影したあと、
笑顔で挨拶すると言う人がいたけど、
そう言うのは良いなぁと。
あと、
また別の知り合いに聞いたところ、
結局良く撮れていたら、
問題ないんじゃないの、
とのこと。
しかしながら、
聞けている意見は写真関係の人にとどまるので、
長い間をかけてどうすべきかを、
考えていこうと。

一般の人に自分達の写真は通用するのか?

知り合いに、
自分達は新宿周辺で写真をやっていて、
互いにやっている人には、
相応の反応があるのかもしれないけど、
一般の、
特に写真に馴染みのない人に、
自分達の写真を見せて、
良いと言って貰えるのか?
"こんな難しい高尚なもの"、
と言うオブラートはありつつも、
"自分には分からないよ"と言われてしまえば、
自分達のやっていることなんか、
相手にされないのではないかとのことで、
また、
そう言った意見から離れ、
分かる中だけでグルグル回してきてしまった、
ツケを、
払う段階に来てしまっている、
からこそ、
そこへのアプローチが必要かと言うことだった、
と、
思う。
酔っていたけど、
多分そんなことだったと思う。
他方で、
いきなり見せたとしても、
やっぱりその良さは分からない、
その準備なりアプローチを、
どこがしらでしなくてはいけないとは、
  別の知人。
サッカーの撮影の仕事をしている人で、
プロの前段階としてユースがあるように、
何事も下準備となる、
まっ更な状態から体験へと繋ぐ、
そんなアプローチをやっている側が、
作らなくてはいけないとのこと。
はたまた全く経験のない人から、
自分は表情が良かったり、
情景としてきれいだったり、
ごくごく一般的に良いと言われる、
そんな写真しか分からない、
が、
しかし、
それらに当てはまらない、
自分が建設中のビルを撮った写真には、
言い表せない凄みがあるのは、
確かに感じる、
とのこと。
分かんないけど、
スゴい、面白い、
とは中々良い反応だと思っていて、
分かんない、
つまらない、
もう見たくない、
が、
一番怖い反応だと思う。
最初の知り合いは、
言えばプロレスの様に魅せないとと。
本当に強いのは勿論のこと、
ただその強さを誇示するではなく、
ショーとして、
初めて見る人をも引き付けないと、
それ位のサービスは、
あって然るべきでは、
とのこと。
そうして新しいお客さんに来てもらえなければ、
やっていても先細りだろうと。
ついでに言うなら、
ショーが先行して、
実際強くない写真は、
それはそれでよくなくて、
本当に強いのだけど、
ガチンコで相手を瞬殺するのも、
これはこれで興業にならない。
そんな二極化が、
現状だろうし、
もし後者であろうとするなら、
それはもう圧倒的なものではないと、
いけないのだろうなぁと。
追記
知り合いの写真を、
自分の知り合いが見ていた感想で、
絵画の人とかは、
知り合いの写真に対して、
色に強く反応していて、
自分達とはまた違うけど、
反応はないこともないと思うのだけど。
自分も西脇などで写真を見せてみると、
やはり反応はなくはない様な。
岡山の知り合いなどからも、
全然写真業界とは馴染みもない所で、
自分達が目を見張るような写真に出会うことがあるとも。
単純に決め付けて距離をとっている部分も強いだろうし、
実際どうなのかちゃんと見せることは大切なのだろうと。

ギャラリーに人はいるべきか

端的に言えば、
作家はいなくても良いから、
誰かいてよ、
と言うところで、
元々自分もやっていたから、
どうしてもいれない事情も、
分からなくはないけど、
さすがに余りに続きすぎると、
もうちょっと改善できないものかと言う、
愚痴だったりする。
もし作品なり本が欲しかったとき、
連絡を取り、
改めて足を運ばなくてはいけないのかすら?
そこまで来る側に負担させるのかすら?
もしくは売る気がないのかすら?
と、
自分は思ってしまう。
なんだかなぁ、もう。

転売

知り合いの本屋さんと話す中で、
写真なり現代美術なり、
セカンダリー市場を、
敵視しすぎてませんか?
と、
言われた。
もっと分かりやすい言い方をすれば、
転売を嫌がる傾向が強すぎませんか?
と言う話で、
その古本屋さんの話としては、
転売とかしないと、
値段や価値って上がっていかないのではないかと。
売れてコレクターなり誰かに収蔵されて、
そのコレクターが死ぬまで、
そこに作品があるだけなのは、
果たして作者にとって良いことなのかと、
むしろ転売等されて、
そのことによりまた、
市場が活性化した方が、
作者にもプラスではないかとのこと。
実際、
転売自体はコマーシャルギャラリー等、
問題にはしてないことと、
ただ、
転売するときには是非相談してくださいと、
その作品が今どこにあるかの管理は、
気を付けてるような気がする、
と、
言ったら、
なんか話が落ち着いたような。
確かに前、
誰かの本でセカンダリーでは買わない様、
促すような記述はあって、
理由としては、
セカンダリーでは本物かどうかの真偽が怪しい、
と言うことから派生する、
信用度の低下を問題視していて、
値段が不安定になったり、
色々な問題はあるのだろうと。
あと、
名古屋のギャラリーの人が言うには、
転売は寧ろ歓迎していて、
ギャラリーの役割とは、
そう言った転売なり、
作品の所有権の移り変わりを、
管理することが主だとも言っていた。
実際どうなのか迄は分からないけれど、
それぞれに一理あると思うのと、
同時に、
作る側よりも、
転売する側の方が、
何やら転売などして良いのかなぁ、
と、
気にする所は強い気がするのだけど。
自分が買った作品等を、
他の人に譲るのは、
何だか作り手の人に悪いような、
お金がもし欲しければ、
自分の作品を売らなくてはなぁとか、
思ったりもする。
ただ、話してて思ったのは、
飾るのを主として、
作品を買うのであれば、
飾る場所というのは限られているわけだし、
中古カメラ屋等でも、
新しいカメラを買うために、
下取りに出して、
その差額でより新しいカメラが売れるよう促したりはしてるなぁと。
作品と商品は違うんだよ、
という意見は根強くある気はするけど、
基本的にそう言うのは、
引きこもりの甘えだと思うし、
あとは、
作者から離れたものの、
買い手の箪笥の肥やしになるよりかは、
人に見てもらえるという意味で、
転売された方が、
作品としては幸せなのかなぁと思う気も。
勿論ずっと飾っていてもらえるのが、
一番幸せだろうとは思うけど。
あとは家の近くにある画廊の人などは、
新しい画を飾りたいと、
持っている画を売りにも来るのだとか。
だから、
その流れで考えれば、
通常よりも安い値段で、
前の作品の引き取りと合わせて、
新しいのが買えますよ、
という流れなのだろうけど、
現状でも中々売れない作品が、
戻ってきてまた売れるのだろうか?
と言うのは、
すごく疑問。
まぁ、
とにかく水やお金と同じで、
流動的にさせるのは必要なのだろうなぁと。
諸々の問題は解決しなくちゃいけないけど。

ベースとなる場所

写真をやる上で、
展示なり本なり、
はたまたイベントなり、
トークショーだったり、
ワークショップ、
Webでの発信、
グループ展と、
様々にやることはあって、
(全部を実際やってるかと言えば、
全然そんなことはないけど) その中での初心なり、
活動の基盤となる部分というのは、
大切な気がして、
そういう意味では、
TAP にいるときは、
TAP での展示が、
自分の基盤だったと思うし、
そう言う環境を得るということが、
ギャラリーをやる上での、
メリットだったのかなぁと振り返り思う。
ギャラリーをやってない人だと、
毎回やるギャラリーの展示が、
ベースとなって、
そこを基盤として、
他へアプローチをするような。
実験をするのも、
アピールをするのも、
ベースとなるそこ、
はたまた、
出来ることが限られたとしても、
その活動だけはやめない、
すべての行動の土台となる部分で、
失敗してもまた、
そこよりやり直す場と言うか。
(何が失敗なのかは分からないけど) 実際TAP を抜けてから、
その基盤となる場所・活動というのを、
新たに作る必要があって、
とりあえず自宅と言うのを、
今のところは定めていて、
webサイトを対外的窓口にしておこう、
と、
言うのが一応の意図としてはあるのだけれど、
中々上手くいくものではないよう。
反応が全くないですな。
ただ、
現実問題として、
最終的には西脇での展示を、
活動のベースとしてやろうとしてる訳で、
webサイトが窓口としての役割をなさないことには仕方がないので、
そこは変えるつもりはないのだけど、
寧ろそこが窓口として機能してもらえると、
本当に場所を選ばず活動できると思うのだけど、
現実はまだまだ厳しい。
話は少しずれて、
知り合いに、
古本屋さんが多いので、
古本屋さんで見てみると、
古本屋さんは大きくそのベースが、
三つにわかれている気がして、
市場(いちば)でのやりとりをベースにしている人と、
ネットでの販売をメインにしている人、
それと店売りで勝負している人といて、
まぁ、
それと別に、
デパート展と言うのもあるけど、
まぁ、
ベースより広がったものと考えて、
まぁそう言う傾向があって、
だから実際知り合うまで、
古本屋によっては、
ひっきりなしにお客さんが出たり入ったりするわけでなしに、
商いとしてどうやって成り立っているのか、
不思議に思う人も多いのかと思うし、
自分も良く分からなかったりしてた。
で、
店売りで勝負してるお店は、
ネットはやってない場合も多いし、
そこに費やす労力に見合った効果はないと言うか、
通常の業務に支障をきたすからやってないように見えるし、
実際これからもやったりはしないのかなぁと思う。
ネットを中心にやってる人は、
お店で大量に売ってる感じはないのだけど、
いつも情報をwebにあげたり、
注文が入ったものの梱包なり発送、
あとは仕入れなり本を磨いたり、
なんやかんやで、
忙しそうにしている。
他方、
音楽などは、
知り合いにいるわけではないので、
イメージでしかないのだけど、
CDを三年ぶりに作りました、
と言っても、
その間何もやってないわけではなく、
ライブをやったりしてるので、
あとは、
ディナーショーなどもそかな、
特に昔の歌手などは、
お笑い芸人さんなども、
テレビに出てこなくなったりしても、
営業をしたりする中で、
日々技術なり挑戦したりしてるのかと思う。
で、
写真の場合どうかといった中で、
本をベースにやる人と、
展示を中心にやる人、
あと今はあんまりいなくなってる気がするのだけど、
雑誌を中心にやる人なのかなぁと。
自分は前述した様に展示が中心だし、
森山さんや村越さん等は、
本が中心だと思う。
展示も本の為にやる気がするし、
そんなに本出す必要あるの?
という気もしなくはないけど、
活動のベースがそこなのだから、
まぁ。
いずれにせよ、
活動の核となるものがあって、
その派生があるのだと思うし、
そこがしっかりしてればこそ、
多ジャンルなり、
発表の場は広がる気がして、
ちょっとニュアンスは違うけど、
歌舞伎の型があり、
それをくずすことが成立したり、
基本があって、
応用がある様なとこはあって、
基盤となる核がなく、
あれこれやるのは、
間抜け(間が抜ける)なのだと思う。
ちらほら変に自分のイメージが固まるのを拒んだり、
ギャラリーをやめたりとかする、
そう言った知り合いの話を聞くけれど、
(無論自分もそうだけど)
基盤をどこに置き、
活動をするのだろうと言うのは他人事ではない、
興味として。
一つの懸念としてあるのは、
‘ここではないどこか‘を求めるのなら、
それは無駄に新しさを求めることと変わらないと思う。
縮こまって動かないよりかは、
遥かに良いけど、
何らかのことを提示出来なければ、
みっともないのだと、
自分も該当するだけに、
厳しいとこだと思う。

食べ物について

とりあえず考えたりすることは、
全て書いておこうと思ったので。
下らないので読まなくても大丈夫です。

亡くなった祖母と話す中で、
肉が好きか魚が好きか野菜が好きか、
みたいな話をよくしていて、
祖母は肉よりは魚、魚よりも野菜、
そう野菜が好きといって、
肉をしっかり食べて野菜を残していた。
どこか野菜は健康的であるというイメージから、
肉をよりも野菜を好む方が、
祖母の美徳に該当したのだろうけれど、
お肉が好きだったのだろうとか思うし、
お肉は美味しいものだと思う。
さて孫である自分はどうなのかと考えると、
野菜は好きな方だと思うし、
両親が名古屋に行っていたとき、
実家で一人暮らしという不思議な状態になっていたけれど、
その時野菜ばかり食べていた。
油ものが食べたい場合は、
ナスのから揚げにキャベツの千切りを添えて食べていた。
ただサンドウィッチをコンビニで買うときは、
ハムなりチキンカツなり入っていたものを選ぶ傾向にあるし、
チャーハンなどにも何かベーコンやひき肉など、
肉っぽいものが欲しくなるので、
とてもじゃないけれど菜食主義者にはなれないと思うし、
お肉は好きなんだろうとか思う。
さてそれでは野菜では代用しえない、
お肉の魅力というものは何なんだろうというのが、
最近食事しているときちょくちょく考えることだったりする。
漫画のキャラクターが食べてた肉の塊は、
さすがに脂っこいようで食べたいと思わないけれど、
微量でいいので肉の要素はあって欲しいとか思う。
サラダとかにひき肉が少しだけ混ざっているものとかも、
おいしいなぁとか思う。
ただ、乾燥させた豆腐とかはお肉と似た美味しさがあるような。
むしろ完全に代用できるなら肉を食べなくてもいいような。
というかお笑い芸人の小藪氏(敬称は何が適切か分からないので氏)
が鳥、豚、牛を食べないといっていたけれど、
肉を食べれないとしたら乾燥豆腐がいいのだろうか
あとはツブガイとかは代用できる気がするけれど。

醤油

母親の実家が鹿児島なのだけれど、
小さいころ夏休み帰ると醤油が甘いのに驚いたことが。
ただ鹿児島だけかと思っていたら、
大きくなってから、新潟に行っても醤油は甘く、
どうもこれは醤油は地域によって違うんだなと。
青森に行ってみると東京と同じでしょっぱいみたい。
西脇は甘口で、色々な人に聞いてみたところ、
とれる魚によって甘かったりしょっぱかったりする模様。
白身のさっぱりした魚は甘口で、
貝やマグロとかはしょっぱい。
ただに新潟で甘口醤油でマグロを食べてみて、
合うんだなと思って、
甘口の醤油を探すようになっている。
ただ知り合いは甘い醤油が苦手で、
親戚の所にに行くとそれが大変だといっているので、
そういう意味で食文化というのは改めて、
生活になじんでいるのだなと。
あとは知り合いが高い肉を買わなくても、
むしろ調味料にきちんとお金をかけた方が美味しく食べれるとの内容に、
感銘を受けたりしているので、
地域性を考える中で調味料というものが、
大きな役割を担っているんだろうなとか思う。

菓子

小さい頃はきちんと3時のやつ時に食べていたお菓子は
祖父母がいた影響もありひたすら煎餅だった記憶が。
その影響があるのかないのかは分からないけれど、
お菓子といったときに甘いのはそんなに食べたいと思わなくて、
食べたいと思うのは煎餅やポテトチップス、
あと何があるのか思い浮かばないけれど、
しょっぱい感じのお菓子となる。
食べたら食べたで甘いのも美味しいのだけど、
どちらかと言えば甘いなら果物にいってしまう。
それでもなければジュースと言う感じかと。
とにかくお菓子といったら自分の中では煎餅で、
とくに揚げ餅っぽいのやサラダ味全般が好きで、
逆に苦手なのはゴマや醤油。
醤油自体は好きなはずなのに、
煎餅になるとなぜか苦手で。
知り合いはカントリーマームがお菓子の中で一番というけれど、
甘い物が苦手な自分としては
おこげ煎餅サラダ味が一番美味しいです。
甘い物で唯一食べたいとしたら揚饅頭です。

味付け

美味しんぼをよんだりしていると、
関西の人と関東の人とでお互いの味が気に入らないと喧嘩する、
東西の味付けの違いに関する内容があったりします。
自分が気になるとこだと、
関東の稲荷は油がきつくて食べられないし、
そばよりもうどんが好きだったり、
ラーメンも醤油よりは、塩やとんこつと、
他の特定の地域がいいというのはないと思いますが、
この食べ物は東京の味付けでなくてはと言うのがありません。
他の土地では食べられないというのであれば、
母親が作った春巻きとかくらいで、
基本的には味としての未練は東京にはない感じです。
しかし美味しんぼの世界は良いなぁとよく思います。
美味しい物があれば全て解決できるのですから。

基本的には生野菜、生魚、生肉と、
可能な限り生で食べるのが好きです。
酢豚に入っているキュウリとか、
自分の中では考えられないです。
生のまま味噌でもつけて食べたほうが断然美味しい、
と、いらぬ反感さえ持ってしまいますし、
ニンジンもグラッセなんかより野菜スティックにした方が、
あとは食べれなくなってしまいましたが、
焼肉よりもはるかにユッケの方が好きでしたし、
海老の刺身は好きでも、
海老の湯がいたものとかはあんまり好きではありません。
キャベツとか食中毒が騒がれたときには、
家では湯がいて出されましたが、
それならせめてピクルスにして欲しい感じでした。
もとよりなんで生の方がすきなのかと考えて見ると、
おそらくは煮たりしたときのグニャっとなる食感が好きではなく、
考えて見るときのこや貝類が苦手だったのも、
そういった食感によるところが多かった気がします。
最近はズッキーニを親とかは出してきますが、
ズッキーニも自分は苦手で、
唯一生よりも焼いたり湯がいたほうが好きなのは、
野菜では茄子くらいです。
あとは焼酎とかは生ではすぐ酔ってしまうから水割りに。
それ以外なら全て生で食べたいものです。

元々ウィスキーや梅酒から入り、
中々ビールに馴染めなかったけれど、
周りがビール等が多かったので、
ビールを呑む様になったら、
痛風予備軍になってしまい、
そんで持って焼酎を恐る恐る呑むようになって、
(面倒臭くなり最近はビールをまた呑んでる)、
でも日本酒は相変わらず呑めないというか、
単純に酔ってしまうのであまりのまない、
ワインの赤は呑める、
と言うのが自分のお酒の遍歴だったりする。
ただ知り合いの話を聞いていて不思議なのは、
日本酒もワインも焼酎、泡盛についても、
辛口が良いという人はいても、
甘口、フルーティーなものがいい、
むしろ辛口のは苦手と言う人に会ったことがない。
とはいえ、皆が皆辛口が良かったら甘口が存在し得ないわけで、
甘口が良いという人はいるのかと思う。
ビールのヒューガルデンなんかはたまに呑みたくなるし。
あとは印象としてお酒好きな人は最終的に日本酒を呑むなぁと。
そう言う意味では自分はそこまでお酒好きではないのだろうなぁとか思う。
最近は少量で酔ってくるし。
ただ知り合いの話しいわく、
お酒が20から30代の時に一端のピークを迎え、
40代で一旦弱くなったとしても、
50代で盛り返すらしい。
何の裏づけもないので話半分で聞いているけれど。
でも顔に出るのに弱くない人、
逆に自分のように酔っていても顔にあまりでない人、
人それぞれなのかなと思う。
あとは豆知識として、
モエシャンドンを幾ら位で出しているかで、
お店が良心的な値段設定なのか高めなのかが分かるらしい。
たぶん日本酒でもそういうのはあるのだろうなとか思う。

おにぎり

こどもの頃、昔話などに出てくる、
笹の葉にくるまれたおにぎりに良く分からない憧れを持ち、
きちんと三角に結べるように食事毎に作ったりしていた。
その後昼食代がもったいなくなり、
おにぎりをもって行くようになったけれど、
そのうち中身に凝り出して、
前の日の夕飯残りを手当たり次第入れたところ、
麻婆豆腐は美味しいけれど麻婆茄子はイマイチ、
秋刀魚の煮付は塩を強めにしないといけないけれど、
牛肉の甘く煮たものとかは塩はいらないとか、
色々なこだわりなども出てきた。
個人的に美味しかったのは、
餃子と麻婆豆腐、あとは秋刀魚の煮付で、
言ってみればおにぎりと言うよりは携帯用”ご飯とおかず”で、
なんかの研究員がご飯とおかずをかためてビニール袋にいれている、
変わったお弁当があったけれど、
それに近いところがあるのかと思った。
あとは塩鮭とかに海苔をつける場合、
中途半端にぱりぱりしていると、
食べたときにおにぎりが崩れてしまうので、
つけるときに割りとしっかり水をつけてにぎっている。
コンビニの様に、食べるときに海苔をつける場合は、
全然問題ないのだけれど。
あとはちょっと汁気のある感じのものもあったので、
真空パックの袋にいれたりしてる。

この前テレビで野菜の皮や捨てる部分をひたすら煮込み
水の変わりに使うと何でも美味しくなる、だし汁?スープ?
みたいなものをやっていて、
それ単体で味わうとなんだかぼやんとしていたのが、
塩を入れるとその輪郭がはっきりとし、
逆にスープ?みたいなものの味の良さが際立ったそうな。
料理を作っているとそう言った輪郭を出すものがいずれも必要で、
その代表格が塩なのだと思う。
ただ塩の代わりに辛味を使ってもいいのだろうし、
いずれにしても輪郭を出す為の物だろうと。
塩なんて単体で口に入れたいとなんか思わないし。

厚み

準備中

言葉

自分が本が殆ど読まない中で、
読書家の知り合いが多いのはおそらく、
知人は書物を、自分が会話を媒介にしている相違であって、
おそらくは言葉への興味において共通だったからだろうと。
大学の知人と話した内容を下地に、
現在の言葉に対する考えを。

言葉に求めるもの

振り返り大学の知人と話した内容の中で、
自分が言葉を探すことに対し求めるものと言うものの一つに、
新たな視点と言う部分よりも、
自分の纏まりきらない曖昧な思想を、
言語化してくれると言うことがあるかと思う。
共感と言う現象がこの世にあるのだとしたならば、
それは経験があって始めて起こりうることであって、
無意識の状態の場合はあれど認知、またはそれに準ずる経験が、
何らかの形で済まされていることが一般的なのかと。
逆に自分の中で言語化までされていたものは、
俗に言う共感と言うものよりも新鮮味にかけ、
既に知りえた内容が書かれているだけだと、
否定的な感覚で捉える様な。
上記2点の相違はあくまでも言語化が済んでいるか否かでしかなく、
また、
本質的な意味で知識を得ると言うことはまた別にあるのかと思う。
自分が知りえぬことを言葉の中に見つける、
又はその書物に出会う時、
共感と言うものは存在しえなく、
あくまで自分の考えに固執するのであれば、
知は現実よりはじめて得られるものとしてあり、
現実よりも言葉との出会いが先行した場合は、
知を得ようとするきっかけであり、
(言葉として得たものは知ではないと言う考えより)
言葉よりも現実との出会いが先行した場合は共感となる。
知において言葉と言うものは、
映像における可視化に近いのかと思われる。
が、しかし、
写真が記録的、説明的な役割のみでの構成でない様に、
言葉もまた知や意味ではない、
言葉自体の魅力と言うのもあるはずで、
それは一つにはガールズトークと言ったような、
意味を求めないやりとりの会話をする行為自体の楽しみが、
そしてまた文字を読むと言う行為に対する快楽と言うものもあるのかと思う。
自分は前者は祖母との会話において特にそうだったかと思う。
逆に後者に関しては長々と欠損していた欲求かと思う。
おそらくはまだ気付かぬところで言葉に対する欲求や、
言葉の魅力と言うものはあるのだろうけれど、
現在自分が認識するものとしては、
上記に書いたものとなる。

2013年の5月3日現在、
中平卓馬「なぜ植物図鑑か」
吉本隆明「現在はどこにあるのか」
小林秀雄「初期文芸論集」(全て敬称略)を同時並行で呼んでいるのだけれど、
一つ勿体ない様に思うのが、
言語化され共感する内容があった時ほど、
さらさらと読めてしまう中で、
その内容が自分の記憶に留まらないことが多く、
共感したと言う快感を得るに過ぎないことがある。
もとより本に馴染みがない中で長時間読むことは出来ないけれど、
繰り返し反芻しやすさをまだ求めてしまう。
短編や絵本を昔よりもとめるのはそういう点も、
背景としてあるのかと思った。

語彙

ボキャブラリーという方が馴染みが良いのかも知れないけれど、
自分が本を読んでこなかったのもあり、
語彙数と言うものがおそらくは極めて少ないと思う。
なにせわからない言葉が出てきても調べたりは一切しないわけで。
昔大学の友人と話す中で、
彼は文章を文語調で書き、
自分は口語調で書くというのがあった。
他の人の場合に関しては分からないけれど、
自分は文章が会話の延長として考えていたことと、
映像の学校に行っていたときの、
シナリオの台詞を意識していたところより、
自分が喋り得る表現と言うものを選択し口語になっていたのかと思う。
また、元々文章を書き始めた動機が自分が読める文章を、
と言うのがあったので、文法的な正しさは完全に無視して、
とりあえず読みやすい文章と言うものばかりを目指していて、
だから乱暴だけれど、
自分にとって読めない文章と言うものを、
ある意味敵視していたのだと思う。
若い時特有の身勝手な感情とは認識をしつつも。
ただ、段々本も少しずつ読むようになって、
伝達の意味においては、自分の少ない語彙であっても、
ちゃんと伝えることは可能なんだなと、思うようになって、
それは孔子が啓蒙活動のために誰にでも分かる様な言葉を使うようにつとめた、
と言うのはいささか大げさになるのだけれど、
語彙と言うものはおそらくは情報量ではなく、
その選択の的確さなのだろうと。
難しい内容を子供でも分かる言葉で伝えることの出来る人が、
語彙力のある人なのだろうと。
ただ自分ひとりでの考えではいまいち分からないからと、
ネットで語彙判断というテストをやって見たところ、
大学生程度の語彙はあるらしい。
また個人的な実感として、
分からない言葉が本の中に出てきても、
3つ位までは調べなくても前後の内容から推察ないし、
無視して読んでいても大丈夫だけれど、
4つになると読む気が失せてしまう様な。
だから難しい内容と言うことでの拒否はないけれど、
分からない言葉がやたら使ってある本はいまだに読めない。
それは書き手、読み手、双方の語彙力のなさゆえかと、
都合の良い感じで考えている。

好きな言葉

昔より知り合いに、
格言とか好きだねとか言われるのだけど、
引用として分かりやすいから使うことが多いわけで、
そこらへんも言葉の良さなのかと思う。
名刺の裏にかけるぐらいの質量で、
持ち運び可能と言うのは中々。
ただ格言を集めた本とか色々出ているけれど、
そう言うのからあまり読んだりしたことはなく、
たまに読んでみたりしても、
はっとさせられる内容はあっても、
どこかで聞いたことあるような感じもあり、
斬新な考え方と言うものは中々ないような気がする。
あくまで共感にとどまる、ものではないと、
中々本の中に収まらないのかと思ったり。
好きなのはロートレックの、
”人間は醜い、でも人生はすばらしい”とかなんだけど、
それは共感として色々ある内容を、
短く示してくれるわけで。
あとは分かりやすい説明の道具としてだけではない、
むしろ道具としての意味は分かるのだけれど、
なんだか分からないようで分かるような言葉が魅力的に写る。
ざっくりとしたものの組み合わせによって、
その書き手の確固たる個性を感じるものがよく、
そこら辺は写真に似ている様な。
だから言葉も写真、映画とかも含めて、
多分見方としては同じで、
一つ一つの部分は地味であって、
流れとして魅力的なものがいい。
JRのキャッチコピーで使われていた、
”大人はとってもながいから”とか、
しみじみといいなぁと思ってしまう。
あとはこの前駅のポスターで、
斉藤和義の「やさしくなりたい」の、
”愛なき時代に生まれたわけじゃない”という歌詞が書かれていて、
最初は曲と歌詞がリンクしてなくて、
要はその曲だと気づいてなくて、
気づいた瞬間に音が聞こえてくるようだったのは、
なんか新鮮だった。
また、曲を何気なく聞いているときに、
如何に歌詞を気にしていないと言うのがよく分かった様な。
ファンの人はちゃんと歌詞も読むのだろうけれど。

力のなさ

大学の友人と話す中で、
言葉は言葉自体に力を持ち得ないからこそ、
救いがあるとの内容をよく話していた。
要は言葉が魔法の呪文のように、
何らかの物理的な事象を引き起こすようなら、
自分たちが現在言葉によって得られる有益性は、
きっと獲得しえないだろうと言う、
漠然とした実感だったりする。
シンプルな物ほど難しかったり、
簡単なものほど頑丈だったり、
何か上手い例えも関連性もないけれど、
飾り気のなさ、
何かに依存することなく言葉が言葉としてのみ存在する、
それゆえの力強さと言うものがある様な。
何かに守られながら存在するものは、
どこか弱さ、負い目の表れにも思うし。
上手く言えないけれど、
言葉の強度と言うものはそう言った弱さの上で磨かれたのだと思う。

文字の固有性

お宝~鑑定段じゃないけれど、
誰が作ったものかを見極めるというのは、
難しいのか難しくないのかもよく分からなく、
特に贋作を見抜くとかは無縁なことなんだろな、
と、
思っていたりすると、
自分の文字位は見極めれたりする。
真似て書かれたものでも絶対かと言われれば、
余り自信はないけれど、
自分が関わったかどうかを自分が確認するという意味で、
文字というのは中々便利なものかと思う。
字が綺麗な人だと分かりづらいような気もするけれど、
自分なんかは癖が強い字だったりするので、
まだ判別しやすいのかと。
また筆跡鑑定ならぬ言語鑑定というものもあるらしく、
言い回しや語尾の使い方によって、
誰かを特定する方法とのことだとか。
ただ指紋と登録したものに対し同一化どうかと言うことにとどまり、
役に立つのかたたないのかはよく分からない。
あとは最近ではモーションキャプチャーのように、
機械に記憶させ習字を書くとかもあるけれど、
そう言ったことで絶対的なことではないけれど、
文字や手作りのものの方が再現性が難しい傾向にあるのかなと思う。
まぁ、なんでも鑑定段ごっこみたいなのをやるのに、
誰が書いた文字かというのはお手軽で良いのかなと言うだけの話。

紙に書くこと

内容を散らばらすように喋る癖があり、
そのことを知り合いに注意されたことがあり、
一旦紙に書いてまとめと欲しいといわれた。
そう言った知り合いは仕事等で関わる人に対し、
紙にまとめている書類を全部をくまなく見るかは別として、
紙に書くことによって、自分の中で内容を整理してあると言う、
ある種一定の信用を持つとのこと。
最近は電話でのやり取りのあとも、
メールで内容を再送することも多く、
あとで行き違いがないように文字として残しておく傾向もあるし、
言葉が自分の手から離れる、
その実感を物質として存在する紙を媒介に得やすい、
また、その責任と言うものも意識するのかと。
メールとかはまだ自分もその内容をあとで確認出来るけれど、
手紙にいたっては殆どの場合が、
受け取り側のみ持ち得る言葉となり、
文字通り自分の手から離れる感じがする。
まず自分の書いた手紙のコピーなんて持たない。
そして記憶は日々薄れていくのだから、
自分が昔出した手紙の中に、
何か思い出したい内容(アイデアとか言葉とか)があっても、
それを明確に取り出せるのは受け取った相手のみとなる。
ここに書いてある内容はたまに見返して、
違和感があれば直してしまうつもりだけど、
何か紙に印刷や書く内容は訂正し得ないとの思いから、
やはり慎重に言葉を選ぶと思う。
そう言う意味でここは、
本人の意思が望もうが望むまいが、
草稿や素材と行ったところの域は超えないのかと思う。

ギャラリーの傾向

展示場所における傾向や運営方法に対し思うところを。

関東と関西

関東と関西と言っても、
今の所写真の自主ギャラリーに関してで、
関西自体そこまで回ってないので、
今の所か自分の回りのギャラリーと比較した時の、
関西のギャラリーの違いくらいで。
一つには展示方法が自分の所は横一列に並ぶ傾向に対し、
関西は段組にしたり、不規則に並べたりと言ったものが多い。
あとはギャラリー外の生活に無理をしないのか、
夜遅くだったり、週末だけにしたり等、
特殊な時間での展示も結構ある様な。
東京では街道やニエプスなんかがそうだと思うし、
続けることが大切なわけで、
そう言った意味では合理的だとは思うけれど、
行きづらいには行きづらいのと、
あまりに展示をするのが不定期だと、
ふと近くまで来たから寄ってみようとはならない様な。
あとは関西では複数のギャラリーを回るということも少ないと聞く。
距離的に離れている地理的条件による所が多いのだけど。
東京では一つのギャラリーに関わると、
同じようなことをやっている人とは自然と顔見知りになるけれど、
(関わらない流れも往々にしてありはするものの)
関西の人たちはどこまでつながりを持つのだろう?
とりあえずここでは顔見知りに自分の中でなりそうなまとまりをずらっと記述。
あくまで個人個人で違いはありますが。
TAP Gallery・SHUHARI・TOTEM POLE GALLERY・ニエプス・PLACE M・蒼穹舎
サードディストリクトギャラリー・ギャラリー街道・Roonee 247 photography。
大体ここまでは自然と知り合いになるし、
共通した事情みたいなのは知ってるような。
それと自分個人は頻繁に行かないけれど、
聞けば誰でも知っているのは、
PHOTOGRPHARSGALLERY・ギャラリー冬青。
誰が行っているかがよく分からないのが、
と言うか自分が行ってないだけのような気もするけれど、
pippo・ 現代HEIGHTS・THERME GALLERYなど。
これにコンテンポラリーのギャラリーも加わるけれど、
TAKAISIIとかシュウゴアーツとかのコマーシャルギャラリーは、
基本顔見知りにこれからもなる気はしないけれど。
本当だったらアンケートでもとって、
それぞれギャラリー巡りする順序でもまとめて見たいけれど、
とりあえず自分の印象として。
あとはコニカ・ニコン・東京都写真美術館とかはよく行きます。
オリンパス、キャノン、コダック、ペンタックス、富士フォトサロンは、
自分ではあまり行かないし、知り合いとで話題にしたことはない。
勿論そこをよく行っている人は行っているのだろうけれど。
なんかグタグタとまとまりのないような内容になってしまったなぁ。

仕事・組織・認識について

元々仕事における窮屈さみたいなものが厭で、
ただ、様々な職種を経験する中で、
ある一定の必然性も感じるようになりはしてきて、
だからと言ってそれを受け入れることが、
大人になったことだとは決して思わなくて、
むしろ昔の自分を説得できるような言葉を持つべきだと。
そういった考えのもと、
昔の自分に向けると言ったことを念頭に、
仕事なり組織、人へ何らかの提案をする時における認識の仕方等、
考えるところを。
写真に絡めて言えば説明と言う点においてどうすべきか、の、
思うところを。

認識

分からないことを分かろうとしたとき、
そのガイドとなるものは必要な気がして、
分かっている所、つまりは共有部分を探して、
それを広げることによって、
分からなかったものが分かるようになるのかと思う。
本当は実践することが何よりも近道なのかと思うけれど。
逆に何らかの発信をしたとき、
その共有部分をどこであるかを探しながら、
どう伝えるべきかを考えるのかと思う。
ちなみにその共有部分として大きいものと言うのが、
”金”、”理屈”、”常識”となるのかと思う。
例を挙げるとすれば、
この写真は素晴らしいということを、
まったく馴染みのない人に伝えるとき、
”とにかく素晴らしいんだ”といっても全く理解できないかと思う。
(それでも本当はその言い方が一番正しいと思いはするものの)
”これは一億円するんだ”と”お金”に即していうと、
え?これが?理解できないと言う好みによる反論はあるかもしれないけれど、
よく分からないけれど、価値のあるものなんだという認識はされるのかと。
理屈に関して言えば、
結果が伴ってはじめて説得力を持つものの、
と言う意味ではか細いものなのかもしれないけれど、
ガイドという面においては意味を成すのだろうけれど、
分かったと錯覚もさせるようにも思える。
常識は社会に備わっているガイドそのもで、また枷でもある。
常識に従っていけばある一定の地点までは行けはするだろうし、
時代時代の有益な公約数ともいえるのだろう。
上記の三つに加えて、
情熱や熱意というものもあるのだろうけれど、
結局はガイドであって、自分で体験しなければ分からない。
ただ知りえないもの、たとえば戦争と言ったものに対し、
どう向き合っていくかが、現在の課題のような気がする。

仕事

冊子でも書いたのだけれど、
自分の基本的なベースにあるものとして、
仕事とは元々全て一人でやらなくてはいけないところを、
集団において、効率化の為に分業として、
それぞれの役割として決めたのものなのかと。
だから本来は一人一人に全てにおいて義務はあるというのが、
自分の中での考えで、
批評にしたって、批評家がいるからやらなくて良いということではなくて、
代わりにやってもらっているということとなる。
外食とかだと分かりやすいけれど、
本来は自分で作らなくてはいけないのだけれど、
作る労力を代わりにやってもらっている訳で、
もっと遡れば野菜やお米も本来は自分で作らなければ、
食べることすら許されないのかと思う。
極端だけど。
つまりは集団における自分の役割と言うものが仕事であるわけで、
その行動の対価として支払われるのがお金であって、
お金はまた一つの価値の指標を作っているのだと思う。
また、集団における役割が、本当に必要なものなのかは、
それを行う人、要は企業や提供する側が示さなくてはいけなくて、
そう言うのを怠っては対価として支払われるはずの、
お金と言うものは得られないというものなのかと。
集団=社会、仕事=役割と考えたとき、
集団に役立つと言うのは社会貢献をすると言うところで、
社会に還元されないものは仕事ではなくて趣味なのかと。
で、
もし作家活動が仕事として認められたとしたとき、
その役割の説明というものが必要となってくると思っていて、
そこら辺が十分ではないから馴染みのない多くの人が、
買うと言う発想を殆ど持つことがないのかと思う。
あとは個人的に嫌なのは、
批判だけしていて自分では何もしていない、
要は、
なんで自分はこんなにいいものを作ったのに、
誰も認めてくれないんだといっている人で、
作品の内容はとりあえずおいておくとして、
やるべきこと、宣伝とか値段が分かるとか、
もとよりその価値を分からない人に提示するとか、
を、やっていないなら売れなくて当たり前だと。
そしてそんな人に限って自分の写真は売れる様な被写体ではないから、
とか言う。
実際売れている人を見ていみると、
被写体もそんな売れそうな感じばかりではないし、
売るために地道な努力を色々した上でやっている、
またはその役割を誰かに頼んだりしてたりで、
仕事としてお金を得ている人は通り一般の役割は、
ちゃんと満たしていると思うわけで。
細かくは具体的な役割との項で書こうかとは思うけれど、
売る努力をしないで売れないと嘆く人は、
とりあえずイラっとします。
売る努力もちゃんとしてるのに売れない人には、
何でだろうなとかおもいます。
自分の場合は6年間やったのを諸々合わせて、
20万弱位が写真を始めてから作品や冊子の売り上げで稼いだお金で、
勿論これで生活は出来ないし、
しかしながらこの程度は売れるのが、
最低限のベースになって欲しいと思います。
お金が入ると言うよりは、
その責任を負う経験として。

フリーからの起業

職種を点々とする中で、
派遣なりフリーでやっていた人が、
その取り仕切りを自分たちでやろうと、
起業している、
そう言った会社で働かしてもらったことが、
何回かある。
確かに仕事の内容としては変わらないわけだし、
人を集めることと、取引先なり人脈が出来るのであれば、
自分たちで起業するという選択肢も自然なのかと思う。
むしろ理にかなっていると。
一般企業との相違点を挙げるとするならば、
小規模ゆえのコミュニケーションが密であること、
要は責任者と働き手が直接の交流が殆どの場合にもあること、
及び血の通ったやり取りがあるということで、
逆にないところがもしあるとするならば、
管理体制における経験の少なさ、
要は税金なり福利厚生に対してのノウハウを、
自分たちで考えていかなければいけないことと、
そこら辺の確立に時間がかかると言うことなのかと思う。
能力と言うよりは単純に、
企業としての経験の差かと思うけれど。
これは礼儀作法等、
若い人が起業した会社と言うものは、
教えれる人がいないから、
どうしても長く続いてる会社と比較したときではあるけれど、
甘い部分があるとは思う。
ただ、むしろ自分の中ではこういった小さい企業のほうが、
礼儀と言うものの有用性が実感出来る機会が多く、
むしろその礼儀の度合いと言うものが
丁度良いようにも感じる。
失礼であれば仕事をもう貰えなくなったり、
トラブルの回避等、
理にかなったものとなっている、その実感が得やすい。
逆に大企業の礼儀や慣習は、
どこか過剰ではないかと思うところが多い。
そしてそれが常々ストレスだったりする。
仕事として理想は何かと考えたときに、
むしろこのフリーの人が始めた会社の、
若干のびのびした部分と言うものがむしろ合致していたのではと思う。
怒られたりしても、
むしろ理にかなったことをいっているのでストレスにならない。
要はくだらないことで怒られたりはしないという心地よさはある。
ただ、
安定した、潰れない、生活を保障する、
はたまた、トラブルがあっても如何様にも対応できる、
要は失敗をほかで補えるかというところで、
中々小さいところやルールがゆるいところと言うのは、
難しいところもある。
また、こういった小さいフリーの人がはじめることが出来るのは、
都市部特有なのかもしれないなとか思う。
仕事があるないという一つの実感として、
こういった若い人たちの起業の成り立ちやすさは、
都市部においての仕事の多さの象徴なのかと思う。

ブルーカラー・ホワイトカラー

肉体労働者とオフィスで働く人を、
こういった呼称で呼ぶことがある。
ここでは社会的にどうかと言うことではなくて、
あくまで自分が仕事と言うものを、
考える上での参考としてなのだけど、 一生懸命勉強して頭を使いオフィスで仕事をして不健康になり、
休日や仕事終わりに、
人によってはスポーツジムにお金を払い体を動かす、
ってなんなんだろとか思うわけで。
どこか大昔の労働を自分は基準に、
考えているからかもしれないけれど、 普通は身体を使った作業と言うものは、
当たり前にあったはずで、
それが分業なのかなんなのか分からないけれど、
変に偏ってしまったが故に、
仕事以外で健康のために身体を動かすと。
仕事で動かしてれば良かったんじゃないのとか、
どうも思ってしまう。
あとはブルーワーカーは、
単純作業やルーチンワークをやらされる、
勉強が出来ないから体を動かし、
とか、
えらいひどく見下げられた形で、
ウィキペディアに書いてあって、
まぁ内容に対し検証不十分と書いてあったけれど、
実際頭をよく使う仕事を使っていた人は体力が伴えば、
ブルーカラー以上に出来ると言うことはまずなくて、
結局は経験と言うものに勝るものはない気がするし、
どこかしらの偏見がある様なない様な。
皆がどんな職業をやりたいかということもあるのだろうけれど、
そこのバランスによる差と言うか、
それが歪んだ形で認識はあって、
実際関わる中で馬鹿なんじゃないかと、
一切尊敬できない様に感じる人は、
決まってホワイトカラーにいて
(主に無駄にプライドの高い上司など)、
ブルカラーの人は実に理にかなった考え方をしていると思う。
多分それは自分達でやり方等を、
考えるからだと思う。
あとは就職就職と多くの人が求職にいそしむ中で、
前いた漆の職場の人たちは元々定職と言う形ではなく、
様々な現場に関わる中で生活をするのが当たり前になっているから、
知り合いが就職決まったと言っても、
あ、そうと言うくらいで、
就職すると言うことに対し、
羨ましがったりとかはしないと言っていた。
そこらへんはフリーで出来る自信があるゆえかとも思うけれど。
ホワイトカラーにおいての良さは生活の保障などの、
バックアップが充実していることなのかなと。
ものすごくざっくりだけど。
税金とか保険とか有給とかその他諸々。
実際解体業等をしていたときは、
体力的に大変なのも去ることながら、
番線カッターや安全靴、
ラチェットなど、
派遣元に聞かされてないのに、
何で持ってないんだと揃えさせられるし、
毎回場所も内容も変わるので、
諸々自分で覚えたり対応することが多かったのに対し、
今の職場はやることを指示されて、
やり方を教えられて、
言えばある程度言われたことを言われたままにやると、
ある一定の給与が貰えるのは、
楽だなぁと。
まぁ、あくまでバイト、派遣としての話で、
社員とかになるとそれぞれに違うのかなと。
なんにせよ、
仕事の内容を時間をかけて教えたり、
トラブルのないよう、
様々な準備等、システム作りをしてるのが、
ホワイトカラーの良さかと思うし、
逆にその場その場で、
働く人達が自ら考えて出来る自由さと大変さとは、
ブルーカラーの特徴なのかと思う。
楽なのはやることとか決めてある方が楽だけど、
逆に仕組みに縛られて、
自分だったらこうするのにと言うイライラもあるので、
一概にどっちが良いとは言えないけど。

時間給

オフィス移動などの仕事をしていた中で、
やるべき仕事が終わったのに無駄に待たされると言う、
なんとも馬鹿らしい状況になったこととかある。
最初にやっていたCFの撮影現場などでもあったりする。
そもそも何らかの行為に対し賃金が支払われるのであれば、
早く終われば帰ってもなんら差し支えない気がするし、
むしろ早く終わらそうと、
モチベーションと言うのもあがるもんじゃないのかなとか思う。
しかしながら実際は時間に対し、
賃金は支払われていることが殆どなのかと思う。
無駄にだらだらやっていても同じ評価(賃金)。
そして嫌なのは時間内にあれやこれや新たな仕事を振られるということ。
要は拘束時間にお金を払っている感じなので、
どこか支払われる賃金の対象が不明確で、
なんともイガイガする。
時間給であることのメリットとしては、
雇用者側が人件費を計算しやすくすると言うことなのかと思っていたけれど、
最近では被雇用者を守ろうと言う面もあるのかなと。
要は実際やってみたら思った以上に大変で、
予想より時間がかかった、
その保障をするために残業代という形で給与が追加で支払われるのかと。
そういった諸々の対応の基準として、
あるのかなぁと。

日本品質

日本人は繊細だとか真面目で勤勉だとか、
あとは日本製品は質がいいといった外国人の意見をテレビ等でよく聞く。
勿論それは日本にいるから聞く部分もあるかとは思うけれど、
実際そうなのだろう。
商品の品質を保つために必要なものの一つに、
生産者の情熱とともに、
消費者の厳しい視線と言うものはある気がして、
そういった意味で日本人という消費者は、
品質において極端に厳しい眼を持っているのだろう。
またその厳しい眼を持つ環境と言うものが日本にはあるのだろうと。
個人的には息苦しくもあるのだけれど。
徹底させると言う意味で、
同じことを他の場所(国)で行うことは難しいのかと思う。
ただ、日本人の求める中心と言うものは、
安定性なり、
言い方に語弊があるかもしれないけれど、
最低限確保されるべき品質であって、
独創性や斬新さに対するはうわべだけだと思うし、
本当の意味でのよきものと言うものを、
評価することには長けていないような。
高くていいものよりも安くてそこそこのものと言うのが、
基本的な日本人の消費対象であって、
飛びぬけて優れたものと言うものは、
海外に流出するべくして流出しているような気がする。
作品なんて本当にそんな感じがする。

価格決定の参考

あくまで実際そうであるというよりは、
自分が値段を決めるときに考えることなので、
参考程度に考えてもらえれば。
まず当たり前の話だけれど、
商品を全て売り切ったと仮定したときに、
制作費用よりかは高くする。
ただ、売れないことには意味がないので、
売れる価格にする。
その中で、極力値段を吊り上げると言うのが、
乱暴だけれど基本的な流れなのかと思う。
値段を吊り上げると言うと、
どこか負のイメージがあるようにも思えるけれど、
基本的に値段と言うものは販売者が責任を負うと、
又は品質を保証する面もあるわけで、
値段を上げるのはその商品がその値段の価値があると、
胸をはって言うことだと。
あとはその業界全体として、
価値、値段を上げようと言う、
そんな流れはある気がして、
大体知り合いとかの写真の相場は、
大四ツ切で3から5万位だけど、
まぁ、それが適正なのかどうなのかはよく分からないけれど、
その値段で売れている人もいるわけで、
長い間をかけて、
その値段を納得させてきた部分には、
ちゃんと敬意なりを払うべきなのかと思う。
だから、
清澄の方では安く売っていたけど、
新宿でやったときなどは、
その相場から大きく外れるような値段では、
売らないようにはしておいた。
売れなかったけど。
あとは買って貰った人に失礼のないよう、
売ったあと値段を下げることだけはしない様にしていて、
だから変に高い値段にして売れると、
それ以降売れそうにない値段で売らなくてはいけないので、
値段を上げるときは、
割りに気を使う。
特に自分は近所のおばちゃんとか、
気に入ってもらったら、
買うと言う選択肢を、
結果買わなくてももって欲しい
(迷って欲しい)と思うので、
人の場所などで展示をするときは、
ギャラリーの人に失礼のない様留意しながら、
値段はあまり上げない様にしている。
また、
妥協点として、
あげる部分と、
買うその始めになる部分とを、
分けたり出来るように、
キャビネを売ったりするようにもしてる。
それでも採算は、
売った分だけ取れる様には、
一応なってはいるわけだし。

本職の人

子供のころよくレトルトをけなし、
天然を褒めるみたいな話があった。
まぁおもに子供ものころなので、
料理漫画やアニメ、バラエティとかなのだけれど、
が、しかし、
レトルト食品の開発にしても、
それぞれに様々な努力をしているはずで、
その中で最終的に商品化されたものなのだから、
相応のよさがあるに違いないとか思っていた。
今となってそれに準じた形になるのだけれど、
それぞれの職種の中で、
それぞれ労力を費やした時間がある訳で、
たとえ少しくらいの得手不得手があったとしても、
時間の堆積には結局かなわない部分があると思っていて、
また、
逆を言えば本職の人は、
決して劣っていてはいけないと言う、
勝手な希望があったりする。
もし負けてしまうのであれば
今まで何やっていたんだと思うわけで。
だから自分でDMのデザインやらwebを作ったりしているけれど、
本職の人に勝っていると言うことは、
あり得ないと言うのが基本的スタンスで、
そういった畏怖や敬意は持っていないといけないと思っているし、
逆に自分の方がどう考えても良いと思えてしまうときは、
本職の人なのに、
不甲斐ないと思えてしまう。
ただ、
実際そんなことは早々ない。
一週間だけ、
Webの仕事場に潜り込んだことがあったのだけど、
商品の価格についてのデザインを任されたとき、
自分としてはそこそこ良くできたと思ったのを、
えらく酷評されて、
で、
実際作り直されたのを見ると、
明らかに自分より良かった。
わりに知り合いからは、
デザインとかは誉められていたのだけど、
ただそれもあくまで、
素人として上手いと言う状況だったのだろうなと。
その人に、
参考にしているデザイナーの人とか居ますか?
と聞くと、
自分達は作家ではないので、
あくまでクライアントの要望に、
応えれるようにやっていて、
特に他のデザイナーとかを見て、
それに負けぬ様に、
変に個性を出そうとかはしていないとのこと。
そのことを他の知り合いに言ったところ、
そう言うお役所仕事ではなく、
もっと創造性に貪欲にならないとといっていた。
でも、
よくよく考えてみると、
そのWebの仕事場の人も、
クライアントに応えることを第一に考えていながら、
より良くしようと、
応えるだけで終わらず、
その先を目指すべく、
努力をしていたのだろうと思う。
意識してるしてない関係なく、
出来ることで終えていたら、
仕事はなくなるのだろうし、
本職としてお金をもらうと言うことは、
そう言った諸々のことが、
自然と身に付くような環境にあるのかなぁと思う。
たまにDMやチラシを作るだけの自分の作ったものが、
デザイン的に、
勝るわけがないのだと思った。
勝る部分があるとしたら、
自分好みであると言う部分だけだろうと。
端的に分かりやすいのは、
本職の人と素人との、
こだわる部分の数の差だろう。
ついていけないだろうからと、
多分いってくれる機会も少ないだろうけど、
聞けば気が遠くなる位のこだわりかあるのかと思う
あと、
芸能人が写真を撮ったり、
絵を描いたり、
俳句を作ったり、
そうやって作ったものを、
本職の人が、
もっとこうした方がよい、
これは才能あるだないだ言ってる番組があるけれど、
好み等はあれど、
やはり本職の言うこと、
手直しにはある一定の良さ、
改善を感じる。
それはある一定のライン以上で、
本職の人はやっている、
またそのラインが、
素人と本職とを差別化する部分なのだろうし、
良い悪いはありながらも、
写真を展示しているものを見て、
特に複数回やっている人の写真は、
特にこうした方がと言う部分で、
口を出すことはさしてない。
まとめ方や選び、
並べに対しては、
ちょこちょこあるけど、
一枚の写真に対しては、
特に言うことはないわけで、
写真家が本職と言う言い方も、
経済的な部分では曖昧さは多分にあるけど、
素人ではないと言うラインは、
ちゃんとあるのだと思う。

経営者と被雇用者

コンサルタントと言う職種があって、
たまたま知り合いでいて、
あれやこれや提案しても、
通常業務が大変で、
そんなこと出来ないと、
やたらめったら、
反対されていて、
自分も外部からそんな人が来たら、
露骨に嫌がる方なので、
なんだか知り合いと言うこともあり、
耳が痛かった。
まず、
知り合いの主張としては、
このままやっていては、
じり貧だから、
現場の良さは良さとして、
その良さを気付いて貰うように、
なにがしらの手だてが必要だと。
その為にはまず、
何らかの策を、
なにがしらの試みを行いながら、
やっていかなければならないとのこと。
その試みをも、
自分達は今の仕事の時点で、
大変だから無理だ、
で、
押しきられてしまうと、
何が悲しくて、
残業までして、
データ分析やら提案をまとめたりしているのだろう、
とのこと。
うん。耳が痛い。
でも自分が現場の人だったら、
誰もそんなこと頼んでいない、
と言ってしまうと思う。
しかしそれでは、
知り合いが余りに可哀想、
と言うかこの状況の原因は誰だろう?
と思うと、
現場のその上の人、
経営者なのだろうと思う。
依頼をかけたのだったら、
その下をちゃんと説得しとけよ、
という話だろう。
さて、
その経営者としての考えは、
このままでは、
会社の先行きが宜しくない、
だから、
てこ入れをしなくてはいけない、
その為には様々な試みを行わなくては、
そんな試みをやるんだ部下達、
部下達だけでは負担が大きいから、
コンサルタントをつけておこう、
と。
一方の部下たちの意見はこうだと思う。
今ある給与が貰えなくなるのは困るけど、
会社のずっとずっと先など、
別にどうなっても構わない。
あくまで自分達の生活が確保される、
要はいる間、問題なければ問題ない。
すぐにどうこなるわけではないでしょ?
なら余計な仕事などふやさなんでよ。
今の仕事で一杯一杯だよ。
変な押し付けが強いなら、
転職しよ。
まぁ、これは極端だけど、
働いている会社に対し、
自らの生活を犠牲にしてまで、
会社の為に尽くそうと言う人は、
そんなにいないのではないかなと。
被雇用者では。
自分の場合は、
一回、派遣元が撤退して、
失職したことがあるので、
今となってはわりと他人事ではないなぁと思いつつ、
会社の為にと思ってやることは、
まだまだない。
自分も楽になるように、
効率的なやり方の模索はするけれど。
実際の理想を言うなら、
下からも様々な意見が出て、
会社も発展し、
被雇用者にもそれ相応の還元がある、
と言うことなのだろうけど、
でもそれは経営側の理想であって、
その理想による負担を、
被雇用者に負担させるのは違うのかなと。
負担させるというよりは、
命令によってやらせるのは、
経営者が無能なのだろうと。
望む人がまず負担をするべきで、
それはその必要性に気付いた、
と言うのも同意で、
会社が発展することを望んだら、
望む人が率先し、
被雇用者にそうさせる様、
頭を捻るべきなのだろうと。
まぁ、逆を言えば、
一人一人が考えなくても、
ちゃんと生活が成り立つだけ、
売り上げが上がっている状況は、
すごいのだと思うけど、
長い目で見ると、
何らかの施策は必要なのと、
現状として、
人件費を削りすぎて、
作業があっぷあっぷなのの上でやる前に、
そう言った試行錯誤をする為の、
環境整備なども必要なのだろうと。
また、
高度経済成長を経験している経営陣の、
昔のやり方への固執、保守体質も、
新しいやり方を試すのの、
障害にもなっているのだとか。
なにも会社ばかりではなく、
集団行動において、
身近なところではギャラリーとかやっていると、
同じ様なジレンマなり悩みはあったわけだから、
写真をやっている人も、
機会がもしあったら、
そう言う人と話してみると、
意外と共通する部分があって、
面白いと思うのだけど、
写真と仕事を別物としてとらえ、
関係ないと思ってしまうと、
なにも面白くないのかも知れないけど。

買い手と売り手

お客様は神様です
お金を払っているんだぞ
俺は客だぞ
と言った、
お金を払う側の意見が、
やたらと強い言い回しなり考えが嫌いで、
日本人と言うくくりなのか、
はたまた別の何かなのか、
お客さんはお店の方よりえらい、
お金を払うからには、
質を強く要求出来ると言う、
そう言った風潮がある気がして、
一つにはそう言った部分で、
商品・サービスの質はあがる、
または保たれるのはある気はして、
確かにその部分による恩恵は、
否定し得ないものとは思いつつ、
不満があるなら買わなきゃ良いじゃん、
ある一定以上の質より先は、
代金に含まれてないんじゃないの?
と、
言った感情の方が、
自分は強い。
それは自分が売り手の時もそうだし、
買い手の時も、
そんなミスをしたって、
へりくだって謝らないで下さい、
とか、
よくよく思う。
特に感じるのが、
居酒屋等での、
言葉の使い方で、
店員が敬語を使うのなら、
お客も敬語を使うべきなのではないかなぁと、
一緒にいく人の言葉遣いとか、
変に気になってしまう。
自分の場合は、
仕事の時と普段と、
極力態度を変わらないのが良いなぁと思っていて、
知り合いに対して、
失礼のない態度でなかったら、
問題はなく、
知り合いに対して失礼なら、
それは問題だと思っていて、
へりくだるのは、
大は小をかねる (すごく丁寧なサービスは全部に対応する)ようなこととは、
全然別の話だと思うから、
過剰にお客にサービスするのは、
おかしいのではないかなと思うし、
お客であるか否かの差違で、
態度が変わるのは、
相手を人ではなく、
財布として相手を見ていると感じるから、
それが嫌で、
客だからと言う気の使い方が嫌いなのかと思う。
お互いが対等であると言う意識の中、
お金が発生すると、
その分余計に慎重にもなるし、
正しい配慮が生まれると思う。
今はお金を払う側が変に強いから、
殿様商売を割りと肯定的に感じてしまうけど、
でもその気質が強すぎたら、
違和感を感じるだろうし、
あくまで対等な立場の上で、
礼儀と言うのは形成されるべきだろうし。
しかしまぁ、
実際そんな買い手側が横柄な態度をとったりしているかと言えば、
殆どそんなことなく、
ちゃんとお互いにに気は遣っているのだけど。
店員側の気遣いは、
人としての善意で、
お金と切り離してあって欲しいし、
それを受けとる側も、
それが当然、
それが満たされていないと、
態度が悪いとか思うのは、
行きすぎた要求かと。
笑顔で対応とかも、
店員にもし要求するのであれば、
客側も笑って入っていきたいものだなぁとか、
そんな風に思う。

経営者と被雇用者2(役割)

知り合いのコンサルタントと話す中で、
役割分担の不明確さが、
責任を曖昧にし、
結果として上手く機能しないとの話があった。
で、
その人と話す上で、
役割とはどうあるかと言う話。
まず経営者と言うものは、
被雇用者を活かすための、
仕組みを作るのが役割で、
逆に被雇用者は、
その人が出来るサービスの向上を目指すべきだと。
乱暴にまとめると、
経営者は良い意味で被雇用者を、
上手く転がして、
全員にお金を還元する仕組みを作るべきなのだと。
また、
被雇用者が変な方向に暴走しない様、
コントロールするのも、
その役割に含むとのこと。
要は被雇用者の行動を、
如何にお金に変換できるかが、
経営者の手腕だろうと。
逆に被雇用者は、
経営者が作った仕組みの中で、
如何に現場で良いサービスを提供出来るかに従事するべきで、
売り上げに留意するのは、
あくまで経営者の役割だから、
本来は必要のないこととのこと。
違和感もあるけど、
役割を明確に捉えるなら、
確かにそうで、
売り上げ等まで踏み込めば、
それはもう経営者側であるとのこと。
話をしている中で、
映画監督とスタッフの関係性に、
似ているなぁと思って、
特に溝口健二氏のエピソードで、
カメラマンや役者が、
監督、これどうしましょう?と聞いたところ、
それを考えるのは貴方の役目でしょう、
と、
それぞれのやり方を、
それぞれのスタッフないし、
役者に任せ、
その統括、上手くそれぞれが機能する、
活きるようにまとめるのが、
監督の役目と言うことらしい。
まぁ、映画の場合は、
その上で資金を集めたり、
配給会社に売り込んだりする、
プロデューサーなる役割を介し、
お金には繋がるのだけど、
構造としては似ているのだと思う。
現在は経営者が被雇用者に、
経営のアイデアを出すことまで要求して、
逆に現場でのサービスがぎくしゃくしてしまうか、
変に反発を受けて、
全体として上手く機能しないことが多いのだとか。
逆に被雇用者も変に、
経営までに口を出すから、
暴走することがあるのだとか。
実際現場で実際消費者と接する、 現場の意見と言うものは、
すこぶる強いものだと思う。
ただ、
それを経営に活かすのは、
経営者の役割だと思うし、
その意見を吸い上げる方法を、
模索するのが大切なのだとか。
売り上げが伸びないのは、
経営者の責任。
サービスが悪いのは現場の責任。
そう言う区分が、
とりあえずの自分の中で、
適切だと思う組織の構造かと。

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